徐福研究会資料・九州徐福渡来伝説の信憑性

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郷土・筑後地方の謎に迫る(8)

筑後には巨大ピラミッドがある

東洋医学史研 究会
宇田明男



九州古代史研究,邪馬台国,徐福渡来
日本国内、それも福岡県の筑後の地に太古の巨大ピラミッドがあるといわれたら一様に驚かれるであろうが、その後で大抵はそんなもんがあるものかと怪訝な顔をされるのが落ちであろう。

だが、意外にも筑後のピラミッドといわれるものは実際に存在する。
それも大正時代に現地を訪れて、「これはまさに筑後のピラミッドだ」と逸早く叫んだ考古学者もいたのだ。



それは、みやま市瀬高町山門にある広大な「堤古墳群」である。
それ自体はなにも本物のピラミッドのように、地上高く聳え立っているわけではない。
縦横220メートルにも及ぶ広さに、巨石群が散在している様子から「筑後のピラミッド」と言われだしたわけで、そこには他に類をみない規模の特異な遺跡群が存在するというものだ。

現在では遺跡群の真上には五、六十軒ほどの民家が立ち並んおり、それらの巨石による遺跡そのものはすべて私有地内にある。

この堤古墳群については、その大きさと巨石群の配置の規模から地元の郷土史家からは、度々卑弥呼の墓があるのではないかと指摘されてきた地域でもある。

筑後山門周辺の古代遺跡や風水ポイントを語る上で、見落とすことの出来ない重要な遺跡の一つなのだ。


堤古墳群の真東には天満神社が隣接する。古来より主神の堤大国玉神が祭られてきたが、度々の合祀で現在は天満神社といわれている。

堤大国玉神というのは筑後一の宮高良大社(久留米市)の「天慶神名帳」に記載されている古代の神名であり、おそらく古代九州王朝の時代の神格と思われる。

後々神社名も変えられてしまってはいるが、無視しがたい古代の重要なポイントであったことが覗えるのである。

しかしながら、遺跡自体が広範囲に広がっていたことや明治期以前より民家がすでに建っていたこともあって、これまで本格的な発掘調査などは行われなかったようである。

九州古代史研究,邪馬台国,徐福渡来

この地域に集中する古代遺跡群について考える上で参考になる一つの史料がある。

江戸、明治時代山門周辺はいくつかの村々が散在していたが、当時の山門村村長野口新太郎は村内の耕地面積や遺跡群をあらためて調べてまわっていて驚愕する事実に遭遇した。

調査の過程で、村内の古い家から、代々受け継がれてきた遺跡群にまつわる古めかしい文書が次々と出てきたからである。
氏子であっても、難解な漢文で書かれた古文書であれば一体何が記されているのかまったく分からない。
純朴な村民は村長を信頼して、それらの文書をすべて預けたのであろう。
村長が目にした古文書には驚くべき事柄、縁起が連綿と記述されていた。
このとき、思いがけず郷土の古跡の由来を知った村長野口新太郎はそれこそ身が震える思いであったろう。
記録には次のようにある。
「明治23年、山門村村長野口新太郎が、このような古文書があれば官幣大社が設立され、耕地がつぶされること憂いて、代々朝日、堤、藤ノ尾に伝わりし古文書を焼き捨て、また車塚を神社跡地として払い下げを受け、老木は入り口の一本松を残して伐採し、塚も一間あまり切り崩して四周の堀を埋め、南北二十七間、東西百十五間、高さ二間を保存したり(注:車塚とは、堤古墳群の真西にある前方後円墳である。)」(「邪馬台国探見記」渡邊村男著・「誰にも書けなかった邪馬台国」村山健治著)

村中に、いくつもの巨大な遺跡群をかかえて、苦しい立場に立たされた当時の村長の様子が伝わってくるようである。

それでなくても北部九州には夥しい数の遺跡が存在する。そのすべてを保存することは不可能であろう。

遺跡自体が広範囲に広がっていたりすると、特に平野部辺りでは農家の生産活動や幹線道路の拡張工事などに支障をきたすことが少なくない。

撤去するかそのまま保存するかで、地元でも氏子の間でも利害関係から話し合いが紛糾する場合さえある。

昔は為政者として先見の明がある人物がいて、古い遺物を手際よくお払いして片付けてしまったことも少なくなかった。

こうした古い記録が公になれば大変なことになる。このとき村長の決断で、周辺の神社や遺跡関連の古文書を掻き集めて、後々のことも考えてすべて焼き払ったということである。
それでなくても、この辺りの耕地からはいろいろな遺物が出土する。
しかもお上から、いつ田畑が取り上げられてしまうかか分からない時代でもあった。
肝心の記録文書さえなければ存在価値もいずれ忘れ去られよう。
平成の時代もさかんに町村合併が実施され、固有の古い地名も新しい地名番地に整理統合されて消えていった。
まったくこれと同じことであろう。

