吉弘嘉兵衛統幸                                         



     
六郷満山の地「吉弘統幸の故郷

      「吉弘嘉兵衛統幸」は、豊後国国東都甲荘で「吉弘鎮信」」の長男として生まれた。吉弘氏は屋山城
     (八面山)を本城に、平時の住まいを屋山麓の「筧城(館)」に置いた。
     吉弘氏は国東六郷の一つ、武蔵郷吉弘を初代「吉弘正堅」が本貫地としたが、永享9年の頃、吉弘氏の
     本家田原氏より都甲荘を「正堅」に与えられ長岩屋を本貫地とした。
     吉弘一族は、屋山城(八面山)の麓を流れる長岩屋川沿いの館(城)に住んだと言う。場所は特定さ
     れてないが、「堀の内」という説、吉弘氏の菩提寺「金宗院」跡付近とする説がある。
     都甲荘に入った吉弘一族は「満山中山」の一つ屋山の「長安寺」に「六郷執行」として入り六郷の武
     士をも指揮し国東半島における支配体制を確立していく。それを強固なものにしたのは「
吉弘鑑理
     「
吉弘鎮信」「吉弘統幸」である。
     「吉弘鑑理」は「大友宗麟」の信頼厚く「戸次鑑連・臼杵鑑速」と共に「豊州三老」と謳われ「岩屋
     城」で玉砕した高橋紹運(吉弘鎮理)の父でもある。

    (注「
六郷満山」)
      俗に云う六郷満山文化とは、宇佐神宮の八幡信仰(八幡とは、応神天皇を主神とする、神功皇后、
     比売大神の三神を指す。一般には八幡様とは応神天皇を指す)と古代仏教が融合、天台宗と結びつき
     豊後国国東半島に生まれた仏教文化である。
            六郷とは、
国東(くにさき)、武蔵(むさし)、田染(たしぶ)、
                 
来縄(くなわ)、安岐(あき)、伊美(いみ)の六郷をいう。
     満山とは、天台宗の学問、修行、布教の場所を、本山(もとやま)、中山(なかやま)、末山(すえ
     やま)の各山に分け、その総称で包めて六郷満山という。
     一時国東には、100を越える寺が存在しその総寺(惣寺)が中山「長安寺」であった。
     (六郷執行とは、本来満山の僧侶を統括するものであったが、次第に吉弘氏の支配を受けていった)。


     吉弘氏の本城はもちろん「屋山城」であるが、その築城の経緯はよくは分からない。  現在広大な
     「屋山城址」に残る「堀切り」「竪堀り」切岸」らの遺構は「大友義統」の時代「
吉弘嘉兵衛統幸
     によって本格的に整備されたものと考えられている。

               
         
筧城の在った辺りとされる金宗院跡付近より屋山(八面山 543m)を
         望む。屋山城は相当広い縄張りを持っていたようである。
         豊後最大の山城「山野城(竹田市)」にも匹敵する



    
  吉弘嘉兵衛統幸は、父吉弘鎮信が耳川で戦死ののち、吉弘氏最後の「屋山城主」となった。主君

     「大友義統」改易後、従兄弟にあたる柳河「立花宗茂」に2000石もの高禄を拝領していたが、 旧君
     「義統」の「石垣原挙兵」の折、暇(いとま)を申し出て参陣。統幸は「義統」に思いとどまるよう
     諫めたが聞き入れられなかった。
     敗戦濃厚の中「統幸」は「義統」に最期の別れを述べ、僅か三十余騎の手勢と共に敵陣の中へ下って
     行き、慶長5年9月13日(1600)「関が原の戦い」の直前。石垣原の激戦地「七つ石」と云う場所で壮
     烈な討ち死遂げる。37歳であった。現地には統幸が最後に上がり腹を掻っ切ったとされ大石がある。
     石垣原敗戦後、屋山城は「黒田如水」に攻められ、統幸の妻は僅かな手勢で応戦したが、多くは討ち
     死したと言われる。


      「 金宗院 跡 」(豊後高田市 松行)

             金宗院は、国東六郷を支配した「吉弘氏」の菩提寺であっとされる。
             現在は廃寺となり、跡地には「
吉弘嘉兵衛統幸」の墓がある。
             「
統幸」の墓は別府市「吉弘神社」にもある。
             金宗院は「統幸」が石垣原敗戦の後は無住職となり、衰退したという。
             跡地には、統幸の墓のほか、仁王像、十六羅漢、歴代住職の墓、など
             多く残されている。

