夜泣き観音 (福岡県粕屋郡新宮町千田)


   筑前「立花山城」は元徳2年(1330)「大友貞載」によって築かれた。以後豊後「大友氏」の筑前筑後支配の要の
   城として「西の大友」とも呼ばれ筑前筑後の中で最も主要な山城であった。
   永禄8年5月(1565)立花山城第七代「立花鑑載」、突如「大友義鎮」に謀反。この時は一旦鑑載が反意を翻し修
   まる。しかし永禄11年2月(1568)鑑載は重臣の「薦野三河守、米多比大学」「を謀殺。立花山白岳城の怒留湯
   湧泉を襲って再び謀反。そして同年4月6日鑑載は宝満山高橋鑑種の手勢に中国毛利の支援受けて一万余騎
   にて挙兵。激怒した「大友義鎮」は大友重臣でも参老と呼ばれた「戸次鑑連、臼杵鑑速、吉弘鑑理」に討伐を命
   じた。4月24日大友勢は「戸次鑑連」を大将に三万の軍勢で立花山城を包囲する。戸次一族からは「戸次鑑直
   戸次次郎兵衛戸次刑部戸次治部」らが参陣した。討伐戦は三か月にも及んだが立花山城は要害堅固、攻
   めて側も苦戦を強いられた。こうした戦況の中策将の異名も持つ鑑連は鑑載の重臣にて「野田右衛門大夫」に
   接触裏切らせる。右衛門が木戸を開け大友勢を引き込んだことで立花山落城、鑑載は城を脱出北に向かい一
   旦古子山に落ち、軍を立て直そうとするが叶わず新宮浜目指すも鑑連の大軍に遂に追い詰められ腹掻っ切る。
   「鑑載」の首級は豊後へ送られた。

   立花山城が落城したとき鑑載の妻は我が子を抱き立花山を脱出しましたが、追手を逃れて橋の下に隠れます。
   しかし子供が泣き止まずもはやこれまでと「観音経」を唱えると、子供は泣き止み無事逃げ延びたと伝えられて
   います。この伝説が伝えられる観音様「夜泣き観音」が新宮町にあります。国道三号線の新宮町須川交差点
   より県道540号を立花山方向へ入ると直ぐに千田交差点。右へ右折して50m程の左手にある。
   
      
             夜泣き観音御堂                           説明版

                   
                               観音様のお顔
                      格子戸が取り替えられよく維持されています


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