戦国の秀吉と家康の健康管理術について

戦国時代にあって、徳川家康ほど自己の健康管理に努めた武将はまれであった。
他の多くの武将は戦国の気風そのままに無骨一辺で、むしろ酒色に溺れて短命であった。

命を惜しむことが恥とされた時代でもあった。

それこそ長生きするために気配りをして努力をするというのは極めて少数派であったのだ。

そうした中で家康が着実に足元を固め天下を取ったわけであるが、そこには家康独自の健康管理と長生術とが重要な役割を果たした事実はあまり知られてはいない。

当時、家康は大変な読書家であり、自ら医学書や本草書(薬学)を読んで研究していたのである。

今回、その核心部分について紹介してみよう。

御存知のように、オットセイ(膃肭臍)は強精剤としての人気は現代でも相当に根強いものがある。

強精剤というと、スッポンエキス、ベンガル虎の一物、沖縄ハブの肝、赤マムシの肝、キングコブラの肝、鹿鞭を尻目に、まずはこのオットセイの一物というわけで、中国の有名な至宝三鞭丸、海馬三腎丸などにも処方されている。

そこで気になってくることであるが、わが国にこのオットセイの効能が伝わったのは一体何時のことであろうか。

時代を遡っていくと、まずは最初に戦国武将徳川家康(一五四二~一六一六)に行き着くことになる。


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というのは家康は殊のほか本草学に熱心であり、中国朝鮮の医学書をいち早く入手して研究していた実績があるからである。

しかも当時としては珍しい薬草園までも作っており、家康の遺品には薬物や調剤道具が沢山残されていた。(駿府御分物御道具帳

『本草綱目』や『和剤局方』を独自に研究していたし、613年当時朝鮮で刊行された『東医宝鑑』にも逸早く目を通していた。

とにかく家康はこの分野においてはひどく研究熱心であった。

実はこれらの医書には、膃肭臍(オットセイ)の補腎薬としての効能や処方が薬物情報として書かれていた。

このことに家康は気付いたはずである。

史料を見ると家康が六九歳の時(1611年)に、蝦夷の松前藩主松前慶広に海狗腎(オットセイ)を捕獲し献上するように命じている事実があるが、時系列からいけば確かにこのときすでにこれらの医書からオットセイの薬効情報を掴んでいたということになる。

さらにいえば、家康は捕獲の命令を出す前に海狗腎(オットセイ)の実態をしっかりと特定していたということがいえるはずである。

ここが非常に重要である。

何故ならば、それまで日本では誰もこの海狗腎(膃肭臍)に注目などしていなかった。

存在さえもあやふやであったのだ。

家康より後は、にわかに海狗腎(オットセイ)の薬効が世間一般にも知られるようになり、江戸時代を通じて市中でも大いに強精剤としての人気が集まったという経緯があるのだ。

それも江戸庶民の川柳の題材にまで登場するくらいだから、市井の注目度は相当なものがあった。

 ・始皇帝 おつとせいとは 気がつかず
 ・おつとせい 転ばぬ為の 薬の名
 ・松前の 矢で射た 腎薬
 ・効能で 女房よろこぶ 夫ト勢
 ・薬食いでも 後家はいましめ おっとせい

ここで腎薬(強精剤)とくれば、あの腎虚(萎縮腎説、老人性肺結核説がある)で倒れた戦国の覇者豊臣秀吉はどうであったろうか。

こうなるとこの腎薬オットセイの存在を天下人の秀吉が知り得たかどうかが気になるところである。


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この点についても早速あれこれと調べてみたというわけである。

ポルトガル宣教師として1563年来日したルイス・フロイスの著した『日本史』によれば、秀吉は大阪城内に参百人のお手付きの側女をおいていたというから、これが重要な傍証となる。

後年秀吉は延命を願って没薬(もつやく)を服していたが、これとて天下統一後の権勢とは裏腹に衰える体力の回復に、それこそやっきになっていた証拠でもある。

秀吉は地下人もしくは百姓の出ということもあって、民間医療の灸治療や温泉(有馬)の効能もよく知っていた。

親しかった前田利家とはお互い灸をし合ったという逸話は有名である。

その上、精力増強のために当時としては宣教師の薦めたこともあって、珍しく牛肉や生玉子を食らっていたし、一方で虎肉が良いと聞けば朝鮮出兵中の島津義弘らに塩漬けの虎肉を送るように厳命していたほどである。