             金宗院は、R10号よりR213号へ入り、豊後高田市の市街部「新地」
             交差点右折、県道29号川を渡り市役所そば抜け突き当たりをさらに
             右折、一路「松行」地区まで進む、右手の都甲川に「吉弘橋」が架か
             る、其の反対側に「金宗院跡入り口」の小さな案内標識があるるので
             ここを斜めに道なりに登って行く。狭いカーブを過ぎると、一番奥の
             民家の右手が金宗院跡である。
             小型車一台程度の駐車スペースは、路傍に確保できるが要注意。


                  
          
        金宗院(吉弘氏菩提寺)跡の石積み
                 吉弘氏の平時の館「筧城」はこの金宗院跡
                 付近、松行辺りにあったとされる

     

                        
                            金宗院跡の吉弘嘉兵衛統幸の墓
                      吉弘嘉兵衛統幸の墓
                     統幸の首を埋葬したところか



    
吉弘統幸吉名川悲話(よしながわひわ)

     
     吉弘嘉兵衛統幸(吉弘鎮信 嫡男、高橋紹運の甥子、立花宗茂従兄弟)
           (永禄7年〜慶長5年9月13日  37歳 戦死没)


         
吉弘嘉兵衛統幸は慶長5年(1600)大友義統に従い「関が原の戦い」の直前行われた
         「石垣原の戦い」で「黒田如水」の大軍と戦い、壮絶な戦死をとげる。
         「統幸の首」は首実検の後「石垣原」の獄門台にに晒されたという。
         統幸の戦死を聞いた「吉弘氏」の菩提寺「金宗院」の住職は「統幸」の霊を弔うため、
         密かに石垣原へ「統幸の首」を取り戻しに行きました。
         「統幸の首」は風に光るカヤ原の中に変わり果てた姿で晒されていました。住職は涙
         ながらに「統幸の首」を背負い、鹿鳴越より奥畑を経由しやっとの思いで統幸の故郷
         「長岩屋」に帰ってきました。
         前の長岩屋川で統幸の首を洗おうとしました。すると「
統幸の首」はカツを開き
         「
ああ! 住職よしな吉名・やめなさい)」と叫んだのです。
         住職は大変驚き洗うのをやめました。そして寺(金宗院)へ持ち帰り供養しました。
         それからいつしか人々は、首を洗った此の場所(長岩屋川)を「
吉名川」と呼ぶよう
         になりました。


                      
                             
案内板の絵 
                  
吉名川(長岩屋川)と呼ぶ付近の現況は
                きれいな水が流れている


          「吉名川悲話」伝説の案内板は、金宗院跡のある松行地区より、
           天念寺(川中不動)方面県道548号へ入る。
          現道(旧道)を暫く進むと、天念寺の少し手前にトイレのある広い
          駐車場がある。其の川沿いに建っている。
          なお「吉名川」と呼ばれる場所は、これより2kmほど下流である。




 

     下馬之松伝説 (別府市石垣西六丁目:吉弘神社
           
            
             別府市に「吉弘神社」という神社がある。
            吉弘神社は「
石垣原の戦い」で戦死した「吉弘嘉兵衛統幸」を御祀りする神社である。
            (「統幸」は、高橋紹運の甥子に当たり「立花宗茂」とは従兄弟にあたる。宗茂の柳河へ
            同行していたが、旧君「大友義統」の石垣原挙兵に応じ宗茂に暇を申し出た。吉弘氏は、
            紹運といい、統幸といい、忠義に厚い武家であった)
            明治の頃までは「石祠」しかなかったが大正のころ、吉弘氏の後裔や住民有志によって、
            拝殿が造営された。吉弘神社の裏手には戦死した「統幸」の墓がある。
            かって、この統幸の墓の傍には「
下馬之松」という松の大木があった。吉弘統幸の墓
            吉弘神社の裏手に有って、一部路地が残っている。これはかっての豊前街道の名残だ
            そうで多くの人が行き来していた。一般人はおろか、どこの国の太守も乗馬したまま松を
            くぐると災いがおよぶとあって必ず下馬したという。以来この松をいつしか「下馬之松」と
            呼ぶようになった
            また、統幸の墓に詣でると、猛将の威力で難病も平癒すると、参拝が絶えなかったと言う


                           
                    現在の「下馬の松」。吉弘統幸没後400年この松は何代目?


                                 

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