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般若経からやり直しましょう

 

リンゴという言葉は、それ自体、リンゴですか?

 

ある果物があり、それを我々は「リンゴ」と名付け、概念化しているわけです。

 

そういう概念化があるから「リンゴ取って」と言った時に、その頼まれた相手も意味が解るのです。

 

 

問難者は、
「経」は言葉で書かれている以上、全て方便です。
「法」とは、それが書かれている「経」の内容であり、「真理」です。
真理は言葉では伝えることはできません。

と言いながら、一方で、
髄自意とは、「お釈迦さまの自らの意識のままの教え」といえるでしょう。

と、仏の教説に随自意・随他意が存するという説を自身の論として用いる。
「お釈迦さまの自らの意識のままの教え」とは、そのまま「真理」ではありませんか。

 

良いですか?

 

「お釈迦さまの自らの意識のままの教え」とは、そのまま「真理」とはその通りです。

 

その「真理」を概念化して言葉で説法をされたわけです。

 

つまり、「概念化」しないと経を書けないわけですが、「概念化」される事で「お釈迦様の意識そのもの」ではないのです。

 

だから 経=真理 とは言えない

 

般若部で散々、この「概念化されたものを絶対の真理だと思ってはならない」=「非有非無」が説かれているでしょ?

 

 

「お釈迦様の悟り」というなかなか言葉にはならないモノを「実態」という概念で捉えるのは無理だと教えているのです。

 

 

涅槃経の十五「願わくは諸の衆生悉く皆出世の文字を受持せよ」
とも相容れないものではないでしょうか。
他にも、像法決疑経には「文字に依るが故に衆生を度し菩提を得」とありますが、どう解釈するのでしょうか。

 

 

上記を理解できたなら、的外れな質問だと理解できましたか?

 

文字や概念は方向性を指し示すもの(シニフィアン=「意味するもの」)です。

 

その指し示した先に佛の言いたい事(シニフィエ=「意味されるもの」)があるという概念と対象との対応関係を言っています。

 

よって、経典は「真理を指し示すもの」として重要ですが、それを読んだら直ちに悟れるわけではないと言う道理です。

 

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