元に戻る

 

 

言語実体論の愚か

 

ほら!先走り過ぎて結局、こんな風に同じ事を書かなければならなくなる。

 

私が議論の相手なら、私と同じタイミング、同じ呼吸でやってもらえませんかね?

 

同じ事をもう、あと何回話せば良いのか?

 

別に目新しい視点からの議論があるわけでもないのに。

 

 

イタズラに議論が拡散し、最早100を超える駄文の山を積み上げて、観る人の興味を離れさせる。

 

貴方一体何がしたいの?樋田さん?

 

一応、言語実体論については議論する約束だったので反論しておきます。

 

 

   その「佛の言いたいこと」も結局、言語(文字)でしょう。それともテレパシーですか? 禅宗でいう教外別伝・以心伝心と同じ主張ですね。

引用が長くなりますが、仏は必ず言辞=言語を以って衆生を度すことを示し論難を破ります。

 

 

「言いたい事」は内証であって、言語(文字)そのもののはずがないでしょう?

 

我々に当てはめて考えてみましょうか?

 

好きな女子が居る。

 

彼女を見ただけでなんかドキドキ・ワクワク、それでいて落ち着く、ホノボノ、そんな感情があるとします。

 

私たちは、彼女に言いたい!

 

「好きだ!愛しているのだ!ずっと一緒に居たいのだ!」

 

的な事をね。

 

これね、思いが強ければ強いほど、どんな言葉であれば気持ちが伝わるのかって問題が残りますよね?

 

「好きだ!愛しているのだ!ずっと一緒に居たいのだ!」

 

という言葉だけで、ダイレクトに彼女の心に自分の気持ちが一分の狂いもなく伝わりますかね?

 

ドキドキ・ワクワク・落ち着く・ホノボノがそのままダイレクトに伝わりますか?

 

彼女の置かれた立場によっては「ああ、こいつ彼女が欲しいだけで私にこんなこと言っているのだな」とか思われかねません。

 

言葉は、その受け手の境涯によって「本質」からズレるという事です。

 

以上 言葉というものは発し手と受け手が必ず同じものを観念するという前提が成り立たない道理を踏まえれば

 

 

C】の言教とは「仏が言葉で示した教え」でしょう。その言葉で示した教えによって衆生を成仏へ導くと。

 

 

とか

 

 

是の時に菩薩大衆、弥勒を首として、合掌して仏に白して言さく、世尊唯願わくは之を説きたまえ。我等当に「仏の語」を信受したてまつるべし。

と「仏のことば」を信受することを誓います。

 

 

 

とか

 

いくら主張してみても、そもそも言語が「作用」なのだから、概念から衆生を救済するというアプローチを離れられないのです。

 

人間世界では、相手に何かを伝えるには「言語」とか「行動」とかとにかく限られた手段しかない。

 

それらは全て「作用」でしかない。必ず通じるとは限らず受け手の立場心情によってすぐに歪んでしまう。

 

言葉を通してダイレクトに佛の悟りに触れられるとする、言語実体論からは、経典を完読した者は全て如来になってしまうのです。

 

 

 

また、問難者が言うところの「言葉は方便を含む」が正しければ、仏が真に言いたい(伝えたい)ことが言えない(伝わらない)=衆生の成仏が叶わないのだから、どこまで行っても法華涅槃の経が随自意とはいえないでしょう。

問難者の説が正しければ、種々の神力を以って、自由自在に、苦なく衆生を救えるはずの悟られた方(釈尊)でさえ伝えられない・説けない法(真理)など、末法の鈍根の衆生に悟りようが無いではないですか。
衆生を度せない仏は仏ではありませんよね。伊藤真乗のみならず、釈尊をも妄語の人と貶めたいのでしょうか?

 

だから、どこまで行っても法華経は随自意ではないってば!

 

本当に随自意なら、言葉には出来ないのです。それは「不可思議」です。

 

私の「愛しの彼女」に対しての、この悩ましいような嬉しいような切ないような、この気持ち、言葉に出来ますか?

 

釈尊の悟りのご内証など尚更、随自意であればあるほど「言葉にできない」のです。

 

だったら後の世の人間は救われない?

 

釈尊と同様に悟った佛が出れば救われますよ。

 

その方が説くことを信じて行えば、仏道を成就できる。

 

だから接心があり、どうすれば涅槃経の理に沿う事ができるのか?

 

業は千差万別なれど、その人に応じて教えを頂き禅定することができる。

 

そんな事が出来るのは、平成28年のこの末世的世相の中において、真如苑以外にないのであります。

 

 

元に戻る