豊後国軍丁(ぶんごのくにいくさよぼろ)
「丁(よぼろ)」とは、古代律令政治において、中央集権国家のために課役を担わされた成人男子のことで
ある。
「丁」は本来、脚の「ひかがみ(膝の裏の窪み。よぼろくぼ)」を指し、脚力を意味する。平たく言えば、足腰を
使う役務を担う意味である。
したがって「軍丁(いくさよぼろ)」とは軍事の為の課役を負担する、即ち「兵士」を指す。
日本書紀「持統天皇」の紀には、「白村江の戦い」に出兵し、30年を経て帰国した「大伴部博麻」について、
「軍丁(いくさよぼろ)」と伝えている。
武家社会では12歳〜16歳で元服し大人になった。従って中世戦国期、嫡男の初陣は多くは元服後であった。
古代国家では働き盛りの成人男子を「正丁(せいてい)」と呼んだ。正丁は21歳〜60歳までの男子が対象で、
是に比し17歳〜20歳を「少丁・中男とも言った」、61歳〜65歳を「次丁と言い老丁とも言った」と言った。
そして其れどれには「租庸調」が課せられたが、「正丁」には過酷な課役を担わされた。それは「正丁」の3人
に1人は軍丁(いくさよぼろ・兵士)として徴用されたからである。兵士に徴用された者は「庸(都での労役、
又は布2丈6尺収める)」と「雑徭(ぞうよう・年間60日を限度に、国衙の雑用、土木工事への従事)」が免除
されたが、100日間に10日の割合で「軍丁」として軍事訓練を受けた。兵役は年間30日は軍団勤務を強いら
れたのである。
古代大和政権では軍団制度がとられた。軍団は諸国に置かれ、中央より派遣された「国司」。その下には、
地方有力者などより任命された「郡司」が統制した。軍団の統率はは軍毅で、「大毅」「少毅」「校尉」「旅帥」
「隊正」「火長」が置かれ、兵10人で1火を構成し火長が統率した。軍団は規模により50人を隊正、100人を
旅帥(りょすい)、校尉(こうい)は200人。200〜400人は少毅1名、600〜800人は大毅1名、1000人以上は
少毅2名に大毅1名で統率した。
兵士に徴用された者は、30日分の食料にあたる糒(ほしいい)6斗、塩2升、それに武具、旅費は自前であ
ったので、大変な負担であった。
兵士は有事(国家に対する反乱)には征討軍に従うが、平時には国衙倉庫などの補修、関の守衛、罪人の
護送などあらゆる雑用に使われ、有力者の私役にも狩出され奴隷であった。兵士の中には「衛士(えじ)」や
「防人(さきもり)」にも指名される者もいた。宮城、宮中の警護に当たる衛士は、諸国より20人、30人と集め
られ、3年が期限であったが長年の課役を負担させられる者も多く、逃亡も多かったという。
防人は「大宰府」の管轄の下、筑紫、壱岐、対馬などの辺境の警備に送られたのである。
天長3年(826)11月3日の「太政官符(だじょうかんふ)」には「兵士の賤(せん:身分の低いこと)、奴撲(ぬぼ
く・下男)と異なるなし、一人点ぜられば(徴用)、一戸随って亡ぶ」とあると云う。
当時、人民農民は、正丁を基準に租庸調のほかに、雑徭(ぞうよう・雑用)、仕丁、出挙(すいこ・春に官苗
貸付、秋に収穫の50%回収)、義倉(ぎそう・緊急時のための蓄え徴収)などあらゆる負担を強いられた。
「雑徭」は少丁、次丁にも徴用があり。農繁期に人手を奪われるなど、農民の人手不足は深刻であった。
一人の軍丁(兵士)徴用は、その一戸に過大な負担を負わせることなり没落することもあった。このような
一家は、富裕な家に引き取られ、働かされたのである。
677年頃の物で「東大寺」に伝来する、「豊後国戸籍断簡」の中に、「川内漢部佐美(かわちのあやべさみ)
年43歳、兵士」、「川内漢部赤羽(かわちのあやべあかは)年25歳、兵士」と云う記述があると云う。
豊後国でも「軍丁」として兵役を担った者がいたことがわかる。
「赤羽」は、戸主「川内漢部等与(とよ)」の従子「刀良(とら)」の弟で、男子6人、女子9人の15人家族であっ
たが、正丁が4人居た。正丁、3人に一人は兵役の義務があったので、「赤羽」も其れにそって徴用された
ものとみられる。
「等与(とよ)」一家は古代国家では恵まれた一家ではあったが、「口分田(律令制の中で、民衆に与えられ
た農地)」よりの稲の収穫量は500束あまりであったと見られる。この中より一家の「租庸調、出挙、義倉」
の負担は、184束にもなって、残りは316束余りしかなかった。等与一家には944束稲が必要であったが、
とても足りなかったのである。そうした収穫の中で、「赤羽」の兵役の自己負担を考えると、一家にとっては
一家の浮沈にかかわる大変なことであった。
「豊後国風土記」によれば、豊後には軍団が二箇所におかれ、「大分郡」と「玖珠郡」に1600人が徴用
され、大分郡にはその内1000人が配置され、「赤羽」は大分郡の軍団に配属されていたと見られる。

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