中世の海と松浦党

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このページの内容

 平戸城
 梶谷城址
 相浦飯盛城址
 山の寺城址
 源久
 唐船山城址
 刀伊西九州を襲う

松浦党一族の城跡
長崎県の歴史散歩を参考に、周辺の松浦党一族の城址をみよう。


  
                平戸城
            松浦党一族 松浦氏の居城

 中世以来、平戸松浦氏の居城は御館をはじめとしていくつかの変遷をみるが、26代(初代藩主)鎮信(法印)が、それまでの白狐山城(勝尾岳城)を棄城して、現在平戸城のある亀岡に築城を着工するのは、慶応4年(1599)のことで松浦氏が戦国大名を脱して近世大名へと転換をはかる時期と符合する。ところが城は完成を待たずに鎮信みずからの手で焼き払われてしまう。オランダ商館設置に象徴される平戸城下の発展と領内のキリシタンの存在に向けられた幕府の猜疑と不信をとくことが理由であったと考えられるが、はっきりした理由は不明である。
 以後、藩主は約100年間城を持たず御館に居住していたが、元禄16年(1703)、5代藩主棟(たかし)の再築願いが許可され、翌(宝永元)年着工、亨栄3年(1718),6代藩主篤信(あつのぶ)の代に完成する。焼却以前の平戸城を日の岳城とよび再築後は亀岡城、玄武城、朝日岳城の名でよばれた。現在の天守閣は昭和37年(1962)の築造である。 

 

               梶谷城
           松浦党初期の居j城(県史跡)

 松浦市今福東免、松浦鉄道今福駅で下車し、北東方向の城山標高197m)に向かって歩く。
 さらに坂道をのぼり、国道204号線を横断すると城山登山道に至る。道は狭いが山頂まで登れる。途中2.3箇所ほど離合場所がある。正面にはかなり長い急傾斜の階段があった、訪ねた時が梅雨時期であったため草が生い茂っていた。
 梶谷城跡は、松浦党の祖、源 久 が築城したと伝えられており、松浦家家譜「松浦家世伝」によれば、築城年代は延久元年(1069)のことでである。このほか嘉保2年(1095)、久安元年(1145)などとする説もある。いずれにしても、松浦党の初期の居城として平安時代末期に築城され、相当長年にわたって断続的に利用されたと考えられる。登山道をのぼると、まずなかば崩れかかった野面積の石垣が目にはいり、大手門跡の石段をのぼると城山山頂に至る。城は山頂部を楕円形に削平して本丸とし、南側に物見台跡、北側に二の丸が配置され櫓台や井戸などの遺構がある。

               飯盛城址
          松浦氏宗家の松浦親氏の居城跡

 佐世保市相浦町 松浦鉄道上相浦駅より歩いて15分
上相浦駅におりたつと、目の前に円錐形の美しい飯盛山(標高259m)が見える。この山は山頂に愛宕神社をまつることから愛宕山とも、裾野の美しさから相浦富士ともよばれる。山の南西山腹に鎮座する飯盛神社の境内から裏手一帯が、松浦氏宗家の松浦親が天文4年(1535)に築いた飯盛城址といわれている。
 15世紀後半から、松浦宗家と平戸松浦氏との関係が悪化し、両家は抗争を繰り返してきた。親の父政を城主とした大智庵城は平戸の松浦弘定、興信の父子の夜襲にあい明応7年(1498)に落城、平戸の幽閉生活を経て親は佐賀の竜造寺氏の斡旋で平戸と和解し、叔父の少弐介元の尽力で相神浦(相浦)の旧領を回復し築城に至った。しかしながら、天文11年(1542)には再び平戸の松浦隆信の、永禄6年(1563)には隆信と鎮信の攻撃にあい、2年にわたる籠城戦の末、ついに敗れ親は出家した。この戦いの経緯については「壺陽録」「印山記」など江戸時代の文献に記されている。なお、親の系図を「宗家松浦」とするのは「松浦家世伝」の記述によるが、平戸松浦氏との抗争を宗家対庶家の抗争とするみかたについては疑問とする説もある。


                山の寺

     佐賀県伊万里市東山代町川内野

         松浦源氏創成期の遺跡
 通称西の岳山地の真ん中に位置する。標高はおよそ450m。
 山の寺山頂に山祗神社がある。
鳥居に熊野十二神権現の額が掲げられているのは、後に熊野権現と習合したからで、加えて(ひさし)、(なおす)、(きよす)3代の松浦源氏の祖霊を祀る。
 元来はここにあった総持寺(そうじじ)の守護神である。
 現在は毎年12月1日の大祭日に
農業者などの参拝が長崎県などからもあって賑わいをみせる。また近年は、これとは別に党祖祭りが4月に催されるようになった。

 総称山の寺のもととなった総持寺は、天正 (1573〜92)末年山代氏の杵島郡芦原(現杵島郡北方町芦原。青幡神社が祀られている)への退転後廃絶した。田尻鑑種の入部後復興されたが、文禄の役のときに名護屋(なごや)在陣の諸大名の陣屋用として破壊され、寺鐘とともに撤廃されて再び姿を消した。その跡地だけが今に残る。 
               右写真は釈迦堂

