中世の海と松浦党

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このページの内容

  陣内城址
  寿昌寺(臨済宗)
  牧の岳
  博多と松浦党



            在地領主志佐氏の居城址

   松浦市志佐町庄野免 松浦鉄道より歩いて10分
 
 松浦市の中心部、志佐川河口右岸に寿昌寺(臨済宗)がある。この寺の境内が、在地領主志佐氏の居城跡とされる陣内城址である。15世紀末の延徳年間(1789-92)に書かれた「壺陽録」(こようろく)によれば、田平の領主峰昌(みねさかえ)は兄弟である平戸の松浦弘定と争ったが、筑前の大内義弘の仲介で和睦、その結果、昌は田平を弘定に譲りみずからは志佐の地を領し、名を志佐純本(純元)に改めた。陣内城はこの時期に拡充されたが、城の原形はすでに志佐氏が壱岐に進出するころには完成しており、志佐氏の直谷城(佐世保市吉井町)への移転後も出城としての役割をになっていたと考えられ、土塁や船寄場の石垣、空堀などの跡が残されている。

 寿昌寺は、かっては天台寺院であり、熊野信仰が盛んであった当地の不老山に開かれていたといわれる。源(志佐)有は、寿昌寺の如意輪観音像造立の前年に、熊野系志佐三所権現を再建したという。不老山の山裾を流れる志佐川下流には、補陀山観音寺がかってあった。熊野信仰、山上の如意輪観音、川下の補陀落山の組合せは、熊野那智の補陀落観音信仰を連想させるとして
 佐賀県立博物館の竹下正博先生(HP)は、次のように述べられている。
寿昌寺は、中世松浦党の雄といわれている志佐氏の菩提寺であった。本尊の如意輪観音像は、像高83.8センチメートルの六臂の坐像。檜かと思われる針葉樹を用いた寄木造りで、玉眼を嵌入し、表面を漆箔で仕上げている。
 これまで本像は、研究者の目にふれることはほとんどなかった。しかし、その太づくりの体躯、やや大きめの頭部、厚い唇が印象的な顔立ちは、十三世紀末に慶派正系の仏師湛康(幸)の活動に始まり、西国湛派と呼ばれる一派との関係を予想させた。九州の彫刻史を研究する上で見逃すことのできない作品と思われたが、幸いにも調査がゆるされ、一部はずれた像底板のすき間から、体内に康永3年(1344)の造立銘と仏師幸心、大檀那源(志佐)有らの名を確認することができた。
 幸心は、幸は湛康(幸)に、心はその弟子かと思われる湛真と音が通じることから、西国湛派に含まれる仏師と思われ、そのことは先に述べたように作風の上からも了承される。八尋和泉氏により研究の先鞭がつけられた西国湛派には、これまで、湛康(幸)、湛誉、湛真、湛勝、湛秀、湛能らの名が知られているが、ここにあらたな一員をくわえることができたことは大変に喜ばしい。
 大檀那の源(志佐)有は、元弘3年(1344)に少弐氏らとともに九州探題北条英時を追討するなどの活躍が知られ、松浦党のなかでも有力な人物であったことがわかる。


          牧の岳

 写真は、松浦党一族「志佐氏」軍馬の牧場にしていたと云われている「牧の岳」である。世知原から平戸に抜ける広域農道「北松やまびこロード」刀の越付近で撮影(山の東側)した。
 北に高法知岳、南に五蔵岳、東に八天岳、西に鷲尾岳などの連山があり、まるで阿蘇の外輪山に囲まれた中岳のように「牧の岳」(301m)がある。山は高くはないが雄大な眺めである。えびねらんの群生地である。近年遥かに遠い他県からトラックを持ち込み、ごっそり持ち出されたため、まったく観られなくなったという。

                                                             
                     博多と松浦党

  昔から大陸交易や文化移入の重要な窓口であった博多と松浦党のかかわりはどうであったろうか。平成20年1月より2月にかけて大宰府の国立歴史資料博物館で京都五山展が開催された。
すべては博多からはじまったとして、新聞でも期間中連日のように一連の詳しい内容を紹介した。丁度その時期に手にした一冊の本が武野要子著『博多』(岩波新書)である。
 先生は、博多の町をご自分の足で訪ね歩き、多くの方々に接し、今に残る古き時代の資料と史実を事細かに確認されており、当時の人々の生活の営みが、あたかも読んでいる自分がそこに居合わせているかのように錯覚するようなタッチで著わされている。松浦党が大宰府と非常に深い関係にあるとされており、興味があり探ってみた。先生のご承諾を頂き、松浦党に関連ありそうなところを中心にご紹介しよう。
 みどころ①鎌倉以降の博多の都市的発展を考える場合、禅宗と禅寺が持つ意味。②上松浦の松浦党と下松浦の松浦党の特徴。③松浦源三郎(源久の子、源直)に対する博多商人嶋井宗室の格別な信頼関係等々。時間が許すところで、断片的なご紹介になるかもしれないがぼちぼち書き加えていきたい。


                      
宗像大社

      
                                       
