国宝 大浦天主堂

Oura Church


Welcome

<行事予定>

料金改定のお知らせ

 時下、ますますご清栄のこととお喜び申し上げます。また、平素より、当委員会の活動につき、格段のご配慮・ご理解を賜り厚くお礼申し上げます。
 さて、当委員会では、諸般の事情を考慮し、今年7月1日(水)から下記により拝観料の改定を実施することとなりましたのでお知らせします。
 何卒ご理解賜り、これまで同様ご協力方よろしくお願いいたします。
 なお、今回の拝観料改定に伴い、「従来30名から対象」といたしておりました「団体割引制度」につきましては、「20名から」とさせていただきます。
国保 大浦天主堂保存委員会

○拝観料新旧料金表

区分 大人 中高生 小学生 障害者
大人 中高生 小学生
一般 現在 300 円 250 円 200 円 150 円 130 円 100 円
改定後 600 円 400 円 300 円 300 円 200 円 150 円
団体 現在 250 円 200 円 150 円 130 円 100 円 50 円
20人~ 改定後 500 円 300 円 200 円 250 円 150 円 100 円
※昨今の修学旅行の実態に対応し、小グループの修学旅行生は全て団体割引といたします。

<歴 史>

大浦天主堂は二つの歴史的出来事と密接に関わっています。
一つは、言うまでもなく大浦天主堂の正式名称である「日本26聖人殉教者天主堂」からもわかるように、1597年日本で最初に殉教した日本26聖人たちに捧げられた教会です。そのため、大浦天主堂は殉教の地である西坂に向けて建てられています。
もう一つは、1865年におきた信徒発見です。大浦天主堂が1864年にたてられ、翌1865年2月から公開が始まった一ヶ月後に浦上の隠れキリシタン達が信仰告白をして名のりを挙げました。プチジャン神父は大喜びでフランス、ローマに報告しています。
詳しくは下の項目からご覧下さい。



建造から国宝指定まで

1.設計から建造、祝別まで
 パリ外国宣教会フューレ神父は、文久3年(1863)1月22日に来崎し、2月14日南山手の外国人居留地に隣接した現在地を入手しました。
 次で、8月初旬に来崎した同宣教会プチジャン神父の協力を得て、ジラール、フューレ両神父の設計図をもとに、同年12月熊本県天草出身の棟梁、小山秀と契約をなして、天主堂建立に着手しました。天主堂はプチジャン神父の指導で建てられ、煉瓦造の教会ですが表面は漆喰で白く塗られています。
 元治元年(1864)12月29日に工事は俊工し、翌年慶応元年(1865)2月19日、パリ外国宣教会日本管区長ジラール神父を始め、フランス領事、長崎港内に停泊中のフランス、ロシア、オランダ、イギリス各国の軍艦艦長臨席のもとに荘厳に祝別式を行い、『日本26聖殉教者天主堂』と命名して落成祝いを盛大に挙行しました。
 天主堂は、守護の聖人たちの殉教地である西坂の聖地に向けて建てられ、工費に3万フラン以上を要しました。日本では地名をつけて呼ぶ習慣があり、通称『大浦天主堂』と言います。

2.改築及び修復
 禁教令の高札がとられ、信徒が増加したので教会が手狭になり、改築しました。明治12年(1879)、外壁を煉瓦構造にするとともに、間口を左右に1間ずつ拡げ、奥行きも深くして当初の2倍の大きさに拡張し、ゴチック建築様式にしました。
 昭和20年(1945)8月9日、原爆投下によって屋根、正面大門扉、ステンドグラスその他の部分に甚大な被害を受け、昭和27年(1952)6月30日、国庫補助により、5ヶ年の歳月を費やして修復工事を完了しました。

3.国宝の指定
 本聖堂は、我国洋風建築輸入の初頭を飾る代表的なものです。
 昭和8年(1933)1月23日、文部省により国宝に指定され、更に昭和28年(1953)3月31日、文化財保護委員会によって、再指定されました。

