不明懦弱「大友義統
        
         こん日まで稀代の凡将と評判よくない。
         永禄元年(1558)〜慶長15年(1610)
         豊後大友家 22代当主 父 大友義鎮 母 奈多夫人 幼名長寿丸 号宗厳





    「
不明懦弱(ふめいだじゃく)」とは、識見状況判断に欠け弱弱しく臆病を指す。
   「九州諸家盛衰記(原本:西国諸家盛衰記)」の伝える「
大友義統」評である。
   戦国から400年、すっかり凡将との評価の定着してした「
大友義統」。その「義統」の愚かさのなす行動が
   「戸次川の戦い:天正14年12月12日(1,586)」である。

   戸次川合戦の両軍兵力をも一度見てみよう。概ね、これまで言われているのは「島津家久」軍一万八千余、
   大友四国連合七〜八千とされている。しかし島津軍全てが「戸次川」へ出陣した訳ではない。島津勢は此の
   戦いに到るまで多くの戦死出し将兵を失っている。
   鶴賀城「利光宗魚」への攻めは、双方に六千の戦死を出したとされる。籠る利光勢の総数僅かに壱千、島津
   勢の損害は恐らく四〜五千余、それまで、臼杵城、栂牟礼城でも数百の損害出している。これら戦死除くと
   島津兵力は多くて一万一、二千。
   一方、大友方の総兵力は、義統主従四〜五千、四国勢六千、
戸次統常百余騎、概ね一万騎。しかし義統主従
   のうち、実際に現地へ到ったのは半数と見られることから、大友四国連合は八千余騎とみられる。
   (義統の兵力は、義統が龍王城に落ち延びた時の兵力、吉弘嘉兵衛統幸三百余人、田北義介統員百五十余、
    宗像掃部助鎮継五百余人はじめ、田北六郎統辰、臼杵弾正統光、寒田六之進統政、斉藤勘介、秋田式部ら
    合わせ、四千五百を参考にした)
   こうしてみると、府内には後詰の軍二〜三千は備えていた。地の利を考慮すれば双方には決定的な兵力差は
   無かった。では勝敗を分けたのは何であったか。
   「島津家久」は島津四兄弟一の戦上手とされる武将。合戦に際し「生きて薩摩に戻ると思うな」と激を飛ば
   し全軍を引っ張り、組織戦を繰り広げた。
   片や、連合軍は意見ま纏らず個別行動に終始した。これは「耳川の戦い」において全軍を統率できなかった
   義統の叔父「田原紹忍」の戦いにも似ている。「家久」は島津きっての戦上手。戸次川の戦いは、耳川同様
   軍を統率出来なかった総大将の器量の差でもあった。


            
            
「戸次川(大野川)古戦場」越しに大友義統陣跡鏡城」城址望む
                
島津家久は、手前右岸に陣を敷いた
                今は、昭和戦後の下流での砂利採取で河床が著しく低下している。
                当時はかなり河床が上がっていたっと思われる。

  

    その器量の差は、大友義統の戸次川でとった行動が如実に物語っている。
   このことは、九州諸家盛衰記「
利光合戦義統落府内城事」記述にある。この戦いで、四国勢に続き「戸次
   統常
統連)」は僅か百余騎で切り込み壮絶に戦死。そして「長宗我部信親」が討ち死すると大友勢は忽ち
   戦意失い十方へと敗走する。ここで義統は、戦場に踏みとどまり、軍勢を立て直す必要があったが、多くの
   大友将は、常々「義統」将の「器」にあらずと思っているところがあって、敗走に傾いたのである。
   大将義統もまた「信親」が戦死すると一気に渡河、大将が早々に味方を見捨て戦場から逃げ去った。義統は
   吉弘嘉兵衛らに守られ一旦府内の館に引き上げるが、島津勢の追撃恐れ府内の西、高崎城へ逃れた。
   さらに義統は、不便な「高崎城」を出て「田原紹忍・龍王城(神楽岳城)」へと逃げる。

       (注)義統の叔父田原紹忍もまた、総大将でありながら「耳川の戦い」で逃亡し、
          一時行方をくらました。弱気なところは血統か。


       
以下、九州諸家盛衰記の書く「義統逃亡」の様子である。

    
義統、府内を出て五〜六町を過行きて、「安達図書」はと問わるれば、諸士「見え候はず」と答ふ。
    渠(彼)もはや逃げたるにやと思われる処に、安達馳せ来り。図書申すに「屋形の御大事は今夜にも
    究まり候らえば快く討死仕らん為、妻子を害し家に火を懸け馳せ帰り候(戦場へ引き返し戦う)」と
    云えば、皆人是を感じけり。
    