  宗像大社は、交通安全の神様として、今日もドライバーの信仰が厚い。第一宮辺津宮「杵島姫」(いちきしまひめ)、第二宮中津宮「湍津姫」(たぎつひめ)、第三宮沖津宮「田心姫」(たごりひめ)三宮よりなり、ともに天照大神の御子神といわれている。九州北辺から朝鮮へいたる道筋を領知し、航海の安全を守り、また歴代の天皇の厚い祭祀を受けるようにという神勅をうけたと『日本書紀』にかいてある。中大兄(なかのおおえ)天智天皇・中臣鎌足(なかとみのかまたり)等による政治改革大化の改新で、国郡の制が定められたのをうけ、宗像郡ができた。その宗像郡は神郡(全国で七社)として宗像大社に寄進され、郡の貢租は宗像大社に宛てられた。
 宗像氏はここを領地化し、同社の神主(後の大宮司職)を世襲した。文字通りの祭政一致の形を保ったのである。平安時代に入ると祭政は分離し、宗像氏は大宮司職として同社を運営するようになる。荘園領主として広大な土地と人を領有し、鎌倉時代になると、大宮司氏実(うじさね)は社領の地頭職(じとうしき)に任ぜられるが、皇室の御領としてその庇護を受ける。その結果、文永九(1272)年の同社の正規の神官・僧官は36名にのぼり、年間六千回も神事を行う盛況振りであであった。
 一方、筑前・豊前など四カ国に点在する荘園は、その数六十にものぼった。宗像社は蒙古襲来の戦勝祈願を社を上げて行い、大宮司は参戦して功を上げ、論功行賞として肥前の神崎荘(かんざきのしょう)を鎌倉幕府よりもらった。
 同社と海外貿易は切っても切り離せない。大宮司妙忠(しょうちゅう)は中国の宋の商人と盛んに接触し、貿易を行った。時代が下がり、中国沿岸・朝鮮南岸に倭寇(わこう)が現れるや、玄界灘の中枢を押さえた宗像社大宮司らは、それら倭寇の一群を翼下に従え、西日本の豪族等に伍して東アジアに。朝鮮へも五十回を上回る貿易船の派遣が確認されている。

  沖ノ島が海の「正倉院」といわれるゆえんは、島の岩の上に古墳時代前期ごろのものと思われる絢爛豪華な祭祀の跡が残っているからだ。この種の遺跡としては世界一の質と量を誇っている。
当時の祭祀では、鏡、玉、剣を捧げるのが普通である。沖ノ島では五十数面の鏡が発見されているが、そのひとつ、三角縁三神三獣鏡(さんかくぶちさんしんさんじゅうきょう)は国宝で三世紀中葉の中国製である。中国鏡の所有は権威と結びつき、後継者あるいは忠節をつくす者へ与えられた。 

                      大宰府政庁
 
  大宰府は学問の神様菅原道真(すがわらのみちざね)をまつる太宰府天満宮で多くの受験生が訪れるところである。また最近国立歴史資料館が設置され、益々多くの方々が訪れるようになった。ここで取上げようとしているのは、その天満宮ではなくて、律令制の下にあった地方官庁としての大宰府である。                         
 大宰府は大化の改新の後に、西海道(さいかいどう)の中央政府として設けられた。瀬戸内海沿岸の吉備政権を倒して内海を制覇した大和政権は、北部九州の統制を強め海上の道を筑紫政権(筑紫君磐井・八女地方の石人山古墳)から奪取したいと思い、宗像君や水間(みずま)君など在地の豪族を頼った。筑紫王國の重要港湾があった糟屋屯倉(かすやのみやけ)を奪い、磐井を武力で倒した大和政権は内政を強化し、外交を一極集中化できた。
 朝鮮半島では、新羅が勢力を伸ばしつつあり、大和朝廷はこれまで深い関係にある任那(みまな)・百済を軍事的に援けることを目的に、出兵のための兵站基地を設けた。それが大宰府の前身といわれる那津官家(なのつのみやけ)である。『日本書紀』によれば推古天皇十七年(607)に大和朝廷が古代の博多港・那津の口(ほとり)に米倉を建てたとする。(福岡市博多区比恵遺跡)
 日本と百済の連合軍は、唐・新羅連合軍と戦い敗北「白村江(はくすきのえ)の戦い」。これをきっかけに、内政の大改革がなされ、那津官家は湾岸から後方に撤退。同時に水城、大野、基肄(きい)諸城など、大宰府を核とする一大防衛施設が設けられた。大宰府の長官である帥(そち)の位階は従三位で、地方長官としては異例の高さである。いかに中央政府が大宰府を重視したかが、よくわかるであろう。
    

       大宰府政庁跡                      建造物跡の柱石

              
            太宰帥(そち)の仕事


  律令に書かれている太宰帥の仕事は、ほかの国司(こくし)のそれとほぼ同じで、それに「蕃客(ばんきゃく)・帰化・饗讌(きょうえん)・」がくわえられている。大宰府には金属加工生産、高級絹織物、染色物、木器、竹器具、紙、筆、墨の製作、瓦、土器などの生産の場があり、大宰府工房とよぶべき組織があったと考えられる。現存する正税帳(しょうぜいちょう)によると、大宰府工房で労働力や制作期間中の食料および原料・材料などは、大宰府管内の諸国から出されていたようだ。 大宰府綿を中央政府へ納入する際の荷札として用いられた西海道(筑紫)調綿木簡が、昭和三十八年(1963)に奈良の都・平城宮跡から二十八点も出土した。もともと大宰府からは税、正確にいえば調庸物として大量の真綿(絹綿)が中央へ納められている。天平元年(729)九月には調綿十万トンの納入が義務付けられ、神護景雲三(769)年三月にはその二倍に当たるニ十万トンに増えている。質の面で優れていた筑紫綿は、律令国家の財政システムの中で、また対外交易の中で、高い需要と商品性を発揮したと思われる。
              藤原純友(すみとも)の大宰府襲撃
 
