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伝教大師がご自分で仰っているだけでしょ?

 

伝教大師は真言密教の矛盾を既に見抜いて指摘していたのである。

   依憑天台集序
 「天台の伝法は諸家の明鏡なり。
陳隋より以降興唐より已前、人は則ち歴代称して大師と為し、法は則ち諸宗をもって証拠とす。
故に梁肅(りょうしゅく)の云はく、
「(中略)出世の道は大師に非ずんば則ち三乗四教の旨、晦(くら)くして明らかならざる者なり」と。
我が日本の天下は円機已に熟し、円教遂に興らん。
此の間(ごろ)の後生各自宗に執して偏に妙法を破す
(中略)
新来の真言家は則ち筆受の相承を泯(ほろぼ)し
旧到(くとう)の華厳家は則ち影響(ようごう)の軌模(きも)を隠す。」

 伝教大師は、この文の通り、天台の教判こそ最高であり、それは当時の中国・日本の仏教界においても確定的定説であったことを記しているのである。
そして真言については

 

 

これは?

 

これが何の破折になっているのです?

 

真言宗を対象にしている?

 

だとしても一方的に感想を述べているだけですよね?

 

 

 新来の真言家は則ち筆受の相承を泯(ほろぼ)し

つまり、弘法の持ち込んだ後発の新興宗教 真言密教は、そもそも付法・伝持の八祖などデタラメで、虚偽・捏造の誑惑であり、天台大師の一念三千を盗み取って真言密教の教義内へ取り込んでいるだけのもの!と喝破されていたのである。

そもそも、弘法は伝教大師が御存命中には、それほど活躍できていなかった。
それはつまり、伝教大師の存在、つまり天台の教判が厳として存在していたからである。
そして伝教大師の没後、弘法は国家泰平と玉体安穏の加持祈祷を宮中で行なうことを願い出て天皇に取り入り、着々と真言宗の基礎を固めていったのである。
元々、中国でも「真言宗」などという「宗」名は名乗っておらず、弘法に依ってはじめて用いられた宗名なのである。

ではなぜ伝教大師は真言密教の経典とか教説を必要としたのか。
簡単である。
伝教大師は法華経を中心に、天台教学・戒律・密教・禅の4つの思想をともに学び、日本に伝えて(四宗相承)、延暦寺は「仏教総合大学」としての性格を持っていた。
そのために、全ての「学部」の基礎的教材・資料は必要であるから、弘法にもその知識を求めたのである。
別に、教義的に屈服して教えを乞うたのではないことは、先ほどの文証で明白である。

 

 

確かに伝教大師は法華経を棄てなかった、それは史実です。ですが同様に史実として

 

>弘仁3年(8121115日、高雄山寺にて金剛界結縁灌頂を開壇した。入壇者には、最澄も含まれていた。さらに1214日には胎蔵灌頂を開壇。入壇者は最澄やその弟子円澄、光定、泰範のほか190名にのぼった。

>弘仁4年(8131123日、最澄が空海に「理趣釈経」の借覧を申し入れたが、密教の真髄は口伝による実践修行にあり、文章修行ではないという理由で空海は拒否した

 

 

その後、伝教大師が大いに期待をしていた泰範は、伝教大師の再三の求めに応じず、遂に真言を離れる事はなかった。

 

 

これは、世間でも「伝教大師が弘法に屈服して教えを乞うた。」という誤謬が伝播しているかのようにも見えるが、これは、真言系の悪宣伝の故であるので、注意が必要である。

 

 

では、その最高の教えは何故、樋田氏が侮蔑しまくっている密教となってしまったのですか?

 

さらに言えば、私の記憶では日蓮大聖人は自らの教えを「国教」にしようと意図してたやに思いますが?

 

これは、合ってますか?

 

 

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