休松の戦い休山茄子城合戦戸次家中戦死者の眞相


   「
休松古城」とは、福岡県甘木市街の北東太平山に連なる低山で、標高は300mほどである。
   今は「
安見ガ城」と呼ばれている。明治33年に発行されこの地域の
1/50000の地図では「休山茄子城」となって
   いる。当時、陸軍参謀本部陸地測量部は測量に際し、陸地測量手のもとに案内や資材運搬人として、現地の地理地
   名に詳しい者を雇用した、地名等は正確な筈である。少なくとも明治の頃までは「やすみやまなすじょう」と呼ば
   れていたことはまず間違いない。
   大正年間の修正版では「安見ガ城」と変わっているので、この頃から「休」を「安見」と呼ぶように変化したとみ
   られる。「大友興廃記・巻十七」では「なすみ松合戦の事」とある。また「貝原益軒」筑前国続風土記は「茄子町
   (城?)」と添え書きがある。当時この山は「茄子城」と呼ばれていたことは間違いない。
   「休松」の呼び名は、「やすみなす」が「やすみまつ」と変化したか、後世の伝聞に違いがあるとみられる。

    
中世戦国期、「休山(安見ガ城)」は「古処山城」筑前秋月氏の支城であった。頂上は細く狭い峰。現状は雑木林と
   なり、往時の壮絶な戦いを偲ばせるものはない。当時は斥候や見張りを置く砦程度であったと見られる。
   近年周辺に遊歩道が整備されアクセスは楽になったが、大々的な伐採によって風景が様変わりした。

               
               
安見山遠望 両筑平野より望む(右の小山、左は太平山、遥か遠くに古処山への山並み)

   
休松の戦い」とは永禄10年8月豊後大友氏勢の筑前秋月「古処山 秋月種実討伐」の序戦と「秋月種実夜襲戦」の
   総称である。
   永禄年間「秋月種実」は、宝満山の「高橋鑑種」らと中国「毛利元就」と通じ筑前において侮れない勢力となって
   いた。「種実」は父「文種」の自刃後中国に逃れ毛利氏の庇護を受け成人、秋月に復帰大友氏への反旗をあげた。
   筑後に出陣した大友軍はこの種実を討伐すべく永禄10年8月14日「戸次鑑連・吉弘鑑理・臼杵鑑速」の諸将は二万
   余騎を以って秋月長谷山まで押し詰めた。これに秋月勢は杉の本の邑城より打って出て、1日に七度の鎗合わせの
   激戦となり、「鑑連」も自身太刀打ちするなど秋月勢を押し込む。このため秋月種実は一端古処山城へ引き籠る。
   この合戦の序戦で茄子城の守将「坂田越後守」は自刃、この時介錯で首が淵に落ち「首淵(つぶろぶち)」の地名
   今に残る。秋月勢が古処山に籠ったことにより戦況は膠着状態となる。大友軍は持久作戦をたてる。こうした中、
   大友陣中に中国毛利襲来の噂が流れる。
   この噂に、大友勢に加わっていた筑後の諸将達は何かと理屈をつけ引き上げてしまった。このため大友宗麟は一旦
   兵を筑後川まで引き守りをを固めるよう命ず。大友軍は陣を引くことになった。
  「戸次軍談」によれば、この情報を得た「秋月種実」は9月3日一万二千余騎を四手に分け三木に陣を張り、次第に
   兵を繰り出し「休松」の「戸次鑑連」陣へ押しかけた。そこは鑑連、いち早く斥候がこれを注進する。
  「鑑連」は急ぎ三千騎を率い吉光まで侵攻。先鋒小野和泉、由布美作五百余騎、中軍戸次鎮連六百騎、後軍戸次鑑連
   五百騎、殿軍内田壱岐、堀安芸六百余騎で備え、吉光〜休茄子間に嘘旗を掲げる。
   秋月治部少輔内田善兵衛三千余騎と、小野和泉守、由布美作五百余騎と槍あわせとなるが、小野和泉に由布美作も
   七ヶ所もの太刀傷を負いながらも秋月勢を三町ほど追い立てる。秋月の綾部駿河五千余騎、戸次鎮連の備えを囲ん
   で掛かるが、鎮連馬の鼻を虎頭に備え突き崩し引かせる。変わって秋月治部の二千騎、鑑連本陣めがけて切りかか
   るも、鑑連の後詰め六百余騎うめき叫んで攻め掛かり、鑑連も馬上より采配を風手に指揮、太鼓を盛んに打たせ、
   血しぶき舞う激しい戦いとなり双方に多くの戦死者でる。秋月勢の多くは銃卒に当って崩れ、ついに五町(550m)
   余りも後退する。

        
            太平山より安見山望む            安見山本丸跡、最近周辺整備にて
             直下に遊歩道が建設された             踏み荒らされている