 十世紀に入り、海賊の巨頭藤原純友による大宰府襲撃で、大宰府の機構は大きく変わった。
伊予掾(いよのじょう)として在地に勢力を張っていた純友は、天慶ニ年(939)に、豊後水道の日振島(ひぶりしま)を本拠に配下の海民や海船を組織し、瀬戸内海を往来する船を襲い、中央政府に反旗をひるがえした。翌三年、朝廷は純友に従五位下の位を与えて懐柔しようとしたが、失敗。
 おりしも、関東で平将門(たいらのまさかど)の内乱が勃発。同乱の平定後、朝廷により同四年伊予の本拠地を襲われた純友は、すぐさま大宰府を襲撃した。朝廷による討伐軍『小野好古(よしふる)を長官に、主典(さかん)として大蔵春実(はるさね)らがこれに続いた』は、純友軍と博多浜で決戦。勝利の女神は討伐軍に微笑んだ。
 純友の乱の平定に功をたてた大蔵氏は、その後土着し、いわゆる府官層(ふかんそう)といわれる地域勢力の中心となる。十世紀以降、大宰府の官人は在京クラスと在地クラスに分かれてゆくが、警固所(けごしょ)・兵馬所(へいばしょ)・公文所(くもんしょ)など、新しい機構としての各所の運営は、在地クラスが担当する。
 在地クラスの官人は、十二世紀には武士に衣替えする。北九州の戦国史にたびたび登場する、筑後三池の三毛氏、豊前の板井氏、糸島を地盤とする原田氏、筑前夜須の秋月氏、筑豊一帯に大勢力を誇った粥田(かいた)氏、源平合戦に従事した山鹿(やまが)氏、筑後の草野氏ら~。    各氏は婚姻関係を結ぶことで勢力を強め、拡大し、共生をはかる。

                  
平家と博多商人

 福博には、自分の先祖は平家の落人だったという人も少なくない、古くからの国際貿易都市・博多は、氏や素性を問わない独特の雰囲気-自由や自治といった四角四面な言葉では言いあらわせない。安住の地といったらもっと当を得ているだろうか-に包まれていたから、平家の落人が住み込んでも、ちっとも不思議ではないのだ。
 平安期末期の平家は対外貿易を政権の基盤としたこともあわせ考えれば、博多の都市的発展を語るにあたり、平家とその政権を避けて通れない。平清盛(きよもり)が自ら望んで大宰府大弐(だいに)なったのは保元三(1158)年であった。 清盛の後、同じく大弐になった弟頼盛(よりもり)は、これまでの長い習慣を破って自ら大宰府にのりこみ、大宰府の人々を驚かせ、いたく感激させた。

 平家台頭の基礎は、「平氏にあらざれば人に非ず」と豪語したことで知られる平正盛によって築かれた。正盛は伊賀の所領を六条院に寄進して白河法皇の竉を得た。また瀬戸内の海賊を討伐し、白河院領肥前(佐賀県)神崎荘(かんざきのしょう)の荘司(しょうじ)として、博多と密接な関係を持つに至った。忠盛の子清盛は大宰府大弐となるや、配下の者を大宰府に派遣した。清盛は日宋貿易を重視し、これを政権の財源にしようと企てた。さきの正盛や忠盛の海賊討伐は博多に入る宋の貿易品や日本国内物産品の京都-博多間の運送の安全確保が目的であった。
 忠盛は神崎荘の荘司(しょうじ)として荘内の産物を京都に運ぶのに、福岡市の那珂川の水運を利用した。貢米を中心とする物産は神崎から馬で背振(せぶり)の坂本峠を越え、那珂川の上流の一の瀬をすぎ、山田の裂田の溝の分岐点の堰に達し、ここで川舟につみかえて本流をくだり、そのまま冷泉津(れいせんつ)に着く。神崎荘の神崎津つまり城原河口に着いた宋船もまた同じ道をたどる。
 清盛も父同様に神崎との関係を保ち、博多の港、冷泉津などを整備し、日宋貿易の一層の振興をはかった。冷泉津一帯(現在の博多区川端町)に貨物を集蔵する倉を建て、その倉の鎮守として、神崎から櫛田(くしだ)神社を勧請した。これが博多の夏祭り祇園山笠(ぎおんやまがさ)で有名な櫛田神社である。

            裂田溝周辺に遊歩道整備
                  (安徳天皇の仮御所安徳台)
 平成22年9月末日裂田溝(さくたのうなで)周辺に遊歩道が整備されたという新聞記事を見た。JR新幹線の博多総合車輌所が設置されてから、福岡市南部に隣接する筑紫郡那珂川町は、少子化で国全体の人口が減少する中、単独で市制施行が出来るほどに9月末で5万人までに、残り5人までに迫ったという注目の町である。平家一族が佐賀神崎港から背振の坂本峠を越えて裂田溝で物資を船に積替えたとされるその場所を平成22年11月17日訪ねてみた。
 那珂川が蛇行する辺りに迂回するかのように人口水路の溝があり、それに沿って遊歩道が整備されている。現在に生きる古代の人口水路として総合調査結果の案内板が数箇所に設置されている。その内の一つをご紹介しよう、裂田溝と迹驚岡(安徳台)裂田溝の開削について『日本書記』に登場する「迹驚岡」(とどろきのおか)は、目の前に広がる台地であると考えられています。台地は現在「安徳台」と呼ばれており、約9万年前に大噴火した阿蘇山の火砕流堆積により造られました。この先の木製の遊歩道を進むと、裂田溝と台地が最も接近する部分でこの火砕流の断面が間近に迫り、日本書記の時代を遥かに超えた太古の自然の猛威を感じることが出来ます。
 安徳台の広さは約10万㎡あり、平地との比高差30mほどあることから、自然の要塞ともいえる地形をしています。この場所は裂田溝に関連する地であるだけでなく、発掘調査の結果、弥生時代の中頃(約2000年前)の大型住居や酋長の墓も見つかりました。特に酋長の墓[甕棺墓](かめかんぼう)からは、権力を象徴する豪華な副葬品が見つかり、台地上には中国の暦史書「魏志倭人伝」に登場する国の一つ「奴国」を支えた大集落があったことがわかりました。その他、平安時代に都を逃れて来た安徳天皇が「仮御所」を構えた場所とも伝えられており、裂田溝と同様に、町を代表する重要な暦史遺産といえますと説明がある。
 またこの遊歩道から少し西へ約100mほど離れて、人家の前に少弐景資(岩門城城主・少弐武藤資頼の二男)の墓があった。弘安八年(1285)十一月の霜月騒動・御家人中の最大有力者安達泰盛一族を、北条氏得宗の家宰平頼綱一派によって討伐された。当時少弐景資は蒙古合戦に参戦した多数の鎮西御家人の要請を汲み取って、また、得宗勢力の進出を食い止めるために、岩門城に挙兵した。ところが大宰府にいた景資の兄少弐経資は、鎮西奉行・筑前守護人としての責任上肥前守護北条時貞等と共に得宗派に組し岩門城(福岡県那珂川町・墓より東北側約700mの山城)を攻めて弟景資を滅ぼしたと説明がある。
 安徳天皇の仮御所については、佐世保市吉井町の内裏山城(だいりやまじょう・別名直谷城)の伝説と全く同様で非常に親近感を持った。ただ平家一族が佐賀の神崎から博多冷泉津までここ裂田溝で物資運搬に那珂川の水運を利用したという一説はこの公園内にはどこにも見当たらなかった。