これに答えて武将福島正則は虎を討ち取り、塩漬けにした虎肉を秀吉のもとへ送り届けている事実がある。

その後も秀吉の下へ続々と虎肉が送られてきた結果、もう送らずともよいとの伝令が出されたほどであった。

こうなると朝鮮出兵の目的には、意外とこれらの珍奇な薬物や大陸あたりの精力剤の入手が絡んだものだったかもしれないということになってくる。

晩年になると秀吉は足腰がふらつき、ついには城内でお洩らしまでするようになり、本人はもとより側近あたりの強壮剤捜しは避けられない事態となっていた。

この当時、いわゆる老人の失禁などは腎気(生命力)の衰えとみられたのである。
 
関白職を甥の秀次に譲る時、書状でもって「茶湯、鷹狩り、女狂いなど一切秀吉の道楽の真似るなかれ」と、厳しく生活態度を訓戒したほどの秀吉であり、もとよりかっての主君織田信長が呆れ返るほどの女好きであったからどう転んでも腎虚だけは避けようもなかった。

ここらは自業自得である。

本題の膃肭臍(膃肭臍・オットセイ)であるが、中国方面ではすでに八世紀前半には薬物情報として外部から入って来ていたらしい。(『和漢薬』百九十六号・三浦三郎)

意外なことにオットセイに強壮効果があるとの医薬情報自体は、アラビア半島の中東方面から海か陸のシルクロードを通じてはやくに中国方面に伝播してきていた。

となると時代的には鎌倉時代に伝わっていた『和剤局方』からの情報か、さらには中国で直接宋医学を学んだ医師の田代三喜あたりから腎薬オットセイなるものの薬効は確実に日本にも伝わっていた可能性はあることになる。

勿論、情報通の秀吉自身こうした珍奇薬への特別な関心ははじめから側近のお伽衆や医師達へ向けられたことは十分考えられるところである。

側に仕えた筆頭侍医の施薬院全宗や侍医に近い立場にあった曲直瀬道三(中国に留学して李朱医学を学んだ田代三喜の弟子)、海外の薬種も手広く扱っていた堺の小西家からもそれらの情報は入っていたかもしれない。

しかも秀吉は天下統一後は健康面であれこれと不安を抱えていたから、当時の最高水準の医師団を傍近くに置いていた。

そうした中、当時の名医として名高い竹田定加や半井瑞桂らの番医はもとより多くの名医の治療を直接受けたことで、たぶん海狗腎(オットセイ)情報も彼の耳に端に入っていたことも考えられる。

しかし薬物情報と現物の入手とはまったく別次元のものであるということをここでは考慮しておかなくてはなるまい。

ここで重要なことは、海狗腎(オットセイ)なるものがこの時代はっきりと海獣の「オットセイ」だと特定されていたかどうかが非常に疑わしいのだ。

疑わしくもあり、実に曖昧なのだ。

強壮剤としての薬効があるという海狗腎(膃肭臍)とはどんな生き物なのか、意外なことに当時の医療に携わる薬師・医師らはもとより巷の日本人の誰もがその実態を知らなかったのである。

海にいる大きな海獣、あるいは海魚というレベルの認識であれば、海豹やトド、あるいは鮫や鱶も該当するやも知れず、それこそ誰も「オットセイ」なるものを特定することができなかった。

それこそ当時は現物と医薬文献との間でその情報が一致しない事例はいくらでもあったのである。

学者はその名称や存在自体は知っていても肝心の現物そのものは実際には見ていないこともあった。

当時でも動植物のいわゆる生薬(しょうやく)というものを特定する作業はもちろんのこと、その生薬としての効能の善し悪しを見定める選品作業というものは専門的な知識と経験が必要であっただけに、それこそ一夕一朝に解決できる問題ではなかったのだ。

事実、当時最新の中国(明)の薬物書として刊行されたことで有名な『本草綱目』でさえ、そこに描かれている膃肭臍(オットセイ)の図録は巨大な怪魚そのものなのである。

当然ここからオッセイにつながるような情報は得られなかったはずである。

ということは、『本草綱目』の編著者である李時珍でさえもが実際のオットセイを見たことはなかったということになる。

加工された「海狗腎」は目にしたかもしれないが、膃肭臍の全体像はどこまでも怪魚であったということになる。

怪魚と「海狗腎」とでは絶対にふたつは結びつかない。

当時の『本草綱目』が膃肭臍をどのように表示していたのか国会図書館のアーカイブでようやく探し出してきたのでご覧あれ。

これで『本草綱目』に紹介されている膃肭臍がいわゆるオットセイなるものに見えるかという点を確認していただきた。

オットセイに鱗があるのかということである。

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ここで厳密にいえば、生前秀吉はこの『本草綱目』に描かれた「膃肭臍」なるものの絵姿さえもを目にはしていないし、それは叶わなかったのだ。