   鑑連にいい様にあしらわれた種実、何とか一矢浴びせたいと思案を巡らすも、鑑連の三十町もの嘘旗に新たな援軍
   ありと軍を引く。種実の休山出陣に、大友の臼杵鑑速、吉弘鑑理の両将はこの間隙を突き古処山乗っ取りを企てる
   が、種実は既に帰城していた。
   種実は、昼間の負けに等しい結果に憤懣やるかたない中、大友軍開陣の報に加え、おりしもその夜は風雨激しく、
   これに紛れ不意を突く夜襲を決行、二千余騎にて臼杵越中、吉弘左近陣へ突き出した。両陣営は陣引きのところへ
   夜襲をかけられ大混乱となり、遂に休松の戸次陣へとなだれ込んだ。鑑連は種実の今日の負け戦に、風雨をついて
   夜襲もあらんと警戒、鎧も脱がず鞍も下ろさず鉄砲の切火縄して備えた。なだれ込んだ臼杵、吉弘勢に戸次陣も乱
   れ同士討ち演ずる醜態。これを見た鑑連少しも騒がず予ねて用意の大かがり火を焚かせ自らも槍を取って突き払い
   「たとえ夜中とはいえ、敵味方の見分けもつかぬかと」同士討ちを治め、落ちてきた臼杵、吉弘勢を助け、秋月勢
   と戦いながら筑後路へと隊を誘導、赤司城経て山隈城へ引いた。
   しかし、地の利に長けた秋月の猛攻に、大友勢は400人以上が戦死。中でも鑑連陣の損害大きく、家中名のある武
   将含む五十余人戦死。其の中に鑑連の身内五人が首を取られ、負けに等しい合戦となった。
   この悲報に「宗麟」は永禄十年九月八日、鑑連に弔意文を送る。


           「おって申し候。今度の合戦に別けて粉骨尽くされ、舎弟中務少輔、同兵部少輔、刑部少輔、
            隼人佐、右京亮その他家中の仁等戦死の由承り候。鑑連朦気推察せしめ候。なかんずく、
            隼人佐こと、この節同陣あるべきの由承り候条、雇われも申し候処、結句用に立ち候。不便
            の儀候。今にては入らざる儀に候お雖も、その砌頼りに抑留申す可き物をと・・・ 以下云々」

        
五人については鑑連の「弟」説が通説となっているが、弟説は系図上では確認出来ない。
      そこで、古い資料や、系図より検証した。戦死した五人の名前について
   
        「筑前国続風土記   : 戸次中務丞鑑方、同治部少輔親宗、同刑部少輔親重、
                     同兵部少輔鑑賢
        「戸次軍談」     : 戸次中務丞鑑方、同治部大輔親宗、同刑部少輔鑑繁、
                     同兵部少輔鑑堅
        「立花文書」     : 中務少輔戸次鑑堅、兵部少輔戸次鑑方、刑部少輔戸次親繁
                     隼人佐、右京亮
        「米多比戦死帳」   : 戸次中務少輔鑑方、戸次治部少輔親宗、戸次兵部少輔鑑堅
                     戸次刑部少輔親繁、戸次治部之丞
        「戸次系図上休松戦死」: 中務少輔鑑方、治部大輔親宗、刑部少輔親繁

     これらの記録と、戸次系図の記述より戦死の五人を特定する。


             
中務少輔  :   鑑連実弟     「鑑方
             
兵部少輔  :   鑑連従兄弟    「鑑堅(鑑連叔父 親永子)
             
刑部少輔  :   鑑連従兄弟違い 親繁(鑑連大叔父 親正子)
             
隼人佐   :   鑑連従兄弟違い 親宗(鑑連大叔父 親正子)
             
右京亮   :   鑑連叔父     「親久
 
                     
                        戸次系図に見られる「親繁、親宗」      
                        部分の筑前休松戦死の書き込み。
                        但し、年号が永禄二年と有り、これは
                        合わない


        このように特定される。「鑑方」「親繁」「親宗」は戸次系図にも休松戦死のことが書かれて
        おり確認される。また、鑑連の重臣であった「米多比氏」の戦死帳とも一致。高い精度ででこ
        のように断定出来る。これは五人を鑑連の弟する説とは異なる。戦死五人の鑑連弟説は、宗麟
        弔意文の解釈によると思われる。
        宗麟が弔意文で「隼人佐(親宗)」の戦死を「かわいそうでならない」と書いたのは「親宗」
        は鑑連よりは高齢で、鑑連とは度々合戦を共に戦っている。父が早く病死した鑑連には「父」
        代わりの存在で有ったからではと推定される。
        「米多比戦死帳」は、多くの合戦戦死者が記載されているが、冒頭に「休松戦死」が記録
        されていることは「戸次一族」にとって相当の衝撃であったことを覗える。「米多比」は鑑連
        の重臣であった事からそうなったのであろう。

  
        この合戦において戸次陣中が混乱したことは、その損害の大きさから推測できるが、臼杵勢ら
        がなだれ込んだ時鑑連陣地は朝飯時で、鑑連は兵卒を落ちつかせるために悠然と握り飯を口に
        放り込んだという逸話がある。どこまで史実か分らないが、鑑連が叱咤し奮起を促したことは
        事実であろう。



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