子ロバの日記 191                                    2012.2.26

「もしだれかが、『なぜほどくのか』と尋ねたら、『主がお入り用なのです』と言いなさい。」
                              ルカによる福音書19章31節


1184年3月、必死の巻き返しを図る平家が瀬戸内を制圧しながら再び上って来ます。摂津の国、福原あたり(兵庫県)に陣を構えた彼らを迎え撃つ源義経、範頼でしたが、一時攻めあぐねます。
しからば相手の油断する裏側、鵯越(ひよどりごえ)から急襲をと義経は切り立つ断崖を駆け下りました。
「まさか、あの絶壁から来るとは!・・・」
有名な一の谷の決戦です。その時用いられた動物は馬でした。

人が重大な働きをなそうとする時、その時その瞬間に最適な乗り物が選ばれるようですね。  

アラビアのロレンスは、広大な砂漠を味方にしてラクダで神出鬼没の作戦を行いました。
紀元前三世紀、カルタゴの将軍ハンニバルは、ローマ共和国攻めのために37頭の象を連れてアルプスを越えようとしています。
 
どれも戦いに勝つために、役に立つ動物が選ばれたようです。考えてみれば不幸な話しですよね。

とは言え、今でも人類は良い意味で、同じ工夫を続けていないでもありません。
癌に勝つために、研究者は今や大腸菌に乗せて遺伝子組み換えを行う・・・そんな作戦もありますからね。
え? それは違う?

ところで、戦争にあまり役に立たない動物といえば、我々ロバは、その筆頭にあがるでしょうか?どうも力がぶつかり合い、早さが競われる勇ましい戦闘場面に、ロバは似合わないようです。
臆病で、愚鈍で、頑固で、弱い、そんなイメージが残念ながらあります。子ロバも負け惜しみだけは強いんですが、それ以外はからっきしですからね。

数年前の調査によれば、日本全国で飼われているロバは、わずか二百頭ほどとのことです。意外に少ないんですね・・・。国内だけを見れば、まさに絶滅危惧種に指定されてもいいロバですが、でもね、どっこい世界中ではまだまだたくさん活躍しているみたいですよ!

ロバって、おとなしくて、粗食に耐えて、耐久力があるからでしょうか。

それでも、聖書を読むたびに、子ロバが唯一誇りと感じ、ちょっぴりプライドを揺すぶられるところがあります。それはイエス様の十字架に向かう道です。エルサレム入場の時になんとイエス様はわざわざ子ロバを選んでくださり、その小さな体に跨って、堂々の入場を果たされたからです。

聖書によればあの時、イエス様を歓迎する人々は自分たちの上着を道に敷き詰めたために、道が色とりどりの絨毯を敷かれたようになったようです。その上着の上を踏みしめながら、あの時の子ロバはイエス様をお乗せしてゆっくりゆっくり歩いたのでした。

イエス様は、平和をもたらすためにお出でになりました。
あなたの足りない所を捜して、あなたを責めるために来られたのではありません。

イエス様は、神とあなたとの間に平和をもたらすためお出でになりました。
あなたを訓練して、試験に合格したら神の国を許す、そんなためではないのです。

イエス様は平和を与えるためにおいでになりました。
あなたの大失敗を思い出させ、罪深いあなたを打ちのめすためにお出でになったのではありません。

イエス様は、子ロバの背に乗ってお出でになりました。
それは、平和をあなたの心に築くためにです。

イエス様はあなたを馬で追い詰めるためでなく、ラクダであなたの不意を突くためでなく、象であなたを震え上がらせるためでなく、あなたにただ、平和を届けたいと子ロバに乗って入場されたのです。

あなたに近づかれるイエス様を信じませんか? 裸のあなたを、イエス様はすでにご存知です。何も隠す必要はありません。

あなたも自分の殻を脱ぎ捨て、道に敷き、踏み潰してもらいましょう。
硬い殻が脱ぎ捨てられ、あなたを偽る誇りとプライドの上着が取り除かれて、それを主が踏み潰してくださる時、私たちに神からの平和が訪れるのではないでしょうか。

自分の力を信じる、それだけではいつか疲れてしまいます。
自分の可能性を信じる、それだけではいつかボロボロになって、倒れてしまうのです。

人は神を信じるとき、本当の意味で自分の可能性を信じることができます。
人は神を信じるとき、自分の内なる弱さにさえ、強さを見い出すことが出来るようになるのです。

イエス様は、子ロバに乗って、ゆっくりあなたに近づいてくださいます。弱い小さなロバでさえ有益な役に立つように、どのような人もすべて神の前に、尊い、大切な役に用いられるようになるのです。

さあ、二月も最後の週です。まもなく三月ですね。
暖かい春が待ち遠しいように、私たちの心は、暖かな神の真実を欲しています。それをあなたも受け取ってください。

野方キリスト教会では、毎週日曜日に礼拝を行っています。教会は初めての方を歓迎します。

子ロバも子ガメも老ロバも待っていますよ!!



