というのは『本草綱目』が明の李時珍の手によって完成したのが1578年当時であるが、日本に『本草綱目』が実際に輸入されたのは、江戸幕府が開かれたずっと後年のことであった。

しかも当時でさえ『本草綱目』は、容易に国外に持ち出されるような部類の書籍ではなかった。

第一、この時代明国は日本との直接の交易を断っていた。

そうした状況下にあって1607年にようやく長崎で林羅山が『本草綱目』を入手して、始めて家康に献上したわけであるから当時でもなかなか入手できない貴重かつ高価な稀覯本であったことになる。

ここではじめて家康が権力者として「膃肭臍」なるものに最も早く注目したという明確な経緯が判明してくるということになる。 
 
さらに留意しておかなくてはならないことは、たとえ貴重な文献が入手できたとしても薬用としての「オットセイ」の特定作業と実際にそれの捕獲に繋がらなくては意味はないことになる。

結局現物を入手するにも膃肭臍(オットセイ)という海獣の特定ができて初めてそれが可能となる。

これが実現したのは権力者としての家康の絶大な権力が発揮されたからであり、そこには卓越した彼の情報収集力がものを言ったといえる。

幸いなことに、家康にはそうした海外情報を齎してくれる有能な人材がブレーンとして身近に存在していた。

彼の元には明から渡来してきた医師団がいたことはすでに拙論でも紹介したところである。

さらにウイリアム・アダムスやヤン・ヨーステンのような海外情報に通じた西洋人さえもがいた。

家康は自ら彼らに問いただし、特定作業に繋がる情報を得たことであろう。

そうなるとここは偶然などということではなく家康にとっては必然的な流れがあったわけで、すべては入手するべくして確実に己の手で掴み取ったということになるのではないか。

ここらが家康の本来の凄さであり、その実力に見合った強運というべきところである。

要するに、家康のもとにはオットセイを特定できる人間がいたということである。

ここから「膃肭臍」とオットセイとが特定され、ふたつが見事につながることになる。

オットセイは哺乳類食肉目アシカ科の海獣であって、北太平洋のアラスカ周辺や千島列島付近にまで生息しており、特に冬季には本州中部当たりまで回遊するという生態でもあるから、当時の日本人にとってまったく未知の動物というわけではなかった。

オットセイは繁殖期になるとより強い遺伝子を残すために、強い一匹のオスが多くのメスを独占し、大きなハーレムを形成する動物ということからみれば、誰が観てもその強壮性そのものは理にかなっていよう。

しかもそれが権力者が欲しがる最高の補腎薬とは、家康自身が気付くまでは日本人の誰一人として気付く者はいなかったのである。

ここに家康の本当の凄さがある。

というわけで天下人秀吉のもとではオットセイの実体そのものはすこぶる曖昧なままで、捨て置かれていたということになる。

それこそ国内の既存の本草書にいくらかそれらしき記載はある。

だが肝心のオットセイなるもののはっきりした特定はいまだ出来ておらず、いくばくかの情報の片鱗はあったとしても結局秀吉の時代では海狗腎そのものの入手は不可能だったということになる。

たとえ海狗腎なるものに天下人秀吉が強い憧れを抱いた補腎薬であったとしても、さすがにオットセイの特定がされるだけの確かな情報が彼のもとでは揃わなかったということになる。

結局のところ秀吉は海狗腎の入手に間に合わず63歳で逝去、家康はオットセイ入手に間合い見事にセーフ、75歳までしたたかに延命し天下を掌握したということになる。

しかもこの間に家康は生涯子供を18人ももうけたのである。

あの世では、秀吉が地団太踏んで悔しがったことであろう。

まあそれでも秀吉自身は、当時の名医曲名瀬道三自身も晩年愛用していたという人参入りの理中丸や補中益気湯ぐらいなら、精力回復を願ってせっせと服用していたのかもしれない。

本稿では、精力剤の効果を吹聴しているのではない。
むしろこうした薬物に頼ってしまうのは逆効果であろう。

強精剤はやたら弱った体をむち打つものである。

これによって精力が一時的に増してもこれは直ちに延命に繋がるものではない。

限りある命を精力増強に振り向けるわけで、肝心の生命力そのものが損なわれることもある。

この辺りも家康は賢く対応していたということがいえよう。

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