義統不明懦弱識見に欠け、臆病)にして将の器に非ざる故、譜代恩顧の者共も悉く落行きて薩摩に
    降参せり。敵手繁く追いかけしかば(追討してきた)、梨津求馬、安達図書、小原平馬丞、永松武蔵、
    吉良主人、以下悉く討死す。
    「義統」臼杵刑部を呼んで、「汝は是より府内に帰り、天野又兵衛が娘を連来れ」と下知せらる。是
    れは「義統」此の女を深く愛せられし故なりけり。臼杵刑部府内に帰り、彼女を連れ帰りけるが、敵
    府内に充満たれば、切り抜け切り抜け通りける程に、薄手(軽い切り傷)二箇所負いながら、高崎に
    落着きければ義統大いに悦び、佩かれたる太刀を興へらる。この時、臼杵刑部その座を立ち大声あげ
    
此の年比、数度の軍功粉骨を盡しつくせしともがら某のみに非ず如何程も候を、
    其れを何の御沙汰も無く、用にも立たぬ女を具し来る褒美とて、引き出物は何事ぞ

    
意味・これまで何年もの間、軍功のあった者は自分だけで無い。にも拘らず何の恩賞も無く、い
    ま役にも立たぬ女を連れ来たからと云って、褒美に引き出物とは何事か
 其の心故、かかる恥辱
    
敗戦にあい給へ、向後主君と頼み申さじ主君とはせずと云い捨て行方知らず逐電した。
    後に毛利輝元に仕えたという。他にも名のある武将数名同じように義統捨て、佐々成政、大谷刑部
    らに仕えたとされる。この義統の府内放棄に
秀吉は激怒する。

   此の九州諸家盛衰記の記述は、「義統」がいかに家臣の信頼を得ていなかったかを如実に物語るものであり、
   豊後国の存亡の懸かった合戦の最中、戦場よりも戦死者弔うよりも寵愛する女のことしか念頭に無かった、
   義統の愚かさがなせる行動であった。主家への忠義を貫き玉砕した「
高橋紹運」。そして「義統」への忠誠
   心一途に果敢に出陣した「
戸次統常」さらに、二人のわが子殺害し統常の出陣を檄し、自ら懐剣で島津営に
   切り込み死んだ「
統常の母」。そして「長宗我部信親」是等の者の戦死は、いったいなんであったのか。
   後年、東「徳川家康」、西「石田三成」の衝突がもはや不可避となっていた折、「黒田如水・義統」らは、
   家康方に組することを約束していた。にも拘らず義統は「毛利輝元」の老齢な策略にかかり、石田方に付き
   「石垣原合戦」へと突走り「黒田如水」へ敗北。是により完全に豊後大友家の再興は潰えた。
   (西の総大将「毛利輝元」は「義統」を煽りながら自らは「関ヶ原」に出陣していない。大友にとって宿敵
   の毛利が、本気で大友氏の再興を持ちかけたとは思えない。義統愚か。)
   此のとき「
黒田如水」は「義統」を「彼は愚かにして理を曉らず」評している。


     
大友氏のその後
      こんな「
義統」であったが救いは、嫡子「大友義乗」は大変利発で「如水」に預けられて
      いたが、後「徳川家康」に仕え3300石知行の大臣旗本となる。
      しかしその子の「義親」のとき子供がなく一旦廃絶するが。義統側室の子「松野正照」の
      三男「義孝」が幕府に召しだされ、大友氏を再興「大友義孝」を名乗り「
高家」に列し
      従四位下を賜る。
      播州赤穂浅野刃傷事件のとき高家筆頭「吉良上野介」と昵懇であったことから一旦高家を
      降りるが再び復帰。以後高家大友氏が続くのである。
      「徳川家康」もそうであったが「頼朝」以来の名門大友氏に対し「徳川」は寛大であった。
      若きころ「今川義元」の下、善得寺僧「大原雪斎」の教えうけた「家康」は倫理を重んじ、
      代々公家の礼儀作法には通じていた名門大友氏の価値を知っていた。そこが育ちの違う
      「秀吉・三成」とは才覚の異なるところであろう。
      高家となった大友氏は、累代高家の中の「
表高家」に列し肝煎りの要職も勤めた。

     
大友家は運のよい武家
      朝鮮出兵、鳳山における出来事に託けた秀吉の義統改易は、明らかに不公平を欠くもので
      あった。このことは秀吉死後、家康によって厳しく追及された。
      それが義統赦免となったのである。
      しかし、実はそれに至るまで、後陽成天皇の「おおめのと(大乳人)」に上がっていた姑
      「大弐(吉弘鑑理内室・
義鑑娘?)」、後水尾天皇「乳母」に上がっていた妻「菊(少納言、
      
紹運妹)」らの尽力があったという。
      義鎮に劣らず女遊びの多かった義統、結局最後も女性に救われている。
      また、一旦「義親」のとき途絶えた、大友家を高家大友氏として再興した孫の「義孝」が、
      徳川幕府の要職高家に召しだされたのは、義統の妹が「徳川和子(二代将軍秀忠娘・後水
      尾天皇中宮)」に使えていたことによるとみられる。
      こうしてみると豊後国失いながらも、大友氏は運のいい武家であった。


                    
      参考資料    豊州乱記
                                       九州諸家盛衰記
                                       大友記
                                       大分歴史事典