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樋田氏は日蓮正宗の常識=佛教一般の常識 だと思っておられる節があります。

 

大般涅槃経ならば(言葉のイメージは悪いですが、そういう悪い意味ではなく)「原理主義」

 

とも言うべき日蓮正宗の主張を「受け止めていく」事ができると示したいと思います。

 

まずは

 

L 涅槃経は法の付嘱の義が明確ではない

 

 ↑ 樋田氏の主張です。

 

いくつか論点を抽出して論じていきましょう(いつものように緑色の文字が樋田氏の主張です)。

 

  いくら、仏・法・僧 が 三宝一体 とはいっても、その法を伝持されて「僧」とは誰なのか、明確に付嘱がなければ、仏法混乱の基である。
この付嘱の義に冥いから仏法の本義に迷うのである。
また、末法の教主にも迷うのである。

 

 

日蓮正宗でも同じでしょうが、法は師匠から弟子に連綿と受け継がれていきます。

 

「明確な付託」はそれこそ血脈相承書に示されています。

 

ちなみに樋田氏は、法と言えば「経典に書かれてある事」としか理解しておられないようです。

 

しかし、「経」は言葉で書かれている以上、全て方便です。

 

「法」とは、それが書かれている「経」の内容であり、「真理」です。

 

真理は言葉では伝えることはできません。

 

言葉はその(真理の)方向性を指し示すだけです。


言葉は人間が作りだしたものであり、記憶・思考・伝達・交流・共通理解・記録の役には立ちますが、対象を言葉で表すことは不可能です。

 

人は、あらゆるものに名前をつけていますが、それは人が仮にそのように定めているだけで、対象には固定した名前はありません。


リンゴ(認識対象)はリンゴ(認識対象そのもの)ではない。
よってリンゴ(認識対象とするため概念化されたもの)である。


というような言葉が「般若波羅蜜経」にはよく出てきます。


これは、次のような意味です。

私たちがリンゴと呼んでいる対象は、リンゴという名を持っていない。


一切の固定した名を持っていないから、私たちは仮にリンゴと呼ぶことができる。

名前は仮であり、それに属するとされる働き(用)も仮です。

 

「犬が走る」「水が冷たい」「花が咲く」などの言葉は、すべて仮です。

 

般若部で説かれる「空」では、このことを重視しています。

 

名前によって、有ると錯覚する見方を否定して、「非有非無」を説き、そのはたらきが有るという見方を否定して、「不生不滅」を説きました。

 

すべては空なのですから、私たちは対象について何も語ることはできません。

 

もちろん、真理も空ですから言語道断です。つまり、言葉による道は断たれています。

 

釈尊も「秘密深奥蔵」という「言葉では表せないもの」について何度も言及されているのは御承知の通りです。

 

ここは説明の難しい所ですが、フェルディナンソシュールなどの言語学を参照すると良いかもしれません。

 

少々、長くなりましたが法華経や涅槃経が指示している「真理そのもの」は言葉ではありません。「悟り」という状態に至る事です。

 

この「悟り」の内容を連綿と引き継ついで行くのが佛教です。

 

従って、その法を授かった者がいう事に、凡夫がどうこう言うべきではないのです。

 





つまり、末法の法華経の広宣流布を付嘱した法華経が優れ、その「僧」こそ三宝一体なのだから、中心にやっていきなさい。

と言われて涅槃経が法華経より一重劣るのである。

 

 

これだと、法華経が涅槃経より優れている根拠が「広宣流布の付託」になりますがそれで良いのですか?

 

普通に考えると、なぜそれが優位性の根拠になるのか解らないので説明してください。重要な部分です。

 

私には単なる法華経の「特徴」に過ぎないと見えますが?

 

当り前ですよね?万物が成佛できる教えを弘めろというのは。

 

つまり、一乗の教えである根拠の一つくらいにしか思えません。

 

で、その広宣流布された法華経(大河)が涅槃経(大海)へ帰ると涅槃経に説かれていますね?

 

それは、次で示します。

 


しかも、ついでに言っておくと、釈尊が「広宣流布」と銘打たれた箇所は、
法華経・薬王品の■「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。」
ここ以外ない。
つまり、未来、悪世末法において、広宣流布すべき教えは法華経であって、涅槃経ではない。
法華経を蔑ろにしての広宣流布など在り得ないのである。
法華経を下して敢えて涅槃経を持ち出しての弘教は在り得ない。
これ伊藤真乗の大きな矛盾である。

 

 

 

真如苑は法華経を蔑にしていませんよ?

