根白坂の戦い(宮崎県児湯郡木城町陣の内)

      「島津敗戦降伏へ向かう」


       天正14年豊後国。天正14年12月12日「戸次川の戦い」に勝利した「島津家久」。肥後より侵入し豊後直入と
      転戦した「島津義弘」の兄弟は大きな損害出しつも豊後府内を占拠した。
      其の島津勢に当主「義久」の豊後撤退の命が下る。「豊臣秀吉・秀長」が20万もの大軍率い九州討伐へ大阪を
      発したとの情報が届いたからである。島津勢はまず三重松尾城に集結町内に火を放ち、豊後日向国境の梓峠
      越え日向縣(延岡)松山城(松尾城?)を目指す。この島津勢の豊後撤退には鶴崎城妙林尼の反撃。梓峠での
      佐伯惟定らの追撃をうけ大きな損害を出すも、「山田有信」の守る「高城」まで引く。さらに「都於郡城(とのこおり
      じょう)」に薩摩大隅の主力を集結、臨戦体制をとった。高城は「大友宗麟」の将「田原紹忍」が攻めあぐね大敗
      した「高城・耳川の戦い」の舞台となった城である。
      一方、八万の軍勢率い3月1日大阪を発した「秀吉」は、29日には小倉に入り、4月1〜3日で「秋月種実」を降
      伏させ、筑後より肥後勢を凄まじい勢いで駆逐。薩摩に入るや出水城の「島津忠辰」を無血開城降参させ、4月
      には薩摩川内に入り「泰平寺」の住職を説得し本陣とした。
      豊前に上陸した「忠長の80,000」は一気に九州東岸を南下豊後に入る。この折の経路は「岡城主・志賀親善」の
      助言えて、「白谷湯城・戸次近江守」らが定めたという。
      秀長は3月29日には日向北部を落とし南下、山田有信1,300の守る高城を囲んだ。山田有信は大友の大軍に
      も城を堅守した島津家臣切っての戦上手である。平山城高城を容易には落とせなかった。そして天正15年4月
      17日「島津義久」の秀吉への降伏の発端となった「根白坂の戦い」をへ向う。
      島津軍の主力はは高城の南東四里ほどの「都於郡城」へ凡そ35,000が集結、高城への救援を覗っていた。
      是に対し「忠長」は高城の南東一里ほどの「財部城」との間に陣を展開遮断。さらに高城への後詰に備え、高城
      の南20町ほどの椎木坂を上り詰めた丘陵地「根白坂根城坂)」に、大縄手数十町に亘り深さ二間(3,6m)、幅
      三間(5,4m)の空堀を堀って、高さ二間もの竹丸太柵を組み上げ「宮部継潤」率いる鉄砲隊含む15,000を配置し
      た。   この一帯の台地は他のページでも度々触れるように中位段丘である。数万年前に形成された堆積層、
      これが、短期間に大型の空堀を可能にした。当時、根白坂より北へ下る椎木坂は、茶臼原より西都原へ至る
      高城南の戦略上の要所であった。 島津軍にとって高城の危急を救うには、秀長の陣城根白坂を破り椎木坂を
      突破する以外に策は無い。 遂に4月17日島津の青年将校「島津忠隣(しまづただちか)」が無謀とも思える夜
      襲を仕掛けた。やむを得ず総大将「島津義弘」も根白坂の宮部隊への総突撃を開始。しかし忠長は是を予測し
      ていた。宮部継潤は鉄砲隊を柵に配置一斉に放ちかけた。合戦は熾烈を極め、秀長の援軍も手の打ちようの
      ない混乱となったが「藤堂隆虎」の数百騎が宮部陣に入り島津勢を翻弄、これに、黒田、小早川勢が両翼より
      攻めかかったので遂に島津勢は総崩れ壊滅的な敗北をきした。
      島津勢は突撃した「島津忠隣」含むほぼ全員が敗死その数は300に達し、島津勢は退却を余儀なくされた。
      しかし根白坂の敗戦でも、「山田有信」の守る高城はなお落ちなかった。(根白坂で戦死の島津「忠隣」は日置家
      島津氏の流れで「島津歳久」の娘婿である。享年19歳.。 このころ兄で出水城(花見ヶ城)「島津忠辰」は一戦
      することなく早々と秀吉に降参していた。 余談であるが、忠辰は文禄の役の折、軍を動かさず秀吉の怒りをか
      い領地没収され、薩州家島津氏ははここで途絶える。)
      「根白坂(根城坂)」の敗戦を聞いた「義久」は衝撃受け戦意喪失、ついに秀吉への降参を決意する。
      天正15年5月8日剃髪した義久は、川内「泰平寺」の秀吉陣を訪れ謁見降伏した。降伏した義久の説得に応じ、
      高城を死守していた山田有信も遂に開城した。

             
               根白坂古戦場と説明板          北より(木城町中心側)より椎木坂望む
                                      蛇行した坂を上り詰めると根白坂古戦場跡
        「この椎木より根白坂一帯は天正6年11月の大友島津の高城の戦いの折の島津義久の本陣跡でもある


       「根白坂古戦場」の場所は、宮崎県児湯郡木城町の「高城跡」下を東西に走る県道19号より南西に延びる
      県道304号の高城橋を渡り西都市方向へ2kmほど行くと東西に広がる林がある。ここが椎木坂。さらに曲が
      りくねった道路を登りついたあたりが古戦場。「陣の内」というバス停傍に説明版が立てられている。周囲は
      畑が広がる。「陣の内」の地名も、おそらく「秀長」の敷いた「陣城」跡に由来するのであろう。


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