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勧持品二十行の偈は菩薩衆の口を借りた釈尊の御心についての反論

 

 

勧持品二十行の偈は菩薩衆の口を借りた釈尊の御心

 

↑樋田氏の論点

 

淡々と行きます。

相手をねじ伏せる事が正しいと言う考え方を現実社会でもしているのですかね?

このような人格になったら、営業職は決して出来ないと思いますけど。

 

さて、

 

 

   ★ → この「仏意に敬順し」 というところで、菩薩衆は御仏の御心を深く知り、深く拝しているのである。
つまり、師の心を弟子として成り代って誓言しているのである。 

★ → つまり、この二十行(実際にはもっと長いが)の偈の内容は、そのまま師である御仏の御心を弟子の菩薩衆が拝して述べていると読み取ら
ねばならない(強制)。
しかも、釈尊はこの誓言を聴かれて黙然としていたのではない。
もしただ沈黙されていたのならば確かに、その菩薩衆の誓言が是なのか非なのか、肯定なのか否定なのか分からない、とも
言えるだろう(推論)。
しかし、釈尊は、勧持品の二十行の偈の内容を否定せず、むしろ、その内容を前提として、次の安楽行品第十四の御説法へ進まれているのである。
もし、二十行の偈の内容が釈尊の意に沿わなく間違っているとしたら、むしろ、その時点で、釈尊は何らかの否定の意思を示され、その間違いを示した上で正しい御教示をされている
はずである(推論)。
であるから、勧持品二十行の偈は、菩薩衆の口を借りた形ではあるが、釈尊の御心を表示された、と拝すべきである(強制)。

 

 

 

お気づきですか?

 

貴方はこの調子で全て日蓮正宗の教義に照らして「べきである」とか」「言えるだろう」とか「はずである」とか「ねばならない」ばかりです。

 

推論も良いですし、確固たる確証があるなら「べきである」と強制するのを私は、否定はしません。

 

ですが、貴方の議論はそればかりですよね?

 

貴方(日蓮正宗)のアナロジーは要りません。

 

異教徒との間にも共通言語を持ってほしいです。

 

解釈を差し挟む余地が生まれるから、言葉による伝法を釈尊はあまり信じず、弟子に説法をメモする事を禁じたのです。

 

実践して悟る。

 

つまり、密教がお釈迦様の本意だったと言う事です。

 

迷える真如教徒を救い、日蓮正宗の信徒を励ましたいという高邁な理想がおありなのでしょう?

 

だったら、「こうしろ」「ああしろ」とねじ伏せる前に、その方々の仏性がどうしたら開くのかを考えてください。

 

仏性は、他人から言われて開くものではありません。

 

他人は強制するのではなく、協力すべきなのです。

 

お解りになるでしょうか?

 

 

 

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