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「日蓮大聖人には「変化の人」の加護がなかった」を破すに対する反論

 

 

 

 

「日蓮大聖人には「変化の人」の加護がなかった」を破す 

 

↑樋田氏の主張です。本人が楽しんでいるなら良しとしましょう。

 

 

では、要点だけ

 

 

     数百人対十数人。 景信側はもともと襲撃するために武装して集まった者ども。もちろん
大聖人のお供の方々はそもそもが僧道に励まれる御弟子が中心。
このような状況で生き延びられたこと自体が、既に不思議な御加護としかいいようがないではないか。

法華経の当該文

若し我が滅度の後に 能く此経を説かん者には
  (中略)
若し人悪(みだり)に 刀杖及び瓦石を加へんと欲せば
則ち変化の人を遣はして 之が為に衛護と作さん


とある。「能く此経を説かん者」に変化の人が遣わされて、必ず護る。ということである。
まさに、鏡忍房・工藤吉隆殿こそ この「変化の人」ではないか。

では、法難で亡くなった方々は、ただの非業の死を遂げたのか?

 

いいえ、抜苦代受ではないですか?

 

 

 

涅槃経に云はく
「善男子、過去の世に此の拘尸那城(くしなじょう)に於て仏の世に出でたまふこと有りき。
歓喜増益(かんぎぞうやく)如来と号したてまつる。
仏(ほとけ)涅槃の後、正法世に住すること無量億歳なり。
余の四十年仏法の未、爾の時に一(ひとり)の持戒の比丘有り、名を覚徳(かくとく)と曰ふ。
爾の時に多く破戒の比丘有り。
是の説を作すを聞き皆悪心を生じ、刀杖を執持して是の法師を逼(せ)む。是の時の国王名を有徳(うとく)と曰ふ。
是の事を聞き已(お)はって、護法の為の故に、即便(すなわち)説法者の所に往至(おうし)して、是の破戒の諸の悪比丘と極めて共に戦闘す。
爾の時に説法者厄害(やくがい)を免(まぬか)るゝことを得たり。
王爾の時に於て身に刀剣箭槊(せんさく)の瘡(きず)を被り、体(からだ)に完(まった)き処は芥子(けし)の如き許(ばか)りも無し。
爾の時に覚徳(かくとく)、尋(つ)いで王を讃(ほ)めて言はく、善きかな善きかな、王今真(いままさに)に是正法を護る者なり。
当来(とうらい)の世に此の身当(まさ)に無量の法器(ほうき)と為るべし。
王是の時に於て法を聞くことを得已(お)はって心大いに歓喜し、尋いで即ち命終(みょうじゅう)して阿仏(あしゅくぶつ)の国に生ず。
而も彼の仏の為に第一の弟子と作(な)る。
其の王の将従(しょうじゅう)・人民・眷属(けんぞく)の戦闘すること有りし者、歓喜すること有りし者、一切菩提の心を退せず、命終して悉(ことごと)く阿仏の国に生ず。
覚徳比丘却(さ)って後(のち)寿(いのち)終はりて亦(また)阿仏の国に往生することを得て、而も彼の仏の為に声聞衆の中の第二の弟子と作る。
若し正法尽きんと欲すること有らん時、当(まさ)に是くの如く受持し擁護(おうご)すべし。
迦葉(かしょう)、爾(そ)の時の王とは則ち我が身是なり。
説法の比丘は迦葉仏是なり。
迦葉、正法を護る者は是くの如き等の無量の果報を得ん。
是の因縁を以て、我(われ)今日に於て種々の相を得て以て自ら荘厳(しょうごん)し、法身不可壊(ほっしんふかえ)の身を成ず。

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  この小松原の法難の相は、まさに、この有徳王・覚徳比丘と全く一致する尊い姿ではないか。
覚徳比丘を護る戦闘のために命を落とした有徳王が、なんと、後の釈尊となるのである。
こんなありがたいことがあるか!

 

 

 

本気ですか?

 

言いたいことは解らないでもないですが、次のような非難には何と答えます?

 

「イスラム国の青年たちは、自爆テロをしてもそれは「ジハード」なので、死後は百人の処女を好きに出来ると教えられるそうです。

 

貧しい彼らは現世では、嫁も養えないので狂喜して、性器に香水を塗って出ていくそうです。」

 

その手の話と何がどう違いますか?

 

 

鏡忍房・工藤吉隆だって法華経を信じる人であり、この場合、変化の人が現れて逃げ道を示すなり、はたまた応戦できる程度の能力があってしかるべきです。

 

衛護」なのですから。

 

日蓮大聖人に変わって斬られても「衛護」ではないでしょう。

 

 


この有徳王の話の前では、自分は涙なくしてはいられない。

問難者よ、少しは清浄な心があるのであれば、今回の自らの醜難を羞じよ!
そして、この涅槃経の経文を何度も拝してその醜心へ染めよ!

 

 

 

樋田さん、私は貴方という人間が好きです。真っ直ぐで、思い込んだら一直線で、熱意にあふれている。

 

日蓮大聖人もこんな風に実直で、熱意にあふれた人だったのだろうと思いました。

 

だから私は好きだし、評価しているのです。

 

でも、苦しくないですか?

 

物事は「こうあるべきだ」「こうじゃなきゃいけない」という性格は、私もそうでしたから苦しいです。

 

自分を他人と比べてみたり、「本当の自分はもっと出来るはずだ」と考えてしまったり、いちいち引っかかる。

 

ありのままの自分を受け入れないと苦しいのではないかと思います。

 

私が涅槃経に出会って変わったのはそこです。

 

お経典に自分を合せるのではない、お経典の功徳が自分を包んでいてくれる感覚です。

 

ちょっと頭が回ってないかな?

 

 

 

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