子ロバの日記 190                                     2012.2.19

「イエスがどんな人か見ようとしたが、背が低かったので、群集に遮られて見ることができなかった。」
                                ルカによる福音書19章3節


「ご主人様、今日はあの有名なお方が、エリコに来られるそうですよ!」

ザアカイの使用人が、お茶を運んできながら、ささやきました。

「え? 誰が来るって? イエスだと? 有名なのか? どんな奴だ、そいつは・・・」

「はい、とてもお優しい方で、どんな貧しい人も分け隔てせず神様の話をしてくださったり、病気の人は治したりしてもらえるそうですよ・・・」

「ふーん、どうせ人を集めて何か企んでいる、食わせもんじゃないのか!?」

ザアカイはそれだけ言うと、帳簿に目を戻します。

「えーと、今日はこいつの徴税所と、その後あいつの徴税所に回って、税金を回収してこんといかんなあ。ちょっと甘い顔してたら、すぐ納税が滞るからなあ・・・」

彼はエリコという大きな街の、徴税人のボスでした。頭が切れて仕事ができ、立ち回りもうまく、ローマの役人に付け届けも怠りませんでした。聖書によれば、彼は経済的には成功者でした。

「来られたぞー、イエス様が来られたぞー!広場の方に来られてるぞー!」

そのうち大きな声が聞こえ、街の人々も家々から出てきて、声のする方向へゾロゾロ走り出します。
ソロバンを弾いていたザアカイも指を止め(ソロバンがあったならの話ですが)、ちょっと迷ったけれど、行って見ることにしました。前に一度、徴税人仲間の一人が、「イエス様はすごいお方ですよ」と話してたのを、思い出したのです。

「こっちだ、こっちだ、こっちに来られてるぞ」

声のする方へ走ると、すでに道は黒山の人だかりです。

(ふーん、こりゃ、すごい人気だ。どんな奴なのかねえ。)

ところでザアカイの唯一の泣き所は、背の低いことでした。人垣の出来た所では、前が見えません。

「おい、チビのザアカイだぜ、ザアカイもイエス様を見たいんだとさ。」
「あいつの背が低いのは、担いでまわる金袋が重すぎて、背が縮んだのさ。」

町の人の多くは、そんな陰口を聞いて笑うことはあっても、ザアカイのために場所を譲る者は一人もいません。

しかし、ザアカイの強い所は、人に何と言われようが気にしないことでした。友人が少なかろうが、人から嫌われようが、所詮負け犬の遠吠え、言いたい奴には言わせておけ、俺が成功者なんだから。そう思って、気にしないことにしていました。

(よし、あの木に登ってみるか、間違いなくこの道に来られるはずだから、高みの見物と洒落込もう。)

聖書によれば彼はイチジククワという種類の木に登り、座りやすい枝を見つけて、下を窺います。イチジククワは育つと10mほどの高さになります。横広がりに大きく枝を伸ばし、快適な木陰を作ってくれるんだそうです。

(おっ、来た来た来たぞ、ふーん、こいつがイエスか・・・。ふーん、・・・・)

枝の上からこっそり観察していたつもりなのですが、ところがザアカイのいる枝の真下に来られたイエスは、突然上を見上げてニッコリ笑い、声をかけました。

「ザアカイ、そうだよ、あなたのことだよ。話しがあるから急いで降りてきませんか。今夜、あなたの家に泊めてもらいたいんだ、いや、泊めてもらう事に決めてるんだよ。」」

「えっ! わ、わたしのことですか?(何で名前を知ってるんだろう?しかもうちに泊まるだと!?)
 は、はい、すぐ降りていきますから。」

ザアカイは胸をドキドキさせながら降りて来ました。まったく思いがけないことでした。
何で私のことを知っているのか?でもとにかく、不思議と嬉しい気持ちで一杯になりました。

無駄な金など、一円も出したくないザアカイでした。今日に至るまで、ザアカイの嫌いな言葉は「寄付」と「人助け」でした。誰かが何かをもらいに来ても、アクビとゲップとおなら以外は金輪際出したことはありませんでした。

けれども、なぜでしょう。この時イエス様に声をかけられてから、自分の気持ちが自然にすっかり変っていくのを感じました。
彼は「喜んでイエスを迎え入れた」のです。

「イエス様、わたしはこれから違う生き方をしたいと思います。貧しい人に目を向けます。今まで人から騙し取っていた物は、四倍にしてでも償おうと思います。」

イエス様に出会い、ザアカイにどんな変化があったのか、詳しいことはわかりませんが、実に彼の人生にとって大事なことが起こったようです。
そしてそれは素晴らしい転換だったようです。
さあ、それからザアカイのあだ名は何に変ったでしょうか?

