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自爆しましたね

 

 

※A「「我が諸説の諸経」とは、「これまで説いてきた教え」であり、」 法華経はその中で最も第一だと指摘されております。

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  はい!ブッブ〜〜!  失格!
先入観入れずに良く読みましょう。

@ 所説 = 説くところ  この語法に 過去形に限定できる意味はない。

つまり、そのまま 「釈尊が説く所の諸の経」 という意義であって、それ以上でもそれ以下でもない。
過去を限定したものではない。
これ、文法の基礎中の基礎ですが?  

はい、だからこれ  ペケ × ですね。

 
※A「「我が諸説の諸経」とは、「これまで説いてきた教え」であり、」

これで、もうはや反論の根拠の根底が崩れたわけである。

 

 

 

じゃぁ、

 

 

「已今当(いこんとう)の三説超過」といいますが、これについて

中国天台宗の第六祖・妙楽大師は、

■ 「縦(たと)ひ経有って諸経の王と云ふとも、已今当説最為第一と云はず」(『法華文句記』)

と述べられています。

すなわち、当分の第一として「この経が最も勝れている」という意味の経文は諸経のあちこちに示されていても、過去・現在・未来の一切のなかで「最も勝れている」と宣言されるのは、法華経以外にはありません。

 

 

この論証は何ですか?

 

「我が諸説の諸経」のうち「第一」と仰せられた経は沢山ある。

 

これまでの「(仮の)第一」とは区別する為に「過去・現在・未来」という特別な表現を用いているのでしょ?

 

つまり、「我が諸説の諸経」には、明らかに「これまで説いた教え」という時間の限定がつかないと、「已・今・当」の宣言と論理矛盾です。

 

樋田氏は、今は意図的に、釈尊が同じ内容を繰り返したと主張しています。

 

ですが、このように以前の内容では「我が諸説の諸経」と「已・今・当」の宣言とを対比していたのですよ?

 

つまり、「已・今・当」に特別な意味を持たせるとすれば、必ずその前文と、後の文は同義反復ではなく、対比関係にならざるを得ない。

 

その為に特別な表現をしているのだから。

 

前文と後文を対比関係にしたくないなら「已・今・当」は、これまでの経典との対比を意図した特別な言葉遣いと言う論を棄てないといけない。

 

 

 

もし、釈尊が「これ第一なり」と言うのが何の限定も伴わない字義通りのお言葉であるなら、沢山の「第一」の経典が出てしまう。

 

かといって、「已・今・当」の宣言を、これまでの「(仮の)第一」と区別する為の特別な用法である事を認めてしまうと、私が主張する「難信難解」を「第一」の義へとすり替えないと私との議論に勝てない。

 

 

釈尊が「已・今・当において是、最も第一なり」と仰せになってくれていれば、なんら問題はないのに、わざわざ「難信難解」とされた。

 

その指し示すところは、涅槃経へと続く一乗の教えの最初で、これまでの教えとかなり違う内容だから難しいという言う意味以外に解釈しようがありますか?

 

はい!論破(笑)!

 

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