中世の海と松浦党 本文へジャンプ




このページの内容 

   直谷城址
   本丸跡
   志佐家の墓
   梶木場の墓
   梶木場の千人塚
   笥瀬の千人塚

直谷城跡
  松浦党一族 志佐氏の居城 直谷城 別名「内裏山城」ともいう

場 所 長崎県佐世保市(旧北松浦郡)吉井町直谷
交 通 車をご利用の場合
      @佐世保市街地から 皆瀬・妙観寺トンネル・吉井支所前・
                    直谷・吉井北小学校
      A伊万里方面から   国見トンネル・柚木・世知原・御橋・
                    梶木場・直谷・吉井北小学校
     松浦鉄道ご利用の場合は 潜竜ヶ滝駅下車約2km
     バスご利用の場合は  佐世保駅前バスセンターより吉井経
                    由松浦行き吉井北小学校前下
歩 道 散策道路は管理状態良好、ただし梅雨の時期には追手道の
     通路は草が茂り足場は悪い。裏木戸には広い駐車場がある
     。


              後ろの山が天守台跡

 直谷城は長崎県北部、北松浦半島の内陸部、東西南北いずれにも
約10kmで海に出られる中心に位置する。吉井町は長崎県では数少
ない海に面していない自治体であった。平成の合併で佐世保市に編
入されたが、まだまだ自然がいっぱいである。県道40号佐世保・吉井・
松浦線中間点の吉井北小学校裏山にある。
 付近は昭和35年から3次にわたり、日本考古学協会西九州調査団
により発掘され、3万年以前の先史遺跡が確認された福井洞窟遺跡
がある所で古代から居住環境は良かったのかも知れない。

 2011年12月4日 福岡県太宰府市にある国立九州博物館を訪れた。
12月18日まで開かれている九州大学100周年記念行事として開催
されている「九州最古の狩人とその時代」に展示されている、前述の
福井洞穴から出土した3万年以前の石器を見に行った。日本最古の石器
として最初に2点が展示されていた。今回が50年振りの初めての里帰り
ある。現在のところ、まだ3万年以前の年代を測定することが出来ないの
で、もしかしたら4万年から5万年以前の石器かもしれない。3万年前と言
えば氷河期を過ぎ日本がアジア大陸と繋がった時代です。ですからこの
石器は貴重な国の宝であると先生は説明されていた。
 この石器は東北大学芹沢先生の考古学研究室所蔵であり、現在も年代
について継続研究中だとのこと。

 その福井洞穴から福井川を挟んで500mの対岸に内裏山がある。
この内裏山には、その昔『城』が築かれ、名を「直谷城」と呼ばれていた。
 平安時代の末期より徳川の初期に至るまで460余年の間、松浦党
一族「志佐氏」の居城であった。福井川を外堀にし、牧の岳を軍馬の
牧場とした雄大なものであったと言われている。源平の壇のノ浦の戦
いの後、安徳天皇が一時ここに隠れ棲んだという言い伝えによって
裏山城
と言われてきた城址一帯である。建設時期、創建者は明らか
でないが、一説では鎌倉時代(13世紀中期)松浦氏の祖、松浦久の
孫清の次男貞が築いたともいわれている。
 内裏山の山頂を占める主郭部(しゅぐるわぶ)は、その外周のほとん
どが平均30m程の自然崖によって楕円形に囲まれ、主郭直下の大谷
には畝状空掘群を配置して城下に至る唯一の城道の防御を厳重にし
ており、このような自然地形を最大限に活用した山城の在り方は、県
下では他に類例を見ることができない。
 また、山麓に向かって放射状に延びた屋根や他に谷筋に出丸、櫓台
、竪堀などを配置し内裏山全体を城塞としており、これらの遺構の保
存状態も良い。直谷城跡は松浦党の研究及び中世城郭の研究にとり
学術的に価値の高い史跡である。(吉井町HP)

 安徳天皇の仮御所については、陣内城址のページの博多と松浦党の
中でも書いている。平成22年9月福岡市南部に隣接する筑紫郡那珂川
町安徳台にある裂田溝(さくたのうなで)を見学した。安徳台が平安時代
に都を逃れてきた安徳天皇が仮御所を構えられた場所として紹介されて
いたことに内裏山と全く同じ説であることに驚いた。ページをご覧下さい。
 


