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「了義経に依って不了義経に依らざれ」 とどう整合性をとるのか? への反論

 

 

「了義経に依って不了義経に依らざれ」 とどう整合性をとるのか?

↑樋田氏の主張です。

では反論を加えます(緑色が樋田氏)。

 

 

「了義経に依って不了義経に依らざれ」 

不了義経を用いたり、根拠にしてはいけない。と説いているが、この「不了義経」とは何を指すのか?

 

 

 

「不了義経」とは、まだ完璧でない教え=涅槃経以前の教え という事になりますね。

 

存在する全ての経典のうち「了義経」「不了義経」という概念は涅槃経以外ではないのではないでしょうか(あったらごめんなさい)?

 

 

 


そして、「依らざれ」とはどういう意味で、具体的にはどうすれば良いのか?

 

 

 

「この教え(あるいは無宗教の人なら『自分』)こそが絶対なのだ」と執着して、他を排撃するような態度を辞める事です。

 

もっと言えば、涅槃経の「すべてのものには仏性がある」と説く、その仏性(良き個性)を尊重する態度を失うなとも言えるでしょう。

 

「涅槃経」に依るべきだから、それ以外の教えに「依る(執着する)」ことないようにすれば良いのです。

 

但し、「不了義経」は必要ないという意味ではありません。

 

あくまで「完璧でない」という意味です。

 

だからキリスト教ともうまくやれるし、実際にドイツ人の霊能者は接心を行う時に十字架をつけたまま、神に感謝して接心に入るそうです。

 

この内容は涅槃経にも書かれていますが本当に解るためには、やはり経典ではなく体験(密教)が必要です。

 

もし「不了義経」に執着すれば必ず対立が生まれます。それでは幸せにはなりません。

 

結論として、(自分しか)幸せになれないような身勝手な宗教は捨てれば良いという事です。

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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