日本26聖人

 名称の由来となった日本26聖人とは、豊臣秀吉のキリシタン禁教令によって捕縛され、慶長2年(1597)2月5日長崎西坂の丘で処刑された26人が、文久2年(1862)6月8日、ピオ9世教皇により聖人の尊称を献上されて、全世界でカトリック全教会信徒の尊崇を受けることになった日本人20名、外国人6名の聖殉教者達のことです。以下その次第を説明します。
 1549年にフランシスコ・ザビエルが日本に宣教して以来、約50年ほどがたった時、豊臣秀吉によってキリシタン弾圧の命令が下されました。その命令に従って石田三成により1596年のクリスマス頃、大阪・京都あたりでキリシタンが捕縛されました。捕らえられたのは、京都でフランシスコ会宣教師バブチスタら6名、大阪でイエズス会修道士パウロ三木ら3名、他あわせて24人でした。
 この24人は、京都や大阪・堺の町を引きまわされた後、長崎へ護送されました。そして、一ヶ月ほどかけて裸足で歩いて長崎に送られましたが、この途中二人が加わって26人(外国人6名・日本人子供3名、大人17名)になりました。このうち、長崎と関わりのある者は2名と言われています。そして、1597年2月5日に長崎の西坂ではりつけの刑に処せられました。その日、西坂の処刑場のまわりには大勢のキリシタンが励ましにみえていたといわれ、ポルトガル船は祝砲を撃っています。
 西坂でのこの殉教はみせしめのためであって、この日から迫害がきびしくなったわけではありません。本格的な迫害が行われるのは徳川家康になってからです。
 では、何故処刑地は「長崎」だったのでしょうか?
 それは、禁教令にもかかわらず、長崎はキリシタンの町として栄えていました。ポルトガル貿易の為、秀吉は長崎に宣教師の居住を認め、住民の信仰の自由を黙認していたからです。だから、その場所を処刑地に決めたのは、長崎に住む人々への警告のためであったと思われます。(参考文献:旅する長崎学3)

*26人がどんな人物だったのか詳しく知りたい方は「旅する長崎学3」をごらん下さい。

信徒発見

(大浦天主堂敷地内にある信徒発見のレリーフ)

 信徒発見とは、1865年3月17日に大浦天主堂にてキリシタンが発見されたことで、その次第は以下の通りです。
 日本は当時まだ禁教令下にありましましたが、フランス人のために1864年(元冶元年)大浦天主堂が完成しました。翌年1865年2月17日、ジラール教区長により天主堂は「日本26聖人殉教者天主堂」と命名、献堂されました。それから一ヶ月後の3月17日、当時「フランス寺」と呼ばれていた天主堂に、珍しい西洋風の建物を一目見ようと、見物人が大勢来ていましたが、その客にまぎれて、浦上の隠れキリシタンたちがやって来ました。そして聖堂内で祈るプチジャン神父に近づき、「ワタシノムネ、アナタトオナジ」、つまり、私たちもあなたと同じ信仰をもっています、とささやいて信仰告白した後、「サンタ・マリアの御像はどこ?」と尋ねました。そこで、プチジャン神父は大喜びで彼らをマリア像の前に導いたのです。こうして、プチジャン神父によってキリスト信者が発見されました。その後、五島、外海、神の島など長崎県の各地から、また、遠くは福岡県の今村からまでも、うわさを聞きつけたキリシタンたちが名乗りをあげにやってきたと言われています。
 豊臣秀吉とそれに続く徳川幕府のキリスト教禁教令、そしてついには1639年の鎖国令により、宣教師達は追放されました。幕府のキリシタンに対する迫害、拷問は続き、残酷さは増す中で来日できなくなり、実に七世代、250年もの長い間、表面は仏教徒を装いながら、しかし内にはキリストへの熱い信仰をもって、代々伝え聞いた信仰を守りとおしてきた隠れキリシタンと呼ばれる信者達がいたことが明らかになったのです。
 この隠れキリシタンとプチジャン神父との出会いの要となったのが、小さなマリア像です。世界宗教史上、類まれなこの出来事が、その小さなマリア像の前で起こったのです。まさに奇跡とも言えるこの感動的な出会いがマリア様を通して行われたのでした。このため、この時の聖母子像は、『信徒発見のマリア像』と呼ばれるようになったのです。また、プチジャン神父から見た「信徒発見」は、キリスト信者から見ると、「神父」と「マリア像」を発見したといえましょう。

<豆知識>

大浦天主堂に関する豆知識です。
ためになる情報満載ですので、よかったらご覧下さい。



[ カテドラル ]

