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| 郷土・筑後地方の謎に迫る(10) 徐福渡来伝説の核心部分 ● 東洋医学史研
究会
『肥前州古跡縁起』によると、秦の始皇帝の命を受けた徐福が、不老不死の薬を求めて童男童女七百人をつれ、海流に乗って筑後川の河口、現在の佐賀県諸富町寺井の津に漂着したという。筑後川の河口といえば地理的に有明海沿岸であるが、九州渡来説の多くがここを中心に集中している。 あたかも徐福の大船団が続々と有明海に入り込み、次々と上陸していったというような連想を抱くのに充分な迫力がある伝承記録である。 たとえば同じ佐賀の早津江川の河口にも上陸伝説が残されている。 ここでは徐福一行が盃を浮かべて上陸地点を占ったというので、「浮盃」の地名があり、さらに上陸して佐賀市の北方にある金立山を目指して進む途中、潟地(ガタ)に足を取られるため千反の布を敷いてその上を歩いたというので、そこを「千布」というようになったという地名伝説が残っている。 さらに、その上陸地点からそう遠くない佐賀市北方の「金立山神社」では徐福がそこの縁起としても祭られている。 上陸に際して易を立てたり占うということは、当時の神仙思想の影響の下にあった徐福らの置かれた状況を考え合わせると、至極妥当な方士の行動様式であったと思われる。 しかも上陸して進むのにわざわざ千反の布を敷いたということは、当時の地質学的資料からみても十分に頷けることでもある。 ![]() 先史時代、現在の佐賀市周辺は満潮時には海面下となり、干潮時でも有明海沿岸特有の潟地であったといわれており、そのまま歩いて進むなどということはまずもって不可能な状況であったろう。 有明海沿岸の潟地を知らない人は、海岸ということでおそらく白砂青松の砂浜をイメージするであろうが、ガタ地というのはいわゆるヘドロ状の泥濘の湿地帯のことである。 足で踏みしめることの出来る砂地とはまったく異なるものである。 船から上陸するにも、そのままでは足腰がガタにぬかり込んでしまうわけで、どうしても板状のものをガタの上に敷いて踏み渡って行かざるをえなかったはずである。 有明海沿岸部のガタ地の多くは、古代からの継続的干拓工事で相当な地域が広範囲に陸地化されてきたものである。 表面は陸地に見えても地下に岩盤がないために、基礎工事用の杭などを打ち込むとそのままズブズブと沈み込む様子をよく見かける。地下数メートル下には、いまでも泥濘状態の地層部分が残っているというわけだ。 佐賀県金立山から有明海沿岸に沿って福岡県側に入ると、八女市山内というところに徐福渡来伝説の地として知られる「童男山の古墳」といういうのがある。
ここには、徐福の渡来船団が難破して漂着した際に、一行の童男童女を助け出したという伝説が残っていることで有名である。
中国の「史記」には、徐福が童男童女各五百人づつ連れて出航したと記されている。 「童男山の古墳」では、焚き火をして、難にあった彼らをふすべて蘇生させたという伝承に由来する興味深い伝承行事も、毎年1月に地元の小学生らが中心になって行われている。 ここは地理的には、海岸から二十キロ以上内陸に入った地点に位置する。 そこより北方に位置する筑紫野市天山の山腹には「童男童女の岩」と呼ばれるものがある。 これは徐福が渡来したとき一行の船を、その大岩につなぎ止めたという伝説に由来する。 ここも有明海沿岸から、内陸に五十キロ程はいった地点になる。 このように伝説にいう上陸地点や伝承遺跡の位置関係を一つづつあげてくると、天山や八女の山内という地点というのは、どうしにも不可解であるといわざるを得ない。 それらは共通して、伝説の上陸地点が余りにも海岸から内陸部に入り込み過ぎていることである。 現代人が見ても、明らかにこれらの地点は海岸部から離れすぎている。 現在の九州地図に重ねてみると、これは歴然としてくる。 上陸地点そのものが、二十キロ〜五十キロも海岸から船を引き上げてきたというような矛盾はどうにも否めない。 ここに、所詮伝説は伝説に過ぎないという、安直な結論付けがなされてきたことの理由がある。 何故に、徐福の上陸地点はこうまでも内陸部でなくてはならないのか。 当然、北部九州の渡来地点の地理的位置関係そのものに大きな疑問が出てくる。 かって、江戸期の儒学者の貝原益軒もこの点を端的に指摘して、徐福の渡来地伝説は虚説であると断じたのも無理はない。
事実、この謎ともいうべ徐福渡来の矛盾点が解明できなければ、そこから一歩も前には進むことは出来ないわけである。
たしかに徐福渡来伝説には大きなロマンがあるが、それを伝説のままに事実として押し通すには、それこそ無理があるというべきであろう。 そのようなこともあって、個人的にはそれ以降は徐福伝説への関心は次第に薄れていったのも事実である。 (2005/6/26) |
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