大友 頼泰

                最初に豊後下向土着した大友氏第三代「豊後守護職」


      大友頼泰(おおともよりやす:1222〜1300) 父:大友氏二代「大友親秀」・母「三浦家連女」・幼名は「泰直」
      といった。後に「薬師丸」。元服後「頼泰」、官位「丹後守、出羽守、兵庫頭」
      正安2年9月17日(1300)没す。 法名 : 道忍    諡号 : 常楽寺殿道忍大禅定門

      大友系図等では、豊後大友氏は初代「能直」が豊後下向したとの記述や、大野藤北常忠寺には墓まであるが、
      「能直」、二代「親秀」は豊後下向の記録はない。両名は京、鎌倉に在住し守護代を派遣し統治にあたった。
      一説には、 「能直」の実弟「古庄重能」が派遣されたとしている。大友氏は三代「頼泰」になってようやく豊後
      入りを果たす。
      しかし、その時期ははっきりしないが、仁治3年(1242)頃には既に「豊後守護職、鎮西一方奉行」を相伝してい
      たとされ、「頼泰」は10代の後半には家督を相続していたことがわかる。
      建長4年(1252)幕府の「格子上下(あげさげ)」定めでは「京都大番」六番の名がある事から、頼泰は相伝後
      も鎌倉に在住していたと見られる。「頼泰」の豊後下向は正確にはわからないが、文永8年(1271)蒙古襲来に
      備え幕府は、西国に所領の在京、在鎌倉の御家人たちへ、領国へ下国し警護を命じている事から、この年に
      下向したとされてきた。しかし建長6年(1269)には、守護所「高国府(たかごう)の一部を手に入れていること。
      また、同年玖珠郡の「野上資直」へ宛て、上府せよとの守護職としての書きくだしのあることから、1269年には、
      豊後入りしていたと見られている。
      
       文永11年10月20日、蒙古は900艘もの軍船で博多湾へ押し寄せた。この時「大友頼泰」ら豊後勢はは、少弐
      資能らと共に博多西部で戦った。この時の「頼泰」の騎馬姿が残されているという。しかしこの時の「頼泰」の行
      動の評判はいたってよくない。豊後勢は第一線に出て戦うことなく、警護に名をかりて多数が出陣しなかったと
      いうのである。幕府はこれらの者の名前を注進させ、処罰を通達したという。
      この時の「頼泰」は臆病者とされ、蒙古襲来時文芸の「歌道」にまでうたわれた事はよく知られている。
      幕府は蒙古襲来に備え、九州各国の守護に命じ筑前海岸の常時警備を強化した。幕府はさらに異国出兵の
      準備を命じ、大友頼泰はこれに従い、船、水夫、兵士、武具らの準備を進めるが出兵は中止される。
      その後弘安4年大友、少弐を大将とする再計画が立てられるがこれも中止された。
      変わって幕府は、博多湾一帯に石塁(防塁、石築地)の建造を命ず。大友氏の持ち場は「香椎浜」一帯で、頼
      泰は「香椎宮」を奉行所とした。
      弘安4年蒙古は再び襲来、大友軍は志賀島で抗戦し蒙古軍を退けている。この時も蒙古軍は暴風で壊滅する。
      この戦いの戦後恩賞の混乱を避けるため、幕府は「鎮西談議所」を設け、有力御家人「大友、少弐、宇都宮、
      渋井」が任命された。
      
       「大友頼泰」は今にち、当時の豊後所領研究を進める上で貴重な史料となっている弘安8年完成「豊後国図
      田帳」を編集させている。

              
            大友頼泰の墓と六地蔵塔(大分市岡川の道路沿いのみかん畑の一角。:途中道
            狭いが、墓付近は路傍の駐車スペースある)

                                       参考資料  大分歴史事典引用
                                               中世九州の政治・文化史(川添昭二)  
 
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