 カテドラルとは教区司教が司教座を有し、宗教行事を行うところの教区の最も重要な聖堂のことをいいます。
 カテドラルという語は、ギリシャ語のカテドラに由来し、この語がラテン語に入って『司教座』を意味することになります。初期キリスト教においては、カテドラルは権威の象徴であり、「エクス・カテドラル」という表現は、ペトロの後継者としての教皇が荘厳に教える権利を意味するようになりました。司教は自教区内のどの教会にも一時的に司教座を設けることができますが、通常は司教自身の居住する町のなかにある特定の教会を継続的な司教座として確定し、それが(教区)司教座聖堂と呼ばれます。ローマではサン・ジョバンニイン・ラテラノ大聖堂が、ローマ司教としての教皇の個有の司教座です。世界中の司教座聖堂の多くが、建立された時代の代表的建造物で建築上の発展をよく示しています。
 大浦天主堂のカテドラルとしての歩みは、1866年にプチジャン神父が日本代表司教に任命されたことから始まります。創建されてから四年後のことです。明治9年(1877年)に日本が南緯と北緯の代表区に分けられた時、しばらくカテドラルをとかれますが(大阪に移す)、明治13年(1882年)にまたもどされます。明治24年(1892年)に長崎教区として正式に発足したとき、カテドラルに指定されています。昭和3年に、それまで九州一轄だったのが、1県1教区の日本最初の邦人司教区となりました。その後、昭和37年(1962年)、山口大司教は再建された浦上天主堂を司教座聖堂に指定し、それまで司教座聖堂であった大浦天主堂は準司教座聖堂になりました。

【大浦天主堂を司教座(カテドラル)とした歴代司教様】

・プチジャン司教(1866~1876、1879~1884)仏国人
 1866年に司教に任ぜられ、大浦天主堂を司教座とする。
 1876年に日本が南北に分けられ南の司教座は一時的に大阪に移される。
 1879年に再び長崎にもどり、大浦天主堂を司教座とする。

・ヨゼフ・ロカイン司教(1884~1885)仏国人
 1884年にプチジャン司教が没したあと1年未満着座。

・ユチオ・アルフォニソ・クザン司教(1885~1911)仏国人
 長崎司教として26年在位。

・ヨハネ・C.コロンバン司教(1912~1926)仏国人
 長崎司教として14年在位。

・ヤヌワリオ・早坂久之助司教(1927~1937)日本人 仙台市生る
 長崎が最初の邦人司教区として独立すると共に、初代邦人司教として
 任ぜられ長崎司教として、10年間在位。

・パウロ・山口愛次郎大司教(1937~1962)日本人 長崎市生る
 1959年には長崎大司教となり、昭和37年(1962)には再建された浦上
 天主堂を司教座聖堂とし、1月1日付けで大浦天主堂は準司教座聖堂となる。

[ マリア像 ]

1.信徒発見のマリア像

 この像は、天主堂内にあり、向かって右側の小祭壇に飾られているもので、創建当時にフランスからもってきたものです。
 このマリア像が『信徒発見のマリア像』と言われるようになったのは、1865年3月17日の信徒発見の出来事に由来しています。
*信徒発見については、歴史の項目で詳しく説明していますので、どうぞそちらをご覧下さい。

2.日本之聖母像

 現在、入口中央におかれている白亜のマリア像のことです。
 高さ4尺7寸(約1m42cm)礎石、高5尺(約1m50cm)、巾2尺(約60cm)の上におかれています。その礎石には
[表面]
慶応元年三月十七日
日本之聖母
信徒発見記念
[裏面]
IN
MEMORIAM
INVENTIONIS
CHRISTIANORIIM
DIA XVⅡ MARTII
A.D. NOCCCLXV

と記載されています。

この像は、日本に数多くのかくれキリシタンたちがいたというビッグニュースが全世界に伝えられた後、フランスからその記念に贈られてきたもので、プチジャン司教はこれを最初、1865年の6月2日に天主堂の門前に据付、日本信徒発見の記念祭典を盛大に催しました。その後天主堂の改築に伴い、聖堂の2倍の大きさに広げられたときに、現在のように、入口正面に据付けられたものです。
「日本之聖母」という、名称はプチジャン司教がその聖式の中で述べているように、「『日本之聖母』という称号は、いま新たに聖母に捧げられたからというのではなく、日本の教会は、はじめから聖母のご保護の下にありました。」、「教皇様が困難なこの国の布教を私に信託されたときに、私は我が身も、我が教会もすべて慈悲深い聖母に捧げました。」ということから、「日本之聖母」と命名されているのです。

[ ステンドグラス ]

