柳川立花家秘蔵  国宝短刀 銘 「吉 光」

       立花山城:初代「立花貞載(大友貞載)」が足利尊氏より拝領


    平安より鎌倉時代、山城国(京都)への入りの口一つ「粟田口」では刀工が盛んに活躍した。なかでも「吉光」は
    通称「藤四郎」といい、「秀吉」より正宗、郷義弘とともに三作とされた名工である。短刀に秀作があり、国宝、重
    文に指定された作が多くある。
    此処に紹介する「銘吉光」は、福岡県柳川市旧立花藩「御花資料館」の所蔵するもので国宝である。
 


 
          国宝 短刀 銘「吉光」刃長 23,2cm
          目釘孔が二つあることは、一度拵えを
          作り変えた事を示す
 この写真は図録特別展「柳川 立花家の至宝」(平成21年1月10日発行)より転写し掲載したことを申しそえる。
   
  刻銘「吉光」



   「短刀 銘 吉光の由来」

    この短刀、元は「足利尊氏」が所持していたと伝えられる。
    建武2年(1,335)南北朝争乱の中、筑前立花山城大友貞載(初代立花貞載)」は後醍醐天皇方「新田義貞」に
    従い、豊後勢を率いて箱根竹下に出陣、「足利尊氏」軍と対峙した。合戦が始まった時「貞載」は足利方へ向け
    弓を射掛けたが、一矢射てのち貞載は突然「佐々木塩谷判官高貞」と共に新田義貞を裏切り足利尊氏へ寝返
    った。この貞載の行動により新田方は総崩れとなった。こうして勝利した尊氏は遂に京入りを果たし「東洞院」に
    入った。(貞載のこの行動は、事前既に尊氏へ伝えていたという。)
       
    尊氏京入りの功労者となった「立花貞載」であったが、建武3年正月11日(1,336)貞載の裏切を許さない後醍醐
    天皇の側近「結城判官親光」は降伏を装い尊氏陣を訪ねる。この時親光は応対に出た貞載へ、抜き打ち様に
    太刀を打ち込む、貞載は深手を負いながらも親光を討ち取る。 尊氏は貞載の功労に対し「銘 吉光」の短刀を
    与える。「戸次軍談」によれば、この時「親光」の首実検に用いた血染めの「扇」「下黒の旗」は「銘吉光の短刀」
    とともに「立花家武名の三つの宝器」として代々立花家に伝えられたとしている。
    「立花貞載」は、親光よりうけた太刀傷により三日後に死亡したとされる。但し「太平記」の伝えるところでは、貞
    載も一尺ばかり太刀を抜きかけたが目がくらみ落馬、その場で即死したように伝えられ、親光は貞載手のもの
    が取り囲み、親光の従者諸共討ち取った事になっている。


                                           参考資料    図録「柳川 立花家の至宝」
                                                     戸次軍談が伝える
                                                     太平記

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