 前述の府官層の中には大蔵氏、原田氏、秋月氏、草野氏、山鹿氏などのそうそうたる武士がおり、これら土地にしっかりと根をはった武士を傘下に置くことで、平家は力を急速に伸ばした。たとえば、原田氏が自分の一族の棟梁を志す、それを素早く見抜いた平氏が原田氏を家人(けにん)にすることで、お互いの宿望を果たすという構図である。
 平氏はまた、大寺社の掌握に努めた。福岡市東区の香椎宮(かしいぐう)は頼盛の所領(あずかりどころ)であり、宗像社(むなかた)は盛俊(もりとし)が所領として守った。両社はいずれも博多湾に望む荘園領主であり、かつ盛んに海外貿易を行った。平氏の両社把握の目的が奈辺にあったかがわかるであろう。

         

     山笠で有名な櫛田神社    冷泉公園(櫛田神社より100M北)

                   博多区冷泉町(地下鉄祇園駅)


                   
 
                          香椎宮
                 東区香椎((香椎線香椎神宮駅下車)

 平氏は兵庫大輪田泊(ひょうごおおわだのとまり)の修築を計画。さらに安芸の宮島として日本三景の一つ厳島(いつくしま)神社を配下に入れることで、事実上安芸の国を押さえた。
これにより瀬戸内を掌握し、それにとどまらず豊前門司関(もじのせき)(北九州市)を大宰府大弐としての権力で抑えた。のちに門司関が、源氏との対決の場所(壇ノ浦の合戦)となる。
 日本の歴史の主役は、文治元(1185)年の壇ノ浦の合戦を境に、祇園精舎の鐘とともに、春の夜の夢のごとく平氏から源氏へと移り変わる。


            博多の都市的発展と禅宗・禅寺の持つ意味
 
 源頼朝(よりとも)は鎌倉に拠点を定め、鎌倉幕府をつくり、文字道理の天下の覇者となった。
いわゆる鎌倉以降の博多の都市的発展(対外関係・モノの流通・文化)を考える場合、禅宗と禅寺が持つ意味を見逃すわけにはいかない。
 栄西(えいさい)聖福寺、円爾(えんに)承天寺(じょうてんじ)の建設。いずれもこの時期の博多の都市的発展を考える場合の核となる重要なできごとである。
 武家文化を培養した鎌倉禅や、公家の保護を背景に兼修禅を中核とした京都禅と比べ、博多禅は、禅宗の初伝として、対外文化交渉の門戸にふさわしい発展ぶりをみせた。宋・元などの中国文物の日本への移入役として、禅宗を位置づけるべきであり、博多の日本文化史に占める意義は大きい。博多禅は、臨済宗と茶の導入者である栄西によってスタートした。


                    宋人百堂

 聖福寺(しょうふくじ)の建立の場所は「宋人・百堂」の跡地であったといわれるが、この宋人とは、博多とその周辺地域に住みついた、通常「住蕃」と呼ばれる人々のことだ。ちなみに蕃は外国人のこと。故国へ船出する風待ちの間を利用して船を修理する。貿易品を揚陸、保管すれば商品の痛みも少なく、売り急ぎによって生じる商売上の損失も防ぐことが出来る。最初は二、三ヶ月、いや半年だった滞在期間が、やがて一年、二年へ延び、やがて定住へ変わってゆく。いわゆる「住蕃貿易」は、上のような経過をたどることで、博多の歴史の中にしっかりと根づき、博多の都市形成に大きな役割を演じることになる。 博多区冷泉町から、「丁綱」「綱司」と墨書きされた中国の陶磁器がたくさん出ている。綱は「綱首」【ごうしゅ】(宋の大商人)に通じる字である。

                 聖福寺の建立

 栄西が鎌倉幕府と関係を持ったのは、源頼朝晩年からと考えられる、その関係がより明確になるのは二代将軍頼家(よりいえ)のころで、頼朝の妻・北条政子の帰依を得、宋文物に積極的な関心を示した頼家の弟・実朝(さねとも)との関係はさらに深かったといわれる。
 栄西は、仁安三(1168)年、最初の入宋のため博多に来て、通事(つうじ)「通訳」の李徳昭(りとくしょう)から直接、宋で禅宗が行き渡っていることなどの情報を得た。二回目の入宋を果たして帰国する時は、楊三網という宋網首の船に便乗した。栄西はその著『興禅護国論』(こうぜんごこくろん)の末尾に「鎮西博多の津の張国安という宋の貿易商が自分を訪ね、杭州の雲隠寺の仏海禅師が自分の没後仏法が日本に伝わり、東海の上人(じょうにん){栄西のこと}が西に来て禅宗を伝えるはずだと述べたと言った」と記している。
 張国安をはじめとするおもだった住蕃、宋商らは、南宋の代表的禅僧を師と仰ぐ仏教徒で、南宋禅の日本移入については、入宋僧・渡来僧についで直接の媒介役をつとめた。彼らは識字力も高く、故卿南宋の宗教慣行を博多に移入すべく努力をした。