 ステンドグラスとは染められたガラスを意味します。色彩を施したガラスを種々に切り、鉛で接合して絵画や模様などを組み立て、窓や欄間などの装飾に用いられます。別名、モザイクやペインティンググラスとも言います。
 ステンドグラスとは、彩色されたガラス片を鉛の板にはめ込んで固定し、窓の開口部に用いたもの。その起源は定かではありませんが、古代エジプトないしは東方世界でガラス製法の歴史と相まって発展したと考えられます。12-13世紀には、大規模な石造穹窿天井を持つ教会堂が建立され、内部は多様なステンドグラス入りの窓で覆われました。特に、フランス北部を中心とする各都市の中心に位置するゴシック大聖堂では、入り口上部にうたがれた巨大な円形のバラ窓をはじめ、内陣周歩廊や側廊部の多数の高窓の全てにステンドグラスが用いられました。
 ガラスの色彩については、12世紀には明るく澄んだ青と、透明ガラス板にうすい被膜に紅色をかけた赤ガラスを基調とし、13世紀後半には、白ガラスの量産が可能となり、濃い青ガラスとともにその時代の特徴となります。14世紀になると、銀の酸化物を用いた黄色ガラスが作られて、琥珀色から黄金色にいたる多彩な黄色が登場し、中間色も自在に出せるようになり、格段の進歩を遂げました。ルネッサンス期には、さらに遠近法に基づいた空間表現も現れ、16世紀には第二の隆盛期を見たものの、近代に入って衰退しました。(新カトリック大事典より)

《正面》

 大浦天主堂のステンドグラスは、正面祭壇奥に掲げられた『十字架のキリスト』像(幅1.5m・高さ3m)によって代表されます。これは、1865年天主堂の建立を記念してフランスのマン市のカルメル修道院から寄贈されたものです。十字架上のキリストとその右に立つ聖母マリア、左には使徒ヨハネ、また十字架の下にひざまづくマグダレナ・マリアを描いたものです。日本で最も古いものに属するといわれていましたが、原子爆弾の爆風によって大破し、今日のそれは、戦後の復旧工事でパリのロジェ商会に発注したものです。

《側廊および後方》


 後・側廊や高窓にもステンドグラスがはめ込まれています。こちらは色とりどりのガラスで装飾されています。
 大浦天主堂のステンドグラスは3度変遷しています。現在のステンドグラスは、1879年に改築されたものです。次に1945年の原子爆弾で大破し、戦後に修復されたものです。爆風を正面から受けたために、入り口上部・祭壇奥のステンドグラスが割れてしまいました。しかし、側廊や脇祭壇の高窓の部分は壊れずに残りました。最後は、1990年の台風被害による破損です。この修理は、小規模であちこち欠けた部分を直しただけです。  以上のように、大浦天主堂のステンドグラスは3度修復されています。そのため、同じ色でも少しずつ違うのが見て取れます。製法上全く同じものがつくれないからです。

[ ゴシック様式 ]

 中世以降のヨーロッパの教会堂の建築様式として、大雑把に二つに分けるとすれば、一つはゴシック式でもう一つはロマネスク式といわれるものです。
 ゴシック様式とは、心を高く高くあげるために高いせんとうを持ち、内部を明るくしてステンドグラス等をはめこみ、心を神様に向けさせようとした造り方です。
 もう一つのロマネスク様式は堂内をできるだけ暗くして、沈思黙考して心の中で神様に祈ろうとした造り方です。
 大浦天主堂はゴシック様式で作られています。内部にはステンドグラスがはめこまれ、天上にリブ・ボールド(こうもり天上)の方式で、つり天上みたいになっています。

[ 鐘楼 ]

 天主堂の後方にあり、2階建てで4坪、階上に鐘をおく(新しく建て替えられています)。鐘朝顔型で、高さ2尺7寸、径3尺2寸、(青銅製)懸釣6寸です。
 この聖鐘の作者の伝来については、フランスのマン市に於いて、「ボウル・ベル」父子により作製され、1865年、フランス人の信仰篤き一カトリック信者(匿名)によって、大浦天主堂に寄贈されたものです。聖鐘の銘は次のように彫られています。
 私はクロチルド・アドルク・ルイズという名前です。1865年フランスのマン市に生まれ、その地の司教シャルル・ジャン・フィリオン台下に聖則されました。私の代父はシャルル・ジャン・アドルク・ド・ルジュ男爵で代母は、  アンナ・クロチルド・ドロリエル夫人でした。ボウル・ベル父子が私の鋳工であり、調律師です。
 この聖鐘は大浦天主堂創立以来、ずっと鳴らしつづけられています。 ただ、最初は人力で人が引っ張って鳴らしていましたが、現在では自動で昼12時と夜6時にお告げの鐘として鳴らされています。
 尚、第二次世界大戦中、多くの梵鐘が供出させられましたが、この鐘は、由緒ある物として、供出をまぬがれたといわれています。

