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雑感4

 

 

ではでは、抜苦代受は経典にもないし証明する必要もないと私の方から議論を止めているので別の話を。

 

そもそも、この議論は「伊藤真乗師の法を説く正当性」である事を銘記して頂ければそれで良いです。

 

真如苑という宗教は伊藤 真乗師なしには語れないのですから。

 

 

じゃぁ、雑感いきましょう。

 

 

なぜ、皆さん、文字とか言葉が全てだと思い込んでいるのでしょう?

 

私の説明で普通に解ると思いましたが意外にそうでもないみたい。

 

じゃぁ、この話は御存知です?

 

「梵天勧請」

 

 

お釈迦様は35歳でお悟りを開かれた時、自ら開かれた神力で万象を観察し7日ずつ7週、49日の間三昧の中に居られました。

 

 

そして「私は世間の流れに逆らい生死解脱の道を証した。この法は最極至極にして、ただ佛のみ解るもの。」

 

「貪りと欲楽に執着する人々がこの経を了知できようか?ちょっと無理じゃね?」

 

とお考えになり、大衆に説法する事を躊躇しておられました。

 

これが、佛が悟りの世界に居られる状態、「如居」ですね。

 

で、梵天が三度、釈尊に「お願いですからパンピー(一般人)をセイヴ(救済)して(梵天はヒンドゥー教の最高神)よ〜」とお願いして釈尊は法を説く決意をされます。

 

そして、サルナートへ赴き、ゴーダンニャ等(最初に弟子になる5名の一人)に初めて法輪を転じた(説法した)のです。

 

これが、我々衆生を救うために三昧の世界から「来た」という意味で「如来」といわれる状態です。

 

お解りになるでしょうか?

 

「如居」と「如来」の立て別け。

 

 

釈尊は、最初は「パンピーが解るかなぁ?どう教えりゃ伝わるのよ?」という思いでした。

 

でも、「俺がやらなきゃ誰がやんのさ!」と45年に渡って説法なさったわけです。

 

「如居」の佛は言葉など一切使わない三昧の世界です。

 

「如来」として衆生救済に「来た佛」は、その三昧の世界を理解させるためにあれやこれやと方便も交えて必死に言葉を駆使していきます。

 

ですから、私たちと、その三昧の世界(悟りの世界)なるものを繋ぐのは「釈尊の教説」しかないという意味で、「経典絶対」というのは理解できます。

 

でも、そもそも悟りの世界というのは言葉だけを頼りには行けないのですね。

 

何故なら、釈尊は出家して、成道するまで何人かの仙人の教えを受けましたが皆、邪道だとしてそれを棄てられました。

 

そして、誰に説法されるでもなく菩提樹下で禅定(あえて俗語で言えば「瞑想」、真如苑では「接心」)されて成道なさいました。

 

 

徹夜で経典読んで、折伏して回って成道されたわけではないのです。

 

こういう背景を踏まえて「義によって語に依らざれ」を噛みしめてみると、また違うものが見えませんかね?

 

釈尊は言葉で法を説かれたけれど、その言葉が全てじゃなく、その言葉で表そうとした「義」を解ってほしいという釈尊の願いです。

 

悟りの三昧の世界を求めなさい。言葉そのものを求めても無駄!

 

釈尊はその為に般若の「空」を一番念入りに説かれたのです。

 

 

密教なので良く知りませんが、「阿字観」という修行がありますね?

 

あれは「阿」という字を眺めて三昧に入るのです。

 

その文字に込められた「義」の世界に溶け込む修行でしょう。

 

「南無・妙法蓮華経」も同じです。

 

これを単に、「法華経に帰依します」と辞書的解説のままにいくら唱えても無駄じゃないですか?

 

それより深い「南無・妙法蓮華経」が指示している偉大な世界を見つめていくためにあの文字を見ながら勤行するのでは?

 

日蓮大聖人は真言でも修行されていますから、真言の阿字観という基本的な修法は身に着けていたのでしょう。

 

それをちゃっかり盗んで自分の宗派に取り入れ、「南無・妙法蓮華経の文底に一念三千があるのだよ〜ん!」と、本来、体験して得るべき答えまで最初から解説している。

 

 

一念三千とは「観法」ですからね。

 

「南無・妙法蓮華経」の奥に込められたものを観る観法を身に着ける事ですよ。

 

「南無・妙法蓮華経」という7文字がそのまま尊いのではない。それが一念三千を指し示す道しるべだから疎かに出来ない、それなしでは一念三千に行けないという意味においてのみ尊いのです。

 

 

 

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