「親切でおせっかいのザアカイ」でしょうか?
「貧しい人にお金を配ってまわって背が縮んだザアカイ」でしょうか?

伝承によれば、後にザアカイはカイザリヤ地方の教会の監督に推薦されたそうですが、さあ、それもありうるかもしれませんね。

ザアカイが木から下りてくる前に、まずイエス様が天から降りて来てくださり、私たちに福音を語ってくださったのです。

喜び、敬虔、良き変化、感謝!
人生、こうでなくっちゃね!

さあ、二月も下旬になります。どんなに寒くても、春の希望があるから、耐えられます。
人も、歳をとり体が衰えても、イエス様が約束された神の国と、永遠の命があるから、希望があるのですね。

野方キリスト教会では、毎週礼拝が行われています。教会は初めての方を歓迎します!

子ろばも子ガメも老ロバも、待っていますよ!!















子ロバの日記 189                                2012.2.12

「そこでイエスは言われた。『清くされたのは十人ではなかったか。ほかの九人はどこにいるのか。」
                                 ルカによる福音書17章17節


九州の柳川といえば水郷、川舟観光で有名ですね。春になったら船頭さんの名調子を聞きながらどんこ船に揺られ花見に興じる。そして船から上がったところで土壌鍋が待ってたら、ああ、子ロバは幸せなんですが・・・。

ところでこの柳川地方は、戦国時代、立花宗茂という殿様が治めていたそうです。豊臣秀吉によく仕え、朝鮮出兵にも馳せ参じ、秀吉から「九州第一の者」と絶賛されたほど重用された大名でした。

しかしやがて秀吉が死に、次第に徳川家康の力が大きく伸びるようになります。関が原の決戦において豊臣恩顧の大名は生き残りのために、家康に敵対するのをためらうようになります。当然です。

ところがこの立花宗茂は秀吉に受けた恩に背を向けることが出来ず、苦戦する豊臣方に味方し銃火轟く戦場において家康に対峙したためその罪を問われ、13万2千石の領地召し上げられ、放逐の身となり果てるのです。

しかしながら城を失い家臣を失った宗茂を、その後もじっと見ていた目がありました。やはり家康です。
流浪の身となった後も豊臣恩顧の武将として一貫して潔い行動を貫いている宗茂の噂を聞き、家康は好感を抱きます。そしてなんと20年後のこと、旧領柳川へ彼を藩主として再封するのです。
当時の慣例で考えられない、まったく奇跡的な処遇でした。

家康は言います。

「おのおの方、聞かれたか?あの宗茂公の律儀な事よ。ひとたび厚く遇されたならばその恩を生涯忘れず、地位を失い藩領を失おうとも武士の道に恥じることなく真っ直ぐに生き、しかして己の道であるために徳川をひとかけらも恨みはしない。武将たる者、あのように潔くありたいものよの!」

やっぱりひとかどの人物となると、ものの見方が違うのでしょかね。

さて、聖書にも恩に感じいる話しがありますよ。

ある地方をイエス様が歩いていた時です。十人の病人が「イエス様助けてください!癒してください!」と、遠くから叫んでいました。彼らは深刻な皮膚病に冒され、社会生活が出来なくなった人たちでした。

彼らの病気は宗教的汚れとみなされ、感染しないよう居住地から追い出され、家族とも別れました。病人同士でかたまって、郊外の片隅で死んだように暮らしていました。遠くから叫んだのも、人に近づいたら怒られるから、だから遠くから叫んだのです。

「イエス様、どうかわたしたちを憐れんでください。」

イエスは彼らのほうに近づきます。

病人達は、
(えっ! 有名な先生がわたしたちのような者に目をとめて、近寄って来てくださる!)
と、たじたじとなったでしょう。

彼らと、どのくらいの会話があったのか詳しくはわかりませんが、最後にイエス様は、

「祭司たちのところに行って、体を見せなさい。」と、命じられたのです。

病人達は怪訝に思いながらも、その言葉に従います。

「なぜあの方は、祭司のところに行けと言われたのかな?」

「行ったからと言って、どうなるもんでもあるまいに、おかしいなあ・・・」

そんなことを話し合いながら、十人の重い皮膚病の者達が歩いていると、ふと自分たちの病気が治り始めているのに気がついたのです。

「お、おい、見ろよ、俺の体が段々普通になっていく! おい、治っていくよ!」

「ああ、お、俺もだ! ほら、あんなに瘡蓋が出来て、あちこち破れてたのに、つるつるだ!」

「うわわわ! 信じられん! ここも腐って汁が出てたのに、ほら! 俺の体もすべすべになってるよ!」

重い皮膚病に苦しめられていた者達は、狂喜したように喜び、跳ね回り、そのまま走り出しました。

「うわーい、街へ戻れる! 人生を取り戻せるぞ!」

走り去る彼らの影が、段々小さくなります。

しかし、その中で一人だけ、戻ってくる男がいました。ユダヤ人に軽蔑されているサマリヤ人でした。唯一人彼だけはまっすぐ引き返し、イエス様の足もとにひれ伏して感謝を言います。