[ 天主堂 ]

 天主堂という呼び方は現在では、あまり使われません。教会堂という呼び方が一般的です。
 それでは、何故、大浦天主堂と呼ばれたのでしょうか。それは、大浦天主堂正面に書かれている「天主」という言葉から来ています。宣教師達は中国で使われていた天主(神様のこと)という言葉を使って、自分たちが新しい教え、神さまのことを布教したいという思いがこめられています。そのため、その当時はまだカトリックという言い方は使われていません。宗教法人としても、天主教団(公教団)という名称を使っていました。このため戦争前に建てられた教会は天主堂と呼ばれています。

<キリシタン資料室について>

キリシタン資料室の展示は旧ラテン神学校の一階で行っています。五つの部屋を使って行っており、
大浦天主堂を拝観なさった方は、ご自由にご覧になれます。展示内容は以下の五つです。


1.フランシスコ・ザビエルによる布教の頃

2.迫害時代(踏み絵、マリア観音等)

3.大浦天主堂創建当時と浦上四番崩れ

4.ド・ロ神父様の木版画シリーズ

5.マキシミリアーノ・マリア・コルベ展示室

<関連施設>

大浦天主堂の敷地の中には、大浦天主堂のほか、三つの建物があります。
一つ目は、旧ラテン神学校が真横に建てられています。
二つ目は、旧大司教館が斜め前に建てられています。
三つ目は、後方上の方に伝導学校(司祭館)が建てられています。


1.旧羅典神学校

大浦天主堂に向かって右側の建物で国の重要文化財です。

以下は、旧羅典神学校前の説明用立て札参照。
『明治6年(1873)キリスト教禁教が停止となり、各地に配流されていた浦上村の信徒が釈放されたのを契機として、大浦天主堂のプチジャン神父は神学校の設立を計画し、明治8年(1875)に完成。設計と監督に当たったのはドロ神父。わが国初期の木骨煉瓦造り。
大正15年(1926)までラテン神学校校舎兼宿舎として使用。以後司祭館や集会所にも使用され、その間若干の一部改造があった。』

現在は「キリシタン資料室」として利用され、いろいろな物が展示されており、大浦天主堂を訪れた人は誰でも見学できます。


2.旧大司教館

この建物は、最初に建てられた司祭館がてぜまになったため、大浦天主堂創建50周年の事業として、建替えられたものです。
設計にはド・ロ神父があたり、この工事中の怪我がもとで亡くなられました。また、この時、鉄川与助は西洋建築についてド・ロ神父から指導されたといわれています。
この建物は歴代の司教様方が住まわれ、長崎教区の本部として使われてきました。


3.伝導学校

この建物は、いろんな使われ方をしています。
大正の頃に建てられたものですが、伝導学校として、司祭館としても使われています。その他、純心聖母会やお告げのマリア修道会の修道院としても使われています。現在は全く使われていませんが、建物は町並保存の伝統的建物に指定されています。

<拝観案内>

【拝観時間】

年間 AM 8:00 ~ PM 6:00
※但し、拝観受付は閉館15分前に終了いたします。


【拝観料】

区分 大人 中高生 小学生 障害者
大人 中高生 小学生
一般 600 円 400 円 300 円 300 円 200 円 150 円
団体 500 円 300 円 200 円 250 円 150 円 100 円

※昨今の修学旅行の実態に対応し、小グループの修学旅行生は全て団体割引といたします。
※団体は「20名以上」で団体料金適用となります。


【拝観のお問合せ、お申込み】

大浦天主堂
〒850-0931 長崎市南山手町5-3
  • 095-823-2628
  • 095-827-5452


<オラショの店>

信心道具の売店です。





<大浦天主堂へのアクセス>

◆JR長崎駅から市電1番「正覚寺下」行(約10分)
 --->「築町」乗換「石橋」行(約10分)
 --->「大浦天主堂下」下車徒歩5分

◆JR長崎駅 徒歩35分

◆長崎バス「大浦天主堂下」下車徒歩5分