shint.gif 半 生 記  現在の自画像を
動くイラストで表現
してみました。
 世の移り変わり
にふわふわと浮か
んで過ごしたよう
なそんな半生!?
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生い立ちの略記
 太平洋戦争の少し前に生まれましたので福岡市の空襲の記憶がかすかにあります。
 小学校入学 新しい教育制度ができて後の入学なので「墨ぬり」教科書は記憶にありません。しかし、年下の子に教科書を譲るということが行われていました。 おとなしい,引っ込み思案の子供だったようで先輩や先生にずいぶんお世話になったようです。当時,代用教員という呼び名で教師の資格をとるための勉強をしながら教壇にたっている先生がいらっしゃいました。
 もののない時代でしたから遊び道具はほとんど手作りでした。ポケットにはいつも自分で研ぎあけた小刀(折りたたみナイフ=肥後守)を入れて持ち歩き,いろんなものを細工していました。

 中学校入学 ガキ大将が幅をきかせていた時代です。それぞれの小学校校区・地域にいて,勢力争いをしていました。私はその意義を感じることはありませんでした。 裸足で通学することもあったと思います。 校舎は木造で体育館はまだありませんでしたので,全校集会はいつも運動場でした。

 高校へ 小学区制だったので,個性豊かな異彩を放つ同窓生が多かったように思います。 
 大学へ 本校と四つの分校をもつ大学に入り,教師の道を目指しました。 





>中学校教師時代

  学生時代に1年間私立S中の非常勤講師,学生服で授業をしたのを思い出します。 そのころ,男子校でした。実験はあまりしなかったような気がします。

  その後,福岡市内の西区K中に10年,校歌に「玄海灘の荒磯の岩にとどろくは潮・・」や「窓にそびゆる 柑子ヶ岳に」とあります。もっとも思い出に残る,教師になって最初の学校です。 学活の時間に近くの浜に行って海水浴をしましたが,とがめられることもなくほんとにおおらかな時代でした。
 現在のK中は綺麗に立て替えられています。右の写真のように能古島・福岡タワーなどを望む糸志摩半島の東岸に位置しています。

  早良区T中に9年,「背振の峰,高く清し」「世界の平和うちたてん」と歌いました。ここに勤務していた期間中に校舎が木造からコンクリート造りに建て替えられていきました。まだ,ありますよ。 メタセコイア の木。 
近くを国鉄筑肥線があり,これを通勤に利用していました。 線路跡は現在筑肥新道として利用されています。
  西区U中に5年,校歌の出だしは「あこめヶ浜の内深く」で教師仲間の集まりでよく歌いました。校区は再開発されて,見違えるほどきれいになりました。 校舎やグランドは以前のままですけれど。

  西区S中に開校から7年いました。校舎内のデザインが一新され,今までの中学校にないつくり,たとえば,廊下・普通教室はすべて板張り,多目的のじゅうたん張りの教室などがありました。ただ,普通教室は狭かったですね。 運動場はかなり広かったように思います。

  次は,福岡yahooドームとシーホークに最も近い中央区のT中に3年,校歌の中の「背振山」はビル群の陰に隠れて見えません。 地下鉄唐人町駅から歩いて15分,電車と徒歩で通勤しました。 

  最後には,クロツラヘラサギがやってくる瑞梅寺川の河口近くの西区M中に4年,異動直後は空の広さに感動しました。前任校の空は頭上にしか見えませんでしたから。 ここでは熱心な保護者の応援があり,部活動に今までになく,取り組みました。ここで定年を迎えました。



定年退職後  もう,まる9年です。
  退職後,半年間は無職で過ごしました。時間に縛られることなく,自由に過ごしました。
  畑を耕したり,地域の剣道教室に行って小中学生と練習したりして汗を流しました。
 命の洗濯ができて寿命が延びたように思います。


  再び,仕事開始
  この年の10月になり,中村学園三陽中学・高校から声がかかって勤めを再開しました。 高校生(1年〜3年)の授業を担当しました。  2年半,勤めたところで4月から同じ学園の女子中学・高校に移りました。 中学1年生・高校3年生の授業を担当しました。  そして,またまた学園の男子校に戻り,中学生・高校生の授業を担当しましたが,2008年4月に退職しました。
  
  1年間毎日日曜日の生活
  そして,今度は小学校へ授業の手伝いに

               このページ終わり。(9月28日作成 09年5月修正)




 早良区T中

       西区U中

       西区S中

       中央区T中
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