                   

                        筥崎宮
               東区箱崎1丁目(JR箱崎・地下鉄箱崎)

 彼らは博多とその周辺の寺社と帰属関係を結んだ。たとえば、石清水八幡宮(いわしみずはちまんぐう)の別館になった(文治元「1185」年)筥崎宮は、大宰府と関係が深かった。宋商は筥崎宮に帰属することで、貿易利潤の獲得において有力になった。網首張興(ちょうこう)と張英(ちょうえい)「日本名は鳥飼二郎船頭」が筥崎宮の所役を負担したのは、日ごろ同宮の保護を受けていることに対するお礼、奉仕である。彼らは博多と周辺の寺社に帰属し、その寺社を通じて中央寺社と結び、大宰府の貿易面の保護を頼む。
 故郷における血縁・地縁関係を博多とその周辺にまで伸ばし、博多や近隣の女性との結婚で博多町人らと婚姻関係を結ぶことで、彼らの経営は確固不動のものとなる。経営面の安定が確保された結果、文化・精神面の充実-南宋禅の博多移入=禅寺の建立-へと向かった。こうして日本最初の禅寺・聖福寺は創建された。

                    

                         聖福寺
              博多区御供所町(承天寺より約300m北)

     最近の新聞によればJR九州と地元企業・檀家で聖福寺の池を改修しよう
     と二十二の個人と団体で奉賛会が設立され、この度総会が開かれた。
     「寺社は文化拠点の一つ。金閣寺にも負けない魅力のある池にしたい」と
     して、二十一年度内の完成を目指しているそうである。


           

                    池が改築されたところ


                     
承天寺の建立

 聖福寺に半世紀遅れて、仁冶三(1242)年秋に、承天寺(じょうてんじ)が建立された。開山は、日本ではじめて国師号を与えられた、聖一国師円爾(しょういちこくしえんに)[弁円](べんねん)。建築など一切を担当したのは、博多の網首・謝国明(しゃこくめい)で、少弐(しょうに)武藤氏[資頼](すけより)が土地を寄進した。
 円爾は駿河国阿部郡藁科のうまれ。天台宗臨済禅を学び、入宋を志し博多に行き、二年滞在。おそらくこの時、謝国明や少弐氏とのつながりができたのだろう。径山(きんざん) 〔浙江省杭州臨安の北方〕の無準師範(ぶじゅんしばん)を師とし、6年間修行したのち、師から「早く故郷に帰り祖道を提唱せよ」と許しを得、帰国の途についた。暴風のため同行のニ艘は沈没。円爾が乗った船のみ辛うじて高麗に避難し、無事博多に着いた。
 博多の綱首らが円爾の帰博を喜び、来迎院に迎え、説法を乞うたという南宋禅宋号の最高位無準師範から印可をうけた嗣法禅僧である円爾に対する綱首らの崇敬ぶりと喜びがうかがわれるであろう。
 博多綱首らこそ、博多禅の定着、展開の重要な媒介者、功労者だったのである。その綱首には、円爾肖像を描かせ円爾自身に賛を求めた張四綱(ちょうしこう)率いる多数の張氏が含まれていた。謝国明が中心となり、張氏ら仲間の綱首らを語らって、承天寺建立を実現した。

     
 
   承天寺前             承天寺庭         承天寺玄関
               博多区博多駅前1丁目 博多駅より約1km北

 ある時九州天台宗の代表的寺といわれる大宰府有智山(うちやま)寺の僧義学が禅宗をにくみ、円爾を殺そうとしている旨の報せを受けた謝国明は、円爾を櫛田の自分の屋敷に泊め、円爾を守った。有智山寺は多くの神人(じにん)・僧兵を抱えていた。謝国明はそれらと一戦をまじえる実力を持っていたことになる。博多における綱首らの結合の強さや、租界的集住形態から自治的結束力が、謝国明を支えたのだ。

 円爾は師の無準師範に頼んで、承天寺の額字を書いてもらった。禅寺建立の象徴である額字を無準が執筆したということは、承天寺の建立が、中国禅の日本移入という国際的文化受容のプロセスで象徴的に行われたことを意味する。つまり、当時の博多は南宋の禅文化圏に内包されていたのだ。
 こういった文化・宗教現象が、南宋からの陶磁器・銅銭の移入という商業貿易と重なり合っていることを見過ごしてはならない。謝国明らは承天寺によって貿易面の信用を保証された。
 つまり商(=貿易)教(=宗教)一致が、そこには明瞭にうかがわれる。
 承天寺には、元禄年間(1688~1704)には少弐資頼像と謝国明、また両者の位牌があったという。どうやらこのころには資頼が同寺に土地を寄進したと云う説が定着していたようだ。この場合、時代的には資頼でなくて資能(すけよし)がただしいという説も考えに入れねばならない。また、太宰少弐として対外関係を管掌していた少弐氏は、これを鎌倉幕府の九州支配機構として改変しようとしており、そうした中で、同寺の創建にかかわったとする考え方は妥当である。要するに、同寺創建と少弐氏の関係は、大宰府ー鎌倉幕府ー少弐氏の博多に対する関係の中で考えねばならない。

 謝国明は、自分の船団をもち、博多を拠点にして日本-南宋間の貿易に従事していた多くの博多綱首の典型的な存在で、十三世紀における日本の華僑と考えればよい。謝国明は筥崎宮が所有する土地を買い、これを承天寺に寄進し同寺の経済的基盤を強固なものにした。
 謝国明が筥崎宮領を購入できた理由は、筥崎宮の社役をつとめることで帰属関係を持ち貿易活動の保護をうけていたからである。また、謝国明は、宗像社領小呂島(おろのしま)の給主として得分権『地頭職』(じとうしき)を持ち、社役をつとめた。つまり謝国明は、筥崎宮のみならず宗像社にも帰属し、貿易活動を支えてもらったのだ。彼は後世、「謝太朗国明」ともいわれ、日本女性と結婚し、男児をもうけた。

