口話教育とは


私は2歳から中学校を卒業するまで、耳に障害を持つ児童が通う学校、
つまり「ろう学校」という所に通っていました。
そこでは普通学校と同じような通常授業の他に、口話教育というものがありました。
当時ろう学校の中では手話を使うことを禁じられ、それは学校内だけではなく
家庭内でも手話を使うことを禁じられていました。
現在では手話を授業内に取り入れるろう学校が増えたものの、
未だに口話教育が行われている所も数多く実在します。

何故口話教育が熱心に行われていたのか、それは歴史的背景に大きく関係するのですが、
ここでは口話教育に対する自分の考え方を述べることにします。

(所々差別用語が入っていますが、当時の環境を分かりやすく伝える為に、
最低限に留めています。どうか気分を悪くされないで下さい。)


手話を禁じる理由


ろう者同士のコミュニケーションは手話を使うことが普通に考えられてますが、
小さい時から手話を使うことに慣れきってしまうと、
いつか社会に出て行った時、否応無しに手話を知らない人と出会う事になります。
その時、どのようにコミュニケーションを取ればいいのでしょう?
いずれ社会に出て行って、そんな壁にぶつかっても乗り越えられるように。
そういうことを考えての口話教育だったと、そんな風に聞かされました。

口話教育に手話を切り離す理由としては、私の憶測になるのですが、
手話はある意味ジェスチャーに似たようなものです。
目で見ることが出来るコミュニケーションだと言えばいいのでしょうか。
そこに声を出すという必要性を感じられなかったのです。

いつまでも声を出さないことに慣れきってしまうと、当然発音も悪くなる。
発音が出来ないと、口話でのコミュニケーションが困難になる。
そういう風に考えた上で、手話を使うことを禁じてきたのでしょう。

聴覚障害者とは「聴覚に障害を持つ者」というそのまんまな意味の他に、
「コミュニケーション障害を持つ者」としての意味があるそうです。


自分から見た口話教育


相手の唇の動きを見て、何を言っているのかを読み取る。
質問された場合は、ちゃんと声を出して答える。
声を出せばいいってわけではなく、綺麗に発音できているか。
綺麗に発音出来なかった時は、徹底的に練習させられました。
最初は「あ行」を徹底的に練習させられ、それが出来るようになると、
か行・さ行…という風に、先生の舌の使い方とか、喉元を触って真似することから、
発音の練習が始まるのです。

発音が一通り出来るようになると、次は言葉やアクセントの使い方。
例えば、「トマト↓」と「トマト↑」の違いとかを教え込まれるわけです。
(どっちが正しいんだっけ…?今ではすっかり忘れてます…。汗)

それから音が出るカードを機械に通して、何の音かを判別する教育も。
発音が出来なければ、出来るようになるまで居残りされることも多々ありました。

私の家族は全員耳が聞こえないので、家に帰ってまで発音の練習…はありませんでしたが、
友人の中には家に帰ってからも親から徹底的に発音の練習をさせられ、
反抗的になってしまった人も居ました。

通常授業でも当然口教育。
先生が「この計算の答えは?」と言い、それに対して声を出して答えるのです。
それもまた上手く発音できなければ、授業を中断して発音のやり直し。
それを何度も繰り返させられました。

授業を中断すれば、学力が低下するんじゃないの?と思うんですが、
さすが、毎日膨大な量の宿題が出されました…。
(毎回宿題を忘れたりして、しょっちゅう怒られましたが。笑)

このように、小さい頃は徹底的な口話教育を受けていたんですが、
中学の時に引っ越したときを境に、口話教育から自然と離れていきました。


口話教育がもたらしたもの


中学校まではろう学校に通っていたんですが、高校から普通学校に通うことに。
それまでは耳が聞こえないことに理解がある人たちだけと関わる環境の中にいたので、
クラスメイトたちと上手く付き合ってけるかどうか…ということがまず不安でした。

ろう学校とは違って、黒板に向かってしゃべる先生もいたり。
そういうときは唇の動きが読み取れないので、隣に座ってた同級生に、
「何を話してるの?」とか、「ノートを見せて」って感じでやっていました。
始めは「いいよ!!」と好意的に見せてくれた同級生も、
次第に面倒くさくなってきたのか、ノートを見せてくれなくなりました。
(しつこ過ぎたのかもしれません…。)
先生と相談して、大切な所は黒板に出来るだけ書いてくれるようにすること、
そして黒板に向かってではなく、生徒側に向かって話すようにして欲しい…とか。
何度も話し合って、解決策を見つけ出していきました。

高校生活の中では、手話ではなく口話が全てでした。
話が通じた時は、口話教育を受けて良かったのかなぁ…と思ったりもしたのです。
だけどうちの発音には特性があるらしく、人によって伝わらなかったり。

最期まで聞こうとする姿勢がある人と、聞く気がない姿勢の人によって、
伝わったり伝わらなかったりするみたいです。
相手に伝わらなかった時は、何のために口話教育を受けてきたんだろう…。
と、自分が嫌になったりすることもあったんですが。

うちの友人の中で手話を全く知らない人が居ます。
その人とは付き合って長くなるんですが、未だに手話を覚えてません。
以前に一度「どうして手話を覚えないの?」と聞いたら、
「手話を覚えることは、何か自分が偽善者な感じがして嫌だ。
手話以外でもこうやって、コミュニケーションが取れるわけだし、
必要性を感じないから。」と言われました。

その友人は唇の動きがとても分かりやすいので、口話でもやっていけてるんですが。
人によって、唇の動きが小さくてわかりにくかったり、
大きくゆっくりやってくれても、逆に分からないときだってあります。
本当に十人十色です。


口話教育は必要か否か


高校を卒業する頃に、小さい頃に通ってたろう学校へ遊びに行ったんですが、
その時に久し振りに会った先生から、「口話が下手になったね。」と言われたことが、
何よりもショックでした。
確かに、引っ越してから口話教育は受けてないし、自分の発音に注意することもなくなった。
手話を使うことが日常的になってくると、発音の低下が出るものなんだろうか?
元々こういう発音だったんじゃないのかな?とか、そんな風に思います。

口話教育を推奨するわけではなく、どっちかといったら否定的。
かといって、完全撤廃するべきとは考えてもいないのです。
学力の向上を第一に考えるなら手話を取りいれた方がいいんじゃないかなと。
だけど、将来社会に出て行った時のコミュニケーションを取る方法として、
そういう訓練があってもいいんじゃないか、と。
私が小さい時に受けた、あの徹底的な口話教育ではなく訓練する場所が。

口話教育が必要か否か。
それは自分にも分かりません。
だけど、こういう口話教育があったんだということ。
そして手話を教育現場に取り入れる学校が増えてきていること。
確実に昔より進歩してきました。
それほど真剣にろう児の将来を考えているということだと思うから。

居残りされた時のみじめな気持ち。
泣きながら同じ発音の練習を繰り返されたこと。
その時の先生がどんなに恐怖に見えたことか。
そんな気持ちを、現在のろう児たちには味わって欲しくないなと思います。

どっちかが一方的に歩み寄るのではなく、
どっちかが一方的に自分の概念を押し付けるのではなく。
お互いに歩み寄ろうとする気持ち。
そんな気持ちが何よりも大切なのではないか、と思うのです。