 近年また再建の動きがあり、発掘調査が行われ、中国の陶磁片などが出土している。広大な山の寺には城砦跡や館跡、また源直らの墓標とされるものなどが散在する。源直は12世紀なかば、平安後期の久安年間(1145〜51)、ここに山の寺城や館を構え、山代の里には政庁をおいた。
 今福(いまぶく)(長崎県松浦市今福町)の梶谷(かじや)城によった父源久の霊を祀り、一族の宗廟とするため総持寺と山祗神社を建てたのである。 その後本宗は清が継ぎ、のち今福に本拠を移した。山の寺は幾多の変転を経たのちに源直の子囲(かこむ)後裔である山代氏が支配するところとなる。囲は1192(建久3)年鎌倉の御家人となり、山代地頭に補任されたと「山代文書」にある。山代氏は、15世紀末頃の栄(さかう)から後は不振となり、継嗣もさだかでない。
 
 戦国末期の山代直の代には飯盛城を本拠とし、山の寺は非常の際におけるいわば最後のとりでとされた。直の子虎王丸「(山代貞)さだし」が龍造寺氏に攻められ、敗れて山の寺で降伏したのは1576(天正4)年であった。山代町峯の霧寄(よせ)神社のあたりは、虎王丸と龍造寺軍との戦場で霧寄は斬寄からくるといわれる。
 現東山代町のうち、西の岳山地の標高400m近い峠を竹ノ古場で越さねばならない滝川内・川内野(あわせて滝野とよぶ)は、烏帽子岳、国見山を水源として長崎県松浦市志佐へ流下する志佐川の上流域にあり、河内野の西端の境で長崎県に接する。境にある地蔵の背面には、数年続いた境界紛争が決着したことを述べた元禄年間(1688〜1704)の刻銘がみられる。
(以上佐賀県歴史散歩より) 右写真は源久公遥拝墓

 松浦党の歴史を辿って、とうとう松浦党3代の祖霊が祀られている場所にたどりついた。それも私の故郷から比較的近いところにあった。私にとっては一大発見である。これまで話にも聞いたことはない。道路がよくなり、車が身近な交通手段に自在に使えるようになったことが、すべてを身近に感ずる時勢であるが、とにかく山から山、そのまた奥に広大な城を構えた昔の人の逞しさに感心した。

                    源直公夫婦の墓案内板

 真島節朗さんはご自分の著書で、源久について、当時大納言であった藤原実資(さねすけ)の日誌「小右記」(しょうゆうき)や(朝野群載)にある現地からの報告書「大宰府解」などから、その存在は史実である。実在の人物であり、「石志文書」のなかで康和四年(1102)八・九両月にそれぞれ譲状を残した「宇野御厨検校」・「散位源」は源久その人である。なおかつ、弘仁23年(823)生まれで従一位左大臣になった源融(みなもとのとおる)、[源氏の最初の家系・嵯峨源氏のひとりで『源氏物語』の光源氏のモデルとされる]、その子孫を比較的信頼度の高い『尊卑分脈』でたどると、五代あとに「鎮西松浦」という注釈のある源久という人物が存在する。父親は鬼退治で人気のある渡辺綱(わたなべのつな)である。久と知は同世代であり同一人物ではないかという説もでてくるとのべられている。それでは論功行賞の対象として議論されたことがわかる藤原実資の日誌「小右記」次の有田唐船山城址の後にご紹介しよう。

                       右写真は源直公墓


                唐船山(とうせんざん)城址
            松浦党の祖源久の孫有田栄(さかえ)の居城址
          西松浦郡西有田町山谷 松浦鉄道大木駅下車約10分
 
 松浦鉄道で有田駅から二つ目の蔵宿駅あたりはかっては蔵敷(ぞうしき)とよばれ、蔵敷宿であった。かなり有力な商人がいたようである。国道202号線沿いに駅から北へ500mほどの所に浄土真宗の浄源寺(じょうげんじ)がある。もとは川の名が残る浄源寺川のほとりに建っていたが、洪水のために移建された。
 国道を北へ1kmほど行くと右手が大木宿であった。佐賀藩が西目(にしめ)「藩の西部地方」一帯の支配の要所とした所で、初期の代官中野神右衛門重澄が代官所をおいたのもここであろう。交通の要所でもあり、公用の馬5疋が常備され、高札場も設けられていた。
 列車が蔵宿駅の次の大木駅にさしかかる頃、右手前方に小高い唐船山(標高約80m)が見え、山頂に唐船山城址がある。いわゆる有田の九十九谷に源を発する小河川をあわせて流れる有田川がここで唐船の鼻を大きく迂回する。さほど高くないが要塞の山頂に代を築いたのは、古代末〜中世のこの地方に勢力をはる松浦党の祖源久の孫有田栄で、12世紀末ないし13世紀はじめのことという。後世有田郷とよばれるこの地域の確保と開発の展開に一時期を画するもであった。その後、有田氏の重要な拠点となったが、1577(天正5)年有田氏が竜造寺隆信に降伏し、城も廃墟となった。急傾斜の階段は見事であり今も残っている。   右写真は唐船山城址