            

            謝国明石碑                石碑文
                    (博多駅前1丁目郵便局横)

 承天寺は本寺東福寺、その外護者九条家という最高の公家権門に結びつき、官寺となることで謝国明ら綱首の国際貿易を保障した。承天寺の建立は、綱首らの博多での居住形態に精神的な共通項を生み、鎌倉中後期の博多の都市的展開を大きく進めるバネの役目を果たした。博多は、聖福寺、承天寺の建立を中核として、貿易都市兼宗教(博多禅)都市として、確実な歩みの中で、日本のひとつの時代を作り上げた。

 承天寺では毎年正月11日に、住職が塔頭(たっちゅ)「禅僧で、祖師や開祖などの塔のあるところ・塔中」 や末寺の僧侶らを従えて筥崎宮に参拝するのが年中行事になっている。袈裟をまとったお坊さんが神社にお参りするのが、われわれ現代人には珍しくうつる。その様子が新聞の記事になると、博多の人々は今年も無事に新年を迎え得たことを喜び合うのだ。円爾が帰国の折、海難にあい、箱崎宮の加護で救われたお礼参りだという。

                      
蒙古襲来
 
 フビライが自らの世界戦略の中に日本を組み込んだのは、文永三(1266)年のことであった。
 同五年、三度目の遣使・高麗の
潘阜(はんぷ)らによって、ようやく蒙古の国書は日本政府の手に渡った。大宰府少弐武藤資能 (すけよし)から鎌倉幕府に届けられ、京都の朝廷に廻った。
 フビライにとって、南宋攻略を進める以上、高麗支配の強化は必須条件であり、南宋と友好的な日本を、自分につけなければならなかった。
 日本側は侵略の意図を国書の文面から読み取っていた。外交権は朝廷にあったが、幕府はこの国書に返書しないことをきめた。
 使者一行は要領を得ないまま帰国した。蒙古はそれ以後も遣使を重ねるが、日本は拒絶し、ついに蒙古の日本遠征となる。これまで国際関係についての情報は、入宋僧、来日宋僧、貿易商人らを介し、主に南宋から得ていた。蒙古に圧迫されていた南宋は、これを侵略者と考えていた。
 対蒙古政策の最高指導者であった北条時宗は、宋僧らの民族主義的な宗教思想の影響をうけ、彼らが提供してくれた情報を基に対外政策を進めていた。父の時頼以来、北条嫡流家の専制化は深まり、時宗を中心としたブレーンの間では、蒙古の国書への返書拒絶の方向は早くから固まっていた。御家人を統率する北条時宗と、侵略思考の蒙古の激突。それが蒙古襲来だったのである。
 形式的な外交権を持つ朝廷は、閉鎖的で、かつ古い社会慣習になれ、国際情勢には全くうとかった。かっての新羅海賊刀伊(とい)賊の恐怖のみが、彼らを恐れおののかしたせいに違いない。加えて後嵯峨上皇は北条氏に支えられて即位したため、いわば幕府に反論する力はなかったといわれる。

 武家の棟梁としての北条時宗に思い切った決断をさせた背景には、中国とは対等あるいは優位で望むという、日本独自の外交姿勢があったことと、もう一つ、悪党の跋扈(ばつこ)[きままにふるまう]であった。悪党とは一般に社会秩序を乱す者をさし、荘園を侵して領主や幕府に反抗する地頭や名主なども含まれた。蒙古問題を媒介にして法華経の正当性を主張していた日蓮とその信者らもまた、悪党的行為者として弾圧をうけた。時宗は蒙古の使者の来日後、蒙古人襲来を未然に防ぐために、肥後や薩摩に御家人を派遣するが、それはその領内の悪党の動きを牽制するためでもあった。幕府は異国征伐と、防備のための石築地(いしついじ)計画の二段構えの政策をとった。
 蒙古に対する北条時宗の断固たる態度には、悪党に象徴される日本国内の社会的動揺や矛盾を力で鎮静させることを迫られていた幕府の立場が混成していた。
 
 幕府は諸国の守護に警戒を命じ、朝廷も異国調伏の祈祷を行った。時の執権北条時宗は東国御家人に、九州の所領に赴き、時宗の指揮のもとで防御にあたるよう厳命した。
 文永九(1272)年には、九州武士を動員して博多湾岸を警備する異国警固番役(けいごばんやく)を開始。時宗は守護に命じて軍役(戦士として参加する義務)を決める帳面(大田文)[おおたぶみ]を作らせた。
 同十一年四月はしぶとい三別抄(さんべつしょう)を亡ぼすと、高麗に造船を命じ、十月には軍船九百艘、兵員ニ万八千人が合浦(がっぽ)を出発した。対馬・壱岐を攻め、十月十九日には今津に姿を現した。翌二十日、今津や百道(ももち)から上陸開始。麁原山(そはらやま)[宗像]に陣をかまえた元・高麗軍は、麁原・鳥飼・赤坂・箱崎で日本軍との激戦を繰り広げた。
    「われこそは肥前の国の御家人武崎季長(たけざきすえなが)でござる」
と名乗りを上げて一騎突入をくりかえす日本式兵法に対し、かたや元・高麗軍は鳴動を合図に統制のとれた集団戦法とるのだから、毒矢や鉄砲という新兵器に苦戦、日本側は応戦できず、水城(大宰府)まで退去し、博多の町は大きな被害を受けた。
  ところが台風一過、一夜があけた朝もやの中に、1艘の元・高麗軍船もみえなかった。  撤退の理由はようとしてわからない。当時の人々には、まさに神風としか理解できなかっただろう。弘安四(1281)年五月から三ヵ月間にわたり、元の第二回目日本遠征がおこる。いわゆる弘安の役である。結論的にはこの時も神風と石築地によって日本は救われた。
 元軍・高麗軍からなる東路(とうろぐん)軍と南宋の降伏兵を主力とする江南(こうなん)軍十万合計十四万。  
 四千艘をこえる大船隊は、博多攻撃のため鷹島(たかしま)[現長崎県松浦市]に移動。暴風雨でようやく生きのびた両軍は、待ちかまえた日本軍の攻撃の前になすべくもなく大打撃をうけ、かろうじて生還した。

