鬼木家のルーツ

鬼木家の先祖は高祖城主、原田家の家老だったと伝えられます。(出典:筑前の古文書 県教育委員会)

原田家は現在の筑紫野市原田付近で起こり、源平時代には安徳天皇を奉迎したこともあるそうです。平氏滅亡後、現在の糸島市高祖に移り、高祖城主として栄えました。

大内氏が九州北部に入ると、その配下に属し、原田了栄の時代には大友氏の侵攻を撃破したこともあったそうでが、豊臣秀吉の九州征伐の際に領地を召し上げられ、原田家も雲散霧消しました。

その後、原田一党は現在の糟屋郡薬王寺温泉あたりへ逃げました。その家老の鬼木家も筑前のどこかへ逃れたようですが、詳細な記録は残っていません。

 

 

鬼木眼科初代 鬼木棟才(とうさい)

 明治時代に入り、鬼木六右エ門の三男、棟才(嘉永元年〜昭和6年、1848-1931 享年82歳)は太宰府で医業を学びました。太宰府がある筑紫地区は、福岡藩と秋月藩に囲まれた地で、江戸時代から医業が盛んでした。そんな恵まれた環境下で、棟才も医業を学んだようです。

 その後、棟才は高場眼科の末裔の一人、岡松節の娘、コマと結婚して、岡家の養子に入りました。高場眼科は筑前に古くから伝わる医家の一つで、高場乱らを輩出しました。しかし、岡家とウマが合わなかったのか、棟才はまもなく岡家を離れ、太宰府に戻りました。

 その後、明治17年に施行された全国統一の内外科医術開業試験に合格し、太宰府2373の地に鬼木医院を開院しました。これが現在の鬼木家の始まりです。

 その頃、太宰府には、他に中川医院、座親医院、萩尾医院などがありました。

 ペリーが来航する以前に生まれ、江戸、明治、大正、昭和の激動の4代を生き抜いた棟才は、今日の鬼木眼科医院の土台を作り上げたと言えましょう。(出典:筑紫医師会70周年史、福岡県眼科医会報200号記念特別号)

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中央やや右の白髭を生やした翁が鬼木棟才です。最後列は右から鬼木棟隆、鬼木博之、鬼木敬太郎、鬼木愛二郎です。(昭和初期の撮影でしょうか?)

 

 

鬼木眼科2代目 鬼木敬太郎(けいたろう)

鬼木眼科2代目は鬼木棟才の長男、鬼木敬太郎(明治9年〜昭和18年、1876-1943 享年67歳)です。修猷館中学、明治30年に第五高等学校医学部(現、長崎大医学部)を卒業後、明治31年に医学得業士の資格を取得、太宰府に戻り、明治35年に鬼木医院を継承しました。開業前に東大眼科で研鑽を積んだようで、敬太郎の代から鬼木眼科を標榜するようになりました。

当時、鬼木眼科の近所には民宿のようなものが2、3軒ありました。太宰府は交通の便が悪かったので、患者さんはそこに宿泊して養生していました。

敬太郎は地域医療にも貢献しました。明治40年には筑紫郡医師会(現、筑紫医師会)の設立に発起人の一人として尽力し、昭和3〜9年には第10〜12代筑紫郡医師会会長も務めました。しかし、太平洋戦争中の昭和18年、脳溢血でぽっくり亡くなりました。(出典:筑紫医師会70周年史)

 

棟才の次男、鬼木愛二郎(敬太郎の弟)は、鬼木眼科と同じく、太宰府の地に鬼木医院(内・外科)を開院しました。養子の鬼木博之(棟隆の実弟)が継承後は鬼木産婦人科になりました。

愛二郎は昭和14〜17年に第16〜17代筑紫郡医師会会長も務めました。しかし、昭和31年に肝硬変で亡くなりました。

太宰府には、横町に鬼木眼科、新町に鬼木産婦人科という時代がしばらく続きました。

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妻カツと一緒に。

 

 

鬼木眼科3代目 鬼木棟隆(むねたか)

鬼木眼科3代目は鬼木敬太郎の長男、鬼木棟隆(明治40年〜昭和34年、1907-1959 享年51歳)です。修猷館中学、旧制佐賀高校、昭和10年に九州帝国大学医学部を卒業後、九大眼科に入局。敬太郎の死後、昭和19年に太宰府で鬼木眼科を継承しました。昭和23年から4年間、太宰府町(現・太宰府市)の公安委員も務めました。

その後、昭和27年に鬼木眼科は現在地の二日市712へ移転しました。

当時、二日市には、他に杉医院、重松医院、朔医院、永川医院、西尾医院、柳沢医院などがありました。

また当時、筑紫郡医師会の集会場は二日市(龍頭、田代)にあり、棟隆はそこによく出入りして、談笑していました。場所は二日市八幡宮のやや北、東峰マンション二日市のやや南で、現在は中央栄町昭和共同利用施設(三地区公民館)、及び駐車場になっています。

しかし、棟隆はそれから7年後の昭和34年に51歳という若さで亡くなりました。その翌年に生まれた鬼木隆夫は、家族や親類から棟隆の生まれ変わりと言われています。

 

鬼木博之(棟隆の実弟)は愛二郎の死後、昭和33年に鬼木産婦人科を春日原(行政区は大野町、現・大野城市)へ移転しました。博之は昭和37〜45年に第33〜36代筑紫郡医師会会長も務めました。鬼木産婦人科は博之が亡くなる昭和56年まで続きました。

筑紫地区には、二日市に鬼木眼科、春日原に鬼木産婦人科という時代がしばらく続きました。

 

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 昭和27年頃の鬼木眼科医院。当時は眼科だけでなく、内科も標榜していました。棟隆は愛車のスクーターで、往診に出かけていました。

 

 

 

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