          謎の海賊刀伊、西九州を襲う
         写真は当時の地名を今も残す場所を撮ってみた。


            藤原実資の日誌「小右記」より    
 寛仁3年4月7日、大宰府に対馬守遠晴が駆け込んできた。そして「対馬に刀伊国の者が五十艘あまりの船でやってきて殺人・放火を始めました。彼らは隼のように迅速で数が多くとても対抗できません。壱岐では壱岐守理忠が殺害されほとんど全滅状態です。彼らは博多警固所と目と鼻の先の能古島まできています」と報告した。 
                       右写真は能古島
                (福岡市中央区西公園より撮影)
 京都へは、即刻緊急事態を伝える飛駅便を飛ばした。しかしその時すでに賊は怡土(いと)郡(福岡県西部)に上陸し、志摩,早良(さわら)郡などをへて博多の方まで来襲、人や物を奪い民家を焼くなど被害が拡大していた。

 賊の船の全長は十二尋と八、九尋(一尋は両手をひろげたながさ)。一船の櫂(かい)は三、四十ばかり。五、六十人または二、三十人が乗る。彼らは白刀をかざし、次に弓矢を帯びた者が続き、楯を負う者など七、八人で行動する。これらの十から二十隊が山野を制圧し、牛馬や犬を殺して食ったり、老人や子供は皆殺しにする。さらにおびえる男女は追いかけてゆき、四、五百人を捕らえて船に乗せた。また、かず知れない米穀類も略奪された不意をつかれて急遽遣わした兵士と戦闘になり、双方に負傷者をだしたが、八日に賊は海へ逃れ能古島に去った。
                      右写真は福岡城址
               (福岡城裏側に警固所跡付近と思
               われる。市立警固中学校がある)
                     旧平和台球場

 九日朝、賊船は官軍の本拠である警固所を焼こうとして来襲した。奮戦した結果前に進めず、生き残った者はまた能古島に帰還した。その後二日間は波風強く、攻撃できなかった。
 十一日未明、早良郡から志摩郡船越津にかけてあらかじめ精兵を待機させておいた。十二日酉時(午前六時)に上陸してきたので応戦、賊徒四十人に矢があたり、生き残った者二人、一人は傷つき一人は女だった。
 
 
             右写真は福岡市中央区那の津通り
                  銀行協会付近

 十三日賊徒は肥前国松浦郡に至り、村里に攻めてきた。ここには前肥前介・源久がいて、郡内兵士を率いて合戦、数十人に矢をあて、生存者は一人だった。賊船は進攻不能となり、遂に帰った。
 京都に第一報が届いたのは、十日あとの十七日夜である。翌日太政官から会議の緊急召集があり、要害の警固、賊の追討、有功者への褒賞、山陰・山陽・南海それに北陸道の厳戒、種々内外の社寺での祈祷を取り決めた。
 


 実資は、『小右記』に、刀伊国のことでその後連絡がなく人々は憤慨していた、と書いているのが、公務より腰痛だとか忌日という私事を優先し、御幣使の前例がどうの、衣装がどうのといったことで明け暮れている宮廷の模様の方が異様に感じられる。
 二十五日になって、「言上刀伊国賊徒或撃取或逃却状」と題する十六日発信の報告がきた。この内容が前述した事件の概要である。
                     右写真は福岡船泊
                         那の津
                  (福岡市中央区西公園より撮影)
 賊船の退散で国内の騒動は一応おさまり、五月二十九日の会議で被害の詳細、殺された者四百六十二人、拉致された者千二百八十九人、食い殺された牛馬百九十九匹、焼失住宅四十五棟などが報告された。また源知など六人被褒賞者も決めた。
 刀伊は帰路朝鮮沿岸を襲ったが、警戒していた高麗(918年建国の統一王朝)軍に撃破され、その時救助された日本人二百七十人が九月になって送還されてきた。拉致された人数との差は、体が弱っているという理由で海に投げこまれた人が大多数という拉致被害者の証言を裏付けており、結局約千五百人が殺害されたことになる。 
 なお、刀伊とは高麗語で野蛮の意味で、女真(じょしん)すなわち、粛慎(しゅくしん)、まっかつなどと呼ばれた沿海州方面のツングース系民族でないかといわれているが、真相は不明である。

 以上は真島節朗著「海と周辺国に向き合う日本人の歴史」より記載した。元寇のかげにかくれてあまり知られていないが、民衆が受けた被害は元寇以上のものがあると思われるので、寛仁3年(1019)前肥前介(さきのひぜんのすけ)・源知(みなもとのさとす)が松浦を侵そうとした正体不明の海賊(刀伊)を撃退した史実を[小右記]と[大宰府解]の資料をもとに紹介されてた一節である。