                      
元寇防塁
 
文永の役の後、日本へ派遣された蒙古の使者は、鎌倉へ送られ、竜口(たつのくち)で首をはねられた。幕府は文永九(1272)年に始めた異国警固番役を建治元(1275)年、制度化し、地域別に九州各国が三ヵ月ずつ交替でこれを勤めるようになった。
 翌建治ニ年、幕府は博多湾の海岸線に石築地を築くよう命じた。再度の蒙古襲来に備え、海岸で上陸をくいとめようという作戦であった。防塁は今津から香椎までのおよそ20kmの距離を、九州九ヵ国が分担して築いた。今津地区は日向と大隈、今宿地区は豊前、生の松原地区は肥後、姪浜地区は肥前、博多の中心部は筑後、箱崎地区は薩摩、香椎地区は豊後の国の担当であった。同年三月から向こう半年で築くよう命ぜられた。そのご、各国は分担した地区の警固番役を務めるように改められ、1340年以降は、国ごとに一年を通じて警固すべく定められた。
 蒙古が第三次の日本攻略を計画、準備している間に、鎌倉幕府は蒙古の襲来に備えて、博多に鎮西探題をおいた。九州の武士らを異国防御に専心させるために、九州で裁判(民事を主とする)ができるようにしたのである北条一門の武士が相次いで長官になった。鎮西探題が設置されたことで、九州の政治の中心が大宰府から博多に移った。

  


          福岡市西区今津の元寇防塁公園
    (復元されていない防塁)      (復元された防塁)


          韓国木浦沖の沈没船が語るもの
 1976年から1984年の夏まで9年間、大韓民国文化財管理局が韓国全羅南道新安郡木浦市(もっぽ)沖合いで沈没船を調査したところ、1323年頃寧波から博多に向かう途中で難破した商船であることがわかった。
 この船はごく普通の大きさの木造船であった。積まれていた貨物の大部分は陶磁器で、その数は二万余点、ほかに銅銭八百万枚、紫檀材一千本。注目べきは
大量の中国銅銭である。十三世紀に入るや、東アジア海域の流通貨幣の地位をほぼ完全に固めつつあった中国銅銭は、日本でも国内経済活動の活発化とあいまって、土地売買など大口の取引に使われるようになっていた。貨物船の中には三百六十四点にのぼる木簡が含まれていた。      その木簡は十三世紀初頭の日本と元の貿易の実態を示す貴重な事実を提供してくれる。
その中には、東福寺木簡四十一点、釣寂庵(ちょうじゃくあん)木簡が五点、そのほかに筥崎宮関係の木簡若干が含まれている。二回に及ぶ蒙古襲来で途絶えたと思われていた日元貿易は続いていたのである。

               博多商人の三傑
                       神屋宗湛
 宗湛の遠祖は、神屋永富という人物である。環東アジア海域を舞台に貿易で稼ぎまくった。博多の旧家の過去帳等に、しばしば「某年某月博多を出航したまま帰らず」といった文字を発見するが、永富も東アジア海域で客死した商人かもしれない。博多商人には「いちかばちか海洋へ出て稼ごう、命があれば幸運たい」という男っぽい、すがすがしい生き方が共通して感じられる。『神屋家由緒書』によれば神屋家は八幡宮の管領職(かんれい)で、姓菅原だという。中世以降、山城の大山崎の俗人、燈用・食用の油を製し、石清水八幡宮に献じたことから、朝廷はこれに油司(ゆし)の免状を与え、やがて、諸国の油屋を統括することになった。同家は大山崎の北隣の円明寺村に住んでいたという。永富は離宮八幡宮に何らかの関係が有り、戦火を避けて博多に来たと考えられる。
 永富の息子で勘合貿易に携わった神屋主計(かずえ)は、天文九(1540)年渡航先の寧波(にんぽー)の嘉賓堂(かひんどう)に設けられた正使の聖福寺住持湖心碩鼎(こしんせきてい)の宿舎で、父永富の三十三回忌の法要を営んだ。多くは有徳の大商人がこれに当たった。
 神屋永富の兄弟神屋寿偵は幸運な人であった。足利幕府は勘合貿易の重要輸出品の一つである銅を、美坂(みまさか)備中・備後・但馬などの守護に命じて献上させていた。大内氏とその麾下の神屋一族は、銅を出雲の口田儀(現在の島根県多枝町)の三島清右門と謀り、大工吉田与右衛門、小田藤左衛門・小紅孫右衛門及び堀子数人を率いて銀山を掘り、地中に深く入り、銀鏈を筑前博多に運び、巨富を得た。これが石見銀の始まりである。

                      大賀宗九
 黒田藩政前期に博多町人として藩の中枢とがっちり手を結び、自らの蓄財にも成功した一群の町人たちがいた。筆頭に大賀家をあげることができる。大賀氏の先祖は大神姓を名乗る。代々豊後祖母嶽山下の土豪であった。豊後北海部郡佐伯城主のころ、土地の名をとって姓を佐伯と改めた。惟治(これはる)の代に大友義鑑(よしき)家臣となり、徒栂牟礼(とがむれ)城六万石城主となる、惟信の時代に出奔して豊前中津に住み、大神に姓を復した。大神氏は黒田如水・長政に従って転戦、数々の武功をたて、黒田氏に懇望され天正三年に福岡に来て商家になる。惟信の息子惟好十五歳で家を継ぐ。この頃博多の豪商には嶋井宗室、神屋宗湛、末次宗得らがおり、盛んに内外貿易をしていた。信好は二十余年間、中国・朝鮮・南洋へ航行した。信好が宗九を名乗る。