         本丸跡 この先一段高いところが櫓台跡

 1988年(昭和63年)から1990年(平成3年)まで3ヶ年発掘調査が
行われ、頂部の本丸跡から砂岩の岩盤を掘った掘立柱建物跡の柱穴
群や溝跡などが発見された、追手郭(おいてくるわ)には三重の空堀と
土塁が築かれ、一の木戸、二の木戸、各要所に武者溜り、出郭、竪堀
、帯郭(おぶくるわ)や矢石置場などの強固防御施設がつくられ中世
山城の特色をよく示している。
 出土品には、平安時代のおわりのころから江戸時代前半までの中国
製の輸入陶磁器や国産の土器、陶磁器などが多数あり、時期的にも
っとも多いのは、16世紀の戦国時代のものである。

                 志佐家の墓
             佐世保市(旧北松浦郡)吉井町直谷



志佐家の墓

吉井町直谷、福井農協裏福井川向いにある。以前は別の場所に別々に在った物を、水害で流れた為に、現在地に石碑を一括して移設されたとのこと。墓石には数個の小さい十字が彫り込まれているのがある。志佐記に「宗舜御子二人、純正は有馬修理太夫が婿、次男源七郎純意は道可隆信の婿なり。純正の御子純量とてありけれどもいまだ純量に代を渡さずして純正病死す。純量は幼少なり。母は悪人にておはします故、御一門を初め侍中下類に至るまで純量を背けり、純意は文武に達し慈悲第一の人故、諸人尊み、道可の婿と成給ふ」の一節がある。宗舜(純高)は昌の次男で、別名・純次ともいう。宗舜の長男・純正は有馬義貞の娘、弟の純意は平戸の松浦隆信の娘と結婚した。領主権は長男純正からその子・純量に承継するのが順当と思われていたようだが、純正は家督に手を付けずに若死してしまう。問題は「母は悪人にておはします」である。最初は中世的「悪」の概念でいろいろ考えてみたが、どうもしっくりこない。そのうちこれは「キリシタン」をいうのではないか、とういうことに気がついた、と真島節朗さんは十字を刻んだ墓石二基の存在を確認してこう記述されている。この二箇所の墓の所在地を並べて書いてみると。@志佐記の冒頭に「室は妙月梶木場の墓これなり」と場所を特定していること、A松浦市史には「宗舜夫妻の墓は現在福井農協近くの文殊堂の後ろにある」また「妻は有馬修理太夫貞の娘」と注記があること、B志佐記には「宗舜の御子二人、純正は有馬修理太夫が婿」と記述されていることなど私は理解に苦しむ、二つの墓の存在、ここに研究の課題が残されているように思う。ここは真島さんの研究を待つことにして、それまでは想像の世界で楽しむ事にする

               梶木場の墓
       佐世保市(旧北松浦郡)吉井町梶木場


      志佐記に記載されている梶木場の墓

「志佐記」では宗舜の妻・妙月の墓が梶木場にある、とあります。真島節朗さんに戴いたお便りでは、(松浦藩古記録など)によると、志佐嫡流家は戦国時代に五島へ追われ、そのあと田平(現平戸市)の峰昌が志佐に入り、子の宗舜(別名・純高・純次・純綱)を直谷城主にしています。なぜ、妙月の墓だけ所在を特記したのでしょうか。私は、旧志佐家の血脈がある妙月に入婿の形をとり、承継を正当づけたと想像しました。一方、「松浦市史」によると「宗舜夫婦の墓は現在、福井農協近くの文殊堂の後にある」(二三八頁)としているので、あとで移設したのかと思っていました。また同じ頁に「妻は有馬修理太夫義貞の娘」という注記があります。これが本当なら、一五二一年うまれの義貞の娘の適齢期が一五六〇年頃だとすると、宗舜が死ぬ数年前に嫁いだ後妻ということになります。理論的には墓が二つあってもいいわけですが、最初の想像も捨てがたいと思っています。と述べられています。場所は、牧の岳、吉田、世知原を見下ろせる高台で、高さ約
60センチ、幅2メートル程の石積みの墓とそれより若干小さい墓の2基が東西に配置され、小さな石碑が乗っているが文字は分からない、椎の木の大木に護られて鎮座している。最近までは、近くに住まれていた大畑様が掃除墓参りをされていたが他界された為、お近くの鴨川様が草刈清掃をされている。