だだし、伝承されてきたものが一旦途切れれば、後は住民からも忘れ去られるだけである。

地元住民の生活もかかってくるとなるとそうした決断に至ることがあったとしても、いまの日本人なら何ら抵抗はないだろう。

まあ、とにかく2千年以前の遺跡や遺物がいまも残っていると言うことは稀有なことなのだと、ここでは喜ばなくてはなるまい。



この山門の堤古墳群の存在に、最初に学術的に注目したのは明治大正時代の郷土史家石田昌である。
当時書かれた調査報告資料(遺稿)には非常に興味深い記述がある。

九州古代史研究,邪馬台国,徐福渡来 「そは先年余が発見したる女山の神籠石と並び称すべきものにして、十数個の巨石点在せるあり。その石はおおむね方形を成し、小なるものといえども地上に露出せる部分のみにて二間余りの面積あり。ある人其の石にそいて井戸を穿ちたるに、巨石の根に達せざりしと。この一事を以てもその大きさを推測すべく、とにかく大阪城壁の巨石以上と見て可ならん」

さらに、 「魏志に所謂「卑弥呼以死、大作塚、径百余歩、殉葬者奴婢百余人」とせるも、あにこの遺跡にあらずとせんや」と、独自の見解を述べている。

この報告を受けて堤古墳群を学者が訪れるきっかけとなり、東大教授の白鳥庫吉や郷土史家の渡邊村男らが、大正2年8月に現地に足を運んで巨石が並ぶ遺跡を視察した。

このときの調査報告書の中で、「埃及(エジプト)のピラミッド築くが如きも亦之に類するものなり」(「邪馬台国探見記」渡邊村男著(柳河新報社大正4年刊)と、同行者一同驚きと感嘆の声を上げている。



それから半世紀ほど経った昭和40年代になって、当初より堤古墳群の調査されていた地元の郷土史家村山健治氏が、その研究過程でここが古代の重要な天文観測地点であったことを解明されて古代史関係者の注目を集めた。

九州古代史研究,邪馬台国,徐福渡来 古代の天文観測地点ということで、いよいよ本物の古代ピラミッドの様相が整ってきたわけである。

村山氏から1970年頃、古代の天文観測の詳細な説明図が書かれた年賀状をいただいた。(右図)

当方は当時、北部九州の徐福渡来伝説を追跡していた時期だったので、そこに描かれている天文ラインには思わず引き付けられた。

図のように春分・秋分に、堤古墳の観測点から八女日向神社、筑紫の日向に伸ばしたその日の出方向の延長線は、さらに地図上で先に延ばすとそのまま和歌山県の新宮市に到達することに気付いた。

奇しくも九州の徐福渡来地と紀州の渡来伝説地点とがこの天文線上で繋がったのである。

古代九州に渡来し、その足跡を残したとされる徐福は、九州北部を拠点に数年間に渡って各地を探索したと伝えられている。

その有力な拠点というのが、有明海沿岸地域の筑後地方である。



「童の男女三千人を遣わし、之に五穀の種子と百工をおくりて行かしむ。 徐福、平原廣澤を得て止まりて、王となりて帰たらざりき 」(「史記」・准南・衡山列伝)

堤古墳群が、直接徐福とも関連するのかどうかは推測の域を出ない。ただ、その規模からみれば、巨大な石材を移動させる高度な土木技術がこの地に大陸より伝播していたことだけは確かであろう。

九州古代史研究,邪馬台国,徐福渡来 これはまさに古代の筑後・熊野風水ラインとも言うべき展開である。
この風水ラインが渡来後の徐福一行の移動方向とぴったり符合するというわけで、当時すでに海上の移動と同様に北斗七星を観測したりして、綿密な天文による計測が行われていたのではないかと推測するところである。
(2005/6/26)










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