                      嶋井宗室
 出身地は明らかでない。博多新興商人の一人であり、対馬の宗氏の家臣嶋井右衛門尉(うえもんのすけ)かその一族が朝鮮貿易を繰り返すうちに、朝鮮貿易の基地兼貿易品の集散地である博多に根を下ろしたものと考えられる。宗室は手船永寿丸で朝鮮へ渡り、亜鉛など日本で売れ筋商品を求め、堺や郡山の問屋を通じて武士へ売り込んでいる。また対馬で南蛮商品を割安で買い求め儲かったという。宗室にとって、大友宗麟との関係は極めて大事である。宗麟家臣吉弘宗仭(そうじん)の宗室宛書状によれば、宗麟からその分国津々浦々の往来と通商の自由が与えられ、かつ博多津の諸役を免除されている。当時宗麟の諸領は六ヶ国に及び広大であったから、宗室は類のない特権を手に入れていた。例えば宗麟は支配地博多で起こった裁判事件の処理に当たって、内々の情報提供を宗室に頼んでいる。宗室はそうした任に堪えうる博多の指導的商人であった。また宗麟は朝鮮貿易品の調達斡旋を宗室に度々頼んでいる。どうやら宗麟は、自ら貿易に乗り出すことを差し控え、博多や対馬の貿易商人を介して朝鮮貿易品を手に入れたらしい。
 宗麟の身辺には、宗室のほか、対馬の貿易商人の梅岩、堺商人の天王子屋道叱(どうし)らの姿が見える。朝鮮貿易の一部は、道叱ら堺商人によって上方へ動いたのであろう。道叱は武野紹鴎(しょうおう)に茶の湯を学んだ堺大小路の豪商天王寺屋宗達の弟で、信長、秀吉にも支えたことで有名な天王寺屋宗及(そうぎゅう)は彼の甥である。道叱は、宗室の茶の湯の師匠、宗室は当時茶道具の蒐集に力を入れ茶人の間で、初花・新田とともに天下の三大名器、樽柴の肩衝(かたつき)を泌蔵していたことから、宗麟との結びつき、宗麟に近い道叱との契りも生じたのであろう。なおこの名器は筑前秋月種実(たねざね)、秀吉の手へ渡り、最後は徳川家へ移っている。
 商家の家訓や遺言書が何時ごろから書かれたは、明らかでない。少なくともモノの商いが経営として成り立つようにならなければ、家訓のたぐいを作る必要に迫られないであろう。いくばくかの資本がたまり、それを維持・管理して、もっと経営を大きく、しっかりしたものにし、永続性を期待するようになって初めて、家訓の必要性が浮上する。いわゆる家業第一主義が、家業全体を包む基本的な経営理念となってくる。嶋井家には慶長十五年(1610)正月十五日に書かれた遺言書がある。家業を譲る人物は、養子の神屋徳左衛門であった。
 宗室の遺言書は、現存する町人遺言書の中では最も古く、社訓のルーツとされる。聖徳太子の憲法になぞえて十七箇条にまとめたと、自ら証明している。ここでは残念だが松浦党に関連する第十二箇条のみをご紹介する。
 第十二箇条 われらが使いのこしたもの(財産)をやるから、宗怡に預けそれを元手に、少しずつ宗怡に習って商売するのはかまわない。商売、質屋、また少しなら酒造もして良い。質屋経営にあたっては、担保もないのにわずかの金でも貸すのはやめよう、自分の遺言だといって親類知人にも貸してはならない。ただ松浦氏などの御用であれば、道由・宗怡へ相談し御用立てせねばならない。そのほかの御家中へは、びた一文貸してはならない。
 江戸時代の大店の家訓ではおしなべて大名貸しを禁じているが、宗室も大名貸しや家中貸しを厳しく禁じている。平戸の松浦氏だけは例外であると記している。徳左衛門は松浦源三郎から慶長十三年(1608)十二月十三日付の加冠状(元服親が自分の一字を元服人に与えるときに書く文章)を受け信吉という烏帽子をもらっているから、同氏と嶋井家の間に特別の関係があったのであろう。

                     博多町人と松浦党
 松浦党は鎌倉・室町時代に肥前松浦四郡に割拠していた武士団の連合組織で、松浦源氏を中心に異姓の諸氏をも同属の中に組み入れ、室町時代には党の規約を定めて団結した。
 それは波多、神田、佐志(さし)、鷹島、斑島(まだらじま)の各氏からなる上松浦党と御厨(みくりや)、峰、田平、志佐、早岐、伊万里の各氏などの下松浦党に分かれた。
 『朝鮮送使国次乃書契覚』にも、たくさんの正式の貿易の権利を持った上松浦の武士が名前を連ねている。つまり、上松浦には、合法、非合法の船が入り交じって、人や貨物の行き来が激しかったのだ。貨物の運送には、波多川が利用されたその河口に金屋(神屋家の疎開地)がある。唐津への神屋家受け入れには肥前の土豪草野鎮永(くさのしずなが)が深くかかわっており、波多氏が頼む竜造寺氏没後わずかの間に、波多氏の所領を侵略している。神屋宗湛は天正十六年に、自分の茶室に草野宗永なる人物を招いている。草野氏と神屋家の関係は蜜であった。草野家は神屋家のみならず嶋井家をも唐津に受け入れたという。『嶋井家文書』の中に草野鎮永が嶋井宗室に宛てた書簡が一通あり、金の貸し借りがあったことが分かる。東松浦郡七山村(現唐津市)には博多と呼ばれる地名がある。