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法華経では詳細に書かれています?

 

 

 

 

よく如来が説くところの様々な教説の意義・筋目を熟知し、それぞれの諸仏等を供養した上で、このような無上の正法を建立して、受持し擁護する。
もし成仏する心を発し、求めるのならば、よく知りなさい。そのような人は未来世において必ずよくこの正法を建立し、受持し擁護する。
この故に貴方方、今、未来世においての護法の人を知らなければならない。
それはどうしてか?
この成仏を目指す者は、未来世において必ずよく正法を護持するからである。

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  ★ → さて、この経文の一体どこが、伊藤真乗が明治39年(1906年)に生まれて、真如苑という、真言宗の系譜を標榜しながら、涅槃経を依経として、しかも”霊能”などという極めて主観的・偏向的・非合理的な手法が売り物の新宗教を開く、という予言になっているというのだろうか?
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     まずこれに反論できていない。

上記の経文のどこに 霊能 接心 抜苦代受 などの「義」がある?

 

 

そうですね。

 

経典に「我が滅度、2,289年後の328日、山梨の伊藤家に生まれ、真言で修行し、霊能を以て仏法を弘め、接心で救い、抜苦代受を打ち立てる」

 

と書いている経典はありません。

 

 

 

 

如来が説くところの様々な教説の意義・筋目を熟知し、それぞれの諸仏等を供養した上で  

 

(真言宗醍醐派での修行を初めとして、様々に修行し)

 

 

このような無上の正法を建立して、

 

(涅槃経を中心とし、それを弘めるための接心、霊能、抜苦代受を打ち立て)

 

 

受持し擁護する。

 

(昭和から平成の現代から未来に渡って涅槃経を受持し、これを守る)

 

 

と読むわけですね。

 

無論、これは解釈です。

 

事実としては、涅槃経に「未来に必ずこの経を説くものが出る」と示され、その如く伊藤 真乗師が出たという事です。

 

ところで、法華経には「未来にこの法華経を説くものが現れる」と明確に示されていますかね?

 

私の記憶では

 

 

1. 「次の五百年は(第五の五〇〇年)、我が法の中に於て、闘諍言訟して白法隠没し損減すること堅固ならん」

 

 

 

2. 「衆我が滅度を見て 広く舎利を供養し
咸く皆恋慕を懐いて 渇仰の心を生ず
衆生既に信伏し 質直にして意柔軟に
一心に仏を見たてまつらんと欲して 自ら身命を惜しまず
時に我及び衆僧 倶に霊鷲山に出ず
我時に衆生に語る 常に此に在って滅せず

 

3. 『「我が滅度の後、後の五百歳の中に、閻浮提に広宣流布して、断絶せしむること無けん。悪魔、魔民、諸天、龍、夜叉、鳩槃荼等其の便を得ん

4. 「爾の時に仏、上行等の菩薩大衆に告げたまわく、
諸仏の神力は、是の如く無量無辺不可思議なり。若し我、是の神力を以て、無量無辺百千万億阿僧祇劫に於て、嘱累(煩わしい事を託す)の為の故に、此の経の功徳を説かんに、猶尽すこと能わじ。
要を以て之を言わば、如来の一切の所有の法、如来の一切の自在の神力、如来の一切の秘要の蔵、如来の一切の甚深の事、皆此の経に於て宣示頭説す。」

 

と、時期、方角、法華経の要法、法難 という4つの根拠で日蓮大聖人の出現が予証としているのですが、本当にそうですかね?

 

上の文では、日蓮大聖人出生の予証はおろか、その状況証拠としてもどうなのだろう?

 

日蓮大聖人、その人直々御指名ではない、沢山の者が末法に於いても法華経を広げると読めなくもないですね。

 

涅槃経に於いての「その人出現」より、全然、根拠として弱い。

 

そのくせ、涅槃経の文は根拠にならない。抜苦代受とか接心とか説いていないと子供のような事を言う。

 

だったら、法華経に「日蓮と言う人が現れて、髭曼荼羅を書いて云々」と事細かに書いていないといけないでしょうという事。

 

あと、チラッと見ましたが伊藤真乗師が出家してないとか樋田さん言っています?

 

 

在家の者がどうやって金胎両部伝法灌頂を頂けるのか?

 

 

 

 

 

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