 

真如苑の依教の一つとして大切にしています。

 

 

 

で!毎度、おなじみの引用で申し訳ないですが大般涅槃経名字功徳品には

 

 

「余経(つまり涅槃経以外)を修学すれば、常に滋味を希(こいねが)う」

 

(涅槃経以外のお経典で修行していても、「もっと救われる教えはないかな」という思いを常に持つ)という意味です。

 

 

実は、私が日蓮正宗より暇を頂いたのには、この思いがあったように思います。

 

題目挙げると元気になるとか功徳は頂いた感覚はありますが、日蓮正宗の信者さんって(当時は学会だったからでしょうか?)人としての常識、品格が劣るように思えたのです(上から目線で大変申し訳ない言い分ですが…)。

 

攻撃的で周りが見えず、強烈な個性を持つ人が多かった気がします。

 

悪い言い方をすると「我」が強い。

 

勿論、皆が皆、そうではなかったと思いますが、「このままこの教え(日蓮正宗)を求めていても、他人を受け入れられない小さな人間になる」

 

と思っていた時に、真如苑の教えに出会いました。

 

話は脱線しましたが、さらに名字功徳品第六には続けて

 

 

「若し是の大般涅槃を聞くことを得れば、余経所有の滋味を希望する、悉く皆永く断ず」

 

(涅槃経を聞いたら、そうした「救われたい」という思いは無くなる)と言う意味。

 

 

また

 

 

「八大河悉く大海に帰するが如し」

 

―(「南無阿弥陀仏」の河も、「アーメン」と唱える河も、はたまた「南無妙法蓮華教」と唱える河も、河はやがて海に行きつくように)という意味―

 

 

 

と説かれ、更に

 

 

「また医師一つの秘方ありて、悉く一切所有の医術を摂するが如し。善男子、如来もまた爾なり。諸説の種々の妙法、秘密深奥蔵門、悉く皆、この大般涅槃に入る。」

 

― 医師が根本となる奥義を以て、その他の全ての医術を使いこなすようなもの。如来もまた同じように、今まで説いてきた妙法(法華経も含む)、言葉では説き明かせなかった教え(秘密深奥蔵門)も悉くこの大般涅槃に入っているという意味 ―

 

 

 

つまり、法華経の広宣流布の要旨も当然涅槃経に内包されている事になります。

 

一乗の教えを説いたのですから、それを弘めろというのは理の当然でしょう。

 

更に、大般涅槃経は釈尊が涅槃するにあたっての遺言の教えです。

 

 


次に、法華経 涅槃経のどこにも、真如苑が行っている、霊能だの接心だの抜苦代受だの、、、そんな教義・教説は全くない。

 

 

これも大般涅槃経四相品第七に、「種々の神通変化を示現す」

 

同じく名字功徳品第六に、「諸々の菩薩摩訶薩、是の中に安住し、復能く処々に涅槃を現示す。この故に名づけて大般涅槃となす。」

 

と、処々に不思議な力が現れると釈尊は説かれています。

 

 


殊に、若くして死んだ教祖の息子二人が信徒の苦しみを代わりに受けてくださる。。。だのの馬鹿げた教義など、法華経・涅槃経のみならず、一切仏教においてない。
まさに、問難者がこだわっていた「因果を無視した」邪説でる。
自分の業報は自分の因果に依る所であって、別人がそのく替わりをすることは有り得ない。

 

では現証として、昔から「親の因果が子に報い」とか「獄苦代受」とかいう概念が存在するのは何故ですか?

 

また、自分以外の者の業・因縁の影響など受けないなら、そもそも「廻向」や「供養(追善追福)」は意味がないですよね?

 

子孫が先祖の為に功徳を積んで、それを巡らすなんて議論は成り立たなくなります。

 



真如苑は

@ 涅槃経・優 法華経・劣 と下している
A 伊藤真乗の系譜に当然「弘法」がいる。
この「弘法」は、釈尊を「無明の辺域」と下し、法華経を「大日経より三重の劣」と下している。
依って、以下の法華経の警告が当てはまることになる。


■若し人信せずして 此の経を毀謗せば
則ち一切 世間の仏種を断ぜん
或は復?蹙して 疑惑を懐かん
汝当に 此の人の罪報を説くを聴くべし
若しは仏の在世 若しは滅度の後に
其れ斯の如き経典を 誹謗すること有らん
経を読誦し 書持すること有らん者を見て
軽賎憎嫉して 而も結恨を懐かん
此の人の罪報を 汝今復聴け
其の人命終して 阿鼻獄に入らん(譬喩品第三 175

 

 

大丈夫です。

 

大般涅槃経月喩品第十五には

 

「この経典が世に現れて、若し衆生の耳に一たびふれるなれば、悉く一切の諸悪、無間の罪業は消滅する。

 

この大般涅槃の境界は、思議すべからず、善く如来微密の性を説く、

 

この義を以ての故に、諸々の善男子、善女人等は、如来に於いて常住の心を生じ、変易することなきを信ずべし。

 

その時、正法は断ぜず、僧宝亦滅せず。」

 

 

とあり、この大般涅槃を聞くものは無間地獄に入るような罪でも消滅すると釈尊が約束して下さっています。



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