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樋田氏の再反論がありました。

 

G 真如苑教徒の我意・我見により涅槃経・勝 法華経・劣 との執着を破す

 

こちらも、樋田氏の結論部分の

 

  涅槃経は 法華経再説 であるから、「涅槃経で衆生を救う」という箇所があって当然。 
もし、涅槃経・勝 法華経・劣 と主張したければ「涅槃経だけで衆生を救える」と示した経文とその教説を挙げてください。

 

 

を取り上げて、私の再反論の

 

内容はこちらから

 

で、涅槃経と言うものを論じていますので参照して頂ければ幸いです。

もう一か所

 

> 論点が少しずれましたが、ずれたついでにもう一つ。
>「末法における法華経の要法」なるものを託されたのは、上行菩薩のみですか?四大菩薩ですか?
>これは大きな問題です。
>末法の世に、法華経の要法を悟った菩薩は一人しか出ないのか?複数出るのか?
>また、日蓮本佛論にも直結してくる話です。

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  ほとほと論点が低劣である。
上行菩薩一人に四菩薩全てが摂せられるのである。
それでいて、四菩薩と標するのである
仏教では 二而不二 不二而二 という基本中の基本の概念がある。
二にして二に非  二に非してしかして二

一に他を摂し はたまた 一が開いて多 なのである。

まずは、この基本概念を少し学んできたら、この論点を詳説しましょう。

 

 

密教の「金剛界曼荼羅」と「胎蔵界曼荼羅」はよく二而不二の関係と言われます。

「知恵」の世界(金剛界曼荼羅)と「慈悲」の世界(胎蔵界曼荼羅)、これら二つの世界は別々に描かれていますが、実際には一つに融合しているというものです。
つまり、だれか救いたいという気持ち(慈悲)があっても救う方法(知恵)を知らなければ救うことはできませんし、救う方法を知っていても、救いたいという気持ちがなければ、やはり救われません。

表裏一体とも言うべき関係を「二而不二」と言います。

 

従って、四大菩薩が「二而不二」の関係なら、ことさらに上行菩薩だけを取り上げるのは論理矛盾という気もします。

四菩薩がそれぞれ別存在だから、わざわざその一尊を取り上げるのであって、二而不二なら「四大菩薩」とするのでは?

例えるなら、金剛界曼荼羅だけを飾って「これが曼荼羅で、全てがここに表現されている」と言うようなものです。

一つだけでは全てを表現できないのではないかと私は思いますが、まぁ、仏教を求める上ではやはり、素直に聞くことですよね。

勉強になりました。ありがとうございます。

 

 

 

 

 

 

 

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