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悪足掻き?

 

 

何を思われても、何を主張されてもそれは自由です。

 

仏法とは因果応報、誤っている者にはその現証が出るでしょう。

 

順現・順後・順不定にね。

 

釈尊は涅槃経で「この経を謗るものは首を撥ねても構わない」と仰せですが、それは「全てを救う」という涅槃経の名目と矛盾していますよね?

 

「無知の拙きもの」(済みません、しかし目を覚まして貰いたいが故の失礼です)は、涅槃経はおろか、日蓮大聖人の「未熟な仏法」においてすら脱落でしょう。

 

以下、縷々述べます。

 

 

道理や論理から外れたとされる具体的な箇所はどこか、との問いですが、
最も顕著なのは、問難者が伊藤真乗の正統性の根拠に挙げた「真言の系譜」が完全に崩れたことを認めながら、それ以降も悪足掻きをしているところです。
素直じゃありませんね。

 

 

だから、私は真言が最上だとかいう説は採っていないでしょ?

 

伊藤 真乗師以上に立派に密教を相承した行者はいないと伝法大阿闍梨の佐伯 恵眼大僧正(そもそも座主が直に伝法する事が異例)も仰せです。

 

「とってもって、良く範とせよ」

 

と。

 

密教の超法(おっぽう)の罪を破る覚悟で申し上げると、私は醍醐寺に2週間ほど勉強しに行きました。

 

醍醐寺では仏様にお供えする水は醍醐山中腹に湧いている「醍醐水」と決まっています。

 

伊藤は、普通だと1時間半ほどかかって行けるかどうかのその場所へ20分で行き来したと言います。

 

晩年、伊藤は足が不自由になり歩行訓練が必要な状態になりましたが、この時の修行が原因だったのだなと涙が出ました。

 

法華経を国教とするために奔走してひたすらお上に掛け合っただけの日蓮大聖人。

 

対して、バカにされ、恵まれた環境を全て捨て去った、釈尊と同じように「下野」し、明日食べるものもない中に修行した伊藤。

 

まぁ、それでも私は真言が最上だとは全く思わない。

 

伊藤もそう思ったのでしょう。

 

だから一宗を立てたのです。

 

ところで私が日蓮の事を「大聖人」との尊称を外さないのは、貴方方日蓮正宗の方々への敬意であって、日蓮に対してのものではありません。

 

そこは知っておいて貰いましょう。

 

 

そもそも、そのような苦海に没在する衆生を憐れみ、解決法・解決の道を示されたのが仏法であり仏道でしょう。それを、「脅し」と捉える問難者は仏の教説を何だと思っておられるのでしょうか。

 

 

佛の説は唯一つ。

 

仏法を信じようが信じまいが、そんなケチな事に拘らず、全ての生きとし生けるモノを救う

 

これしかありません。

 

普通に考えて、世界中の全てが一つの「何か」を信じると思いますか?

 

そんな事を信じているのはイスラム国の連中の一部と日蓮系くらいなのでは?

 

 

誰であれ無差別に救う!

 

 

真如苑はその為に存在します。

 

廻向しないと救われないとか接心を受けるのにいくらかかるとか、それは真如苑が菩薩の集う所だからです。

 

別に真如苑に入らなくても佛は救ってくれると思います。

 

真如教徒とは、それを取り次ぐための菩薩です(私は違いますけどね)。

 

入信するとかしないとかは関係ありません。

 

真如苑は金を使ってでも仏法を弘める志がある人たちの集まりです。

 

従って、その功徳は偉大ですが逆に誤った求め方をすると、それに気づくまで相当酷い目に遭います。

 

 

だから私はいわゆるエリート街道が目前にあったのに、社会の最底辺に今、います。

 

そこで舐めた苦味が、他人の痛みを知る醍醐味へと変わった時、私は仏法を垣間見たと思いました。

 

 

もちろん、真如教徒でもエリートはいっぱいいますよ。

 

その道でその人の果たすべき役割があるのでしょう。

 

日蓮の教えでは絶対にそこまで行けません。私の人生と引き換えに得た智慧です。

 

 

無上法を説く最極最善の行為・教説を
バカ話の感覚でリラックスして話し合えばいいじゃないですか?

と、「バカ話程度」のこととする身・口・意 三業不具足の問難者に四弘誓願を語る資格はありません。

 

 

そうですか?

 

私はある裁判に結構な間携わったのですけど、その時の弁護士団はいつも冗談を言って非常に明るかったです。

 

大事なのは「良いパフォーマンス」なのであって、「それにどれだけ必死に打ち込んでいるか」という情熱とはまた別問題なのではないでしょうか?

 

どれだけ必死でも、汚い言葉で相手の尊厳を傷つけるような事を言えばその時点で「その程度の人」なのです。

 

私は「その程度の人」に分け入っているだけです。

 

 

樋田氏は、まさに仏菩薩の御意を体し、貴方を我が子として観ておられるからこそ、邪師・伊藤真乗への執心を糾弾しているのです。

 

 

そう思いますよ。

 

ですが初歩的な問題として、私が信じ、尊崇している人物を呼び捨てから入るのは、菩薩と言うにはあまりに智慧がないですよね?

 

 

「あなたの行く道の先に穴が空いていて危険ですよ。そのまま進めば必ず堕ち、更に苦しみを増しますよ。」と教えてあげるのを脅しとは言いません。親切、慈悲が故の行為に他なりません。
素直に、有り難く受け取っては如何ですか。

 

日蓮大聖人は、その「開目抄」の中で弟子を嘆いていますよね?

 

「拙きもののならいは、約束せし事を真の時には忘るるなるべし」と。

 

つまり人間は追い詰められると自分の信心が間違っているのでは? と疑うのです。

 

私はとうにそんな境涯は過ぎました。

 

地獄に堕ちても伊藤が一緒です。

 

伊藤が呼ぶなら地獄へでもどこでも行きましょう。

 

私は地獄を一度ならず舐めた人間です。

 

今更何も怖くない。

「どん底は 地獄の釜の 底にして 浮世の風の 吹かぬ極楽」 なんちって!

 

 

明日、命が果てるとしても今日の一日、真如に生きて私の心の親、伊藤夫妻に感謝をささげられるならそれも良いと思います。

 

逆にここまでイカれなくては、「信心している」とは言えないのです。

 

 

 

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