「イエス様、ありがとうございます。本当に、お礼の言葉も見つかりません。わたしは、わたしは、なんと申し上げたらいいか・・・・・」

そのまま泣き崩れてしまいます。自分の病気が治ったのはこのお方のおかげだとはっきり認め、全人格でこの方の前にひれ伏しました。

「病気が癒されたのは、十人ではなかったのか? 他の九人はどこに行ったのか? このサマリヤ人以外に、神を賛美するために戻ってきた人はいないのですか? では、あなたは安心して行きなさい。あなたの信仰があなたを救ったのですよ。」

聖書は、神の恵みを頂く人は多いが、それを認識し、神に感謝を捧げられる人は少ないと言います。
神に祈る人は多いが、祈りがかなえられた時、それを深く感謝できる人は、非常に少ないのです。

しかし、神様から頂いた恵みを感じ取り、神に感謝を捧げるなら、わたし達の人生は変ります。

もし昔一度信仰を持ちながら、長い年月の間にその感激を忘れ、離れてしまった人がいたら、「ほかの九人はどこに行ったのか?」という主の言葉を思い出してください。
誰でも、神の前に感謝して生きる恵みが待っています。

さあ、二月も中旬です。春ももうすぐですね。
野方キリスト教会では、毎週日曜日に礼拝を捧げています。教会は、初めての方を歓迎します。

子ロバも子ガメも老ロバも、みんな待っていますよ!!


















子ガメの日記52       2012年 2月 5日

 「どちらかである。あなたがたは、神と富とに仕えることはできない。」
                  ルカによる福音書 2章49節

寒いですねえ〜
日本中が寒波に襲われている状態です。
ええーなに? こんな時に石油ファンヒーターが壊れたって?
購入してから11年たつからしょうがないかなあ。
しかたがない、電気ヒーターを使って。
しかし、灯油より電気のほうが高いから、困るなあ。
と、なんでもお金に換算してしまう子ガメです。
こんな子ガメにとって、今日の説教の箇所は耳の痛い話であります。

だって、老後の暮らしもどうなることかわかりません。
年金受給の引き上げが68歳? いや、70歳?
いったい、それまでどうやって暮らせとおっしゃるの?
その話を聞いたときには思わず
「70歳まで働ける健康な心身をわたしにお与えください。」
と、神様に祈ったものです。

子ガメは一人暮らしの独居老人を仕事柄、たくさんみてきています。
そして、一人暮らしゆえに心身に不調をきたす方々をみて
「人間は決して一人では生きていけない。また、お金よりも愛情が大事である。」
という現実をみてきています。
しかし、いざ自分の現状に置き換えてみると、
「愛はなくても生活はできるけど、お金はないと生活はできないよなあ。」
と、超現実的なことを考えてしまうわけであります。

前に、野方教会のM姉のお話をお伺いしたことがあります。
M姉は90歳になられ、戦中戦後、それはそれは大変なご苦労をされています。
なのに、満州で生活されていたあいだは貧しい中国人のかたに
いろいろと物資を分け与え、戦後の苦しい生活のことをお聞きしても
「いいえ、わたしは必要なものはいつも神様が与えてくださったから
何も心配したことはありませんでした。」
と、笑顔でお答えになられたことを子ガメは今でも覚えています。

あの食物・物資不足の時代を生きてこられ「何も心配したことはない」
とさらりと言われたM姉の信仰心は大変素晴らしいものです。

それに比べ、子ガメなんか、自分の周りには食べ物・物品はあふれかえるほどあり、
自分の隣にもう一台別のファンヒーターを置き、
携帯電話やら、パソコンやら置き、
結局、電気代や灯油代、電話代やインターネット代などの金額にあたふたし、
支払のために働くといった、便利なのか不便なのか
わからないような生活を送っております。

「なんのために生活しているのか?」
原点に返って考えてみる必要がありますね。
少なくとも、「毎日寒くても、愛があるから幸せよね。」
といった家族像をめざして毎日を過ごして生きたい所存です。











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