 
     右写真は今回確認した石碑

 平成20年9月16日帰省したとき、近所の方から梶木場の墓について新しい情報を得た。墓石に良く似た石碑が見つかったと云うので、早速行ってみた。現在の墓石から200mほど離れた田圃の片隅に、高さ40cmほどの小さな石碑があった。梶木場の墓の石塔と全く同じ造りである。広い道から少し入り込んだ所で、昔は細い道が傍らを通っていたのかもしれない、おそらく道標であろう。草に埋没するほどの小さい石碑である。写真をとるために、石碑のまわりの草を素手でむしっていたら、ぬるっとした感触、灰色の大きな蛇がびっくりしたのか、飛び出してきた。たぶん蛇まで草と一緒につかんだのであろう。一瞬宙に舞いあがって、すぐに草むらへと逃げて行った。こちらは驚く暇もなかった。絵にも描いているが入り口のところに小さい古池がある。子どもの頃はこの池でよく遊んだ、池の周りは夏でもひんやりとして涼しく、水は冷たくてとても美味しかった。今は管理する人もいなくて池は水漏れしており、水は池の底を昔と変わらないほどの水量で流れていた。以前吉井史談会会長の佐藤さんの話で、今の梶木場の墓付近には、昔志佐家の離れの舘が在ったと聞いている。たぶんこの池がその館の水瓶だったのかも知れない。この石碑のそばを、かっては水を運んで通っていたのかもしれない。石碑の近くには無名の墓が2基ある、今は神社の近くに農地改良で移築されているが、昔はもっと下に在ったそうだ。


                梶木場の千人塚
            佐世保市(旧北松浦郡)吉井町梶木場


 刀の越は佐世保市吉井町梶木場から松浦市長坂へ抜ける標高289mの峠、昔子供の頃は相撲場(土俵)があった。東の山頂には小さい祠があって取り組む前に皆で安全祈願をしていた。後方(道路挟んで西側)には山を削った観覧席まであった。小学校の頃までは吉井の梶木場と志佐の長野と、年に一回の対抗試合が行われていて、勝った時は鉛筆一本を貰っていたのを覚えている。ある記事によると、この行事は戦前からもっと賑やかに行われていたと書いてあるのをみた。何時の時代に始まったかは分からないが、市境を跨いでの対抗試合、この祭典を復活するのも青少年の育成の為にも面白いだろうと思う。これまで伝統を維持出来なかったのも後継者不足と人口減であろうか。
 先日帰郷したおり、ご近所の方々とお話しする機会があった、ご年配の方から相撲場について聞いたとして、友達が次のように話をしてくれた。東の祠(大日如来)は牛の神様であって、毎年収穫を祝い、牛の供養が行われていたそうである、そこには東京相撲が呼ばれ、村人が座る観覧席の場所も毎年決まっておった。それはそれは賑やかなお祭りであったとか。
 刀の越近くに千人塚がある。明応四年〔1495年〕の秋、志佐壱岐守純昌の直谷城を攻め落とした佐賀の竜造寺と大村の連合軍は、帰路を梶木場から上志佐(現松浦市)にとり休憩しているところを、直谷の残党に襲われ大激戦になり、多数の戦死者がでたことから千人塚と言われている。その後、どこからともなく刀の音が聞こえるというので、この峠を刀の越という地名がついたという。
 余談であるが、刀の越峠と千人塚の間には水深の深い透明度の高い堤がある。私達が小さい頃は、夏は水浴の場所でもあったが、プールが整備されている今日では泳ぐ人もいないかも知れない。この堤の周辺で黒曜石の破片をよく見かけ、綺麗でナイフみたいに鋭く切れる、珍しい石であるからよく拾って持ち帰った。原石は見たことが無い、堤防の盛土に紛れて来たのか、池を掘削する時に出たのか、今でも疑問が残る。


                笥瀬の千人塚
            佐世保市(旧北松浦郡)世知原町笥瀬


 志佐氏13代といわれる志佐純量が幼少のとき父純昌(純正)が亡くなったので母方である島原の有馬氏のもとで育った。直谷城には純昌の弟純意が入っていた。  
 純量は成長して直
谷城を取り戻すため、永禄9年(15661225日(天正9年の説もある)有馬勢の応援を得て夜襲をかけた。一度和睦したが、純量勢が純意の子豊寿丸を人質にしたため、純意は平戸松浦勢や太田の都蔵寺勢と世知原勢の支援により、純量の有馬勢250名を笥瀬で取り囲み、これを全滅させた。後々の人がこれらの精霊を祀るため千人塚を建てたという。


 

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