天草の素晴らしい景勝を紹介します。
天草諸島の多島海域地域(大矢野島~天草上島)を南西に下り、「松島有明道路」に登ると、車窓に映る『エメラルドグリーンとマリンブルーの海の色を』捜し、『有明海』、『島原半島』、海からせり上がる『島原の街並』、『雲仙普賢岳の偉容』、火山岩の『流紋岩、安山岩の異様な海辺の岸壁』を見流して、40年以前からの、多島海を縫い繋ぐ『天草パールライン観光』と名付けられた天草五橋観光コースも銘記しておきます。(澄んだ空気の晴れた日は、それなりに、美しい景観が展開する。)
天草の旅路の順路は、『天草五橋』の一号橋(天門橋)が玄関で、『大矢野島』と『天草上島』を2,3,4,5号橋が繋ぎ、『天草上島』と『天草下島』を『天草瀬戸大橋』というループ橋が繋ぎ、天草下島を南西に下り詰めると、『天草パールライン五橋観光』のクライマックスの『サンセットライン天草西海岸』へと至ります。
『天草上島観光』のミソ(中核)は、多島海『松島』の海の展望で、3ヶ所程ある展望台で秀逸なのは、『高舞登山展望所』です。(大型車はこの展望所取り付け道は登れません。乗用車の巾まで。運転に自信がある人のみ。さらに、登り口は迷いやすいので注意。離合があった場合は難渋する覚悟が必要。)もちろん、この松島は、松尾芭蕉の句で名高い宮城県の松島とよく比較されます。『高舞登山』からの景観の妙は、『宮城県の松島』より数段上回っています。他の2か所の展望台は、それなりで、強く推奨する気持は起こりません。
天草観光のクライマックスの 『サンセットライン天草西海岸』の旅情は、『天草パールライン五橋観光』とは別ものです。『サンセットライン天草西海岸』まで足を運ぶ方が数段素晴らしい旅情が得られます。南蛮風文化の漂いが感じられます。東シナ海は、沖縄に繋がっています。海の色も沖縄に類似します。天草観光の中核(コア)は、『天草西海岸』に在ります。コチラに在る旅情、感銘を如何に探るかが一番の課題です。
下田温泉の『五足の靴』旅館のある妙見浦は絶景です。唐津城の弟分『臥竜城 富岡城』(島原城と共に、乱の一揆軍の攻撃対象でした。)~夕陽の名勝『妙見浦鬼海ヶ浦展望所』~(大江天主堂、崎津天主堂)~牛深港までが直接に東シナ海に面する海岸で、ルソン南蛮からの海流に直接晒されています。偏西風に押しやられる海流が泡立つ所です。偏西風=貿易風(夏の南西風、冬の北西風)は、ヨーロッパ文化、文明を押しやる様にして、帆船に乗せて、伝播させて来ました。(キリシタン文化、鉄砲伝来だけでなく、明治維新の改革思想を生み出す『環境、文化』の醸成にも帰依しています。
江戸末期、明治初期の英明君主、思想家、経世家の代表的人物を列挙すれば、『嶋津斉彬』、『鍋島閑叟』、『横井小楠』、『福沢諭吉』、『西郷隆盛』、『大久保利通』、『江藤新平』、『大隈重信』等、鹿児島県、熊本県、佐賀県等の九州諸藩に逸材が輩出します。(『長崎の出島』からの影響はかなり直接的ですが、九州各県には、南蛮文化を貿易風と共に受け入れた時の『下地の醸成』があったと感じます。)
『大矢野島』『天草上島』『天草下島』の西に面する海岸(有明海側)は、沈みゆく落日が美しいのは当然として、この西岸には、リソイダイト(流紋岩)が露出している。又、良質の陶石(とうせき)→(九州の磁器は、8割が天草陶石で作られています。)が露出している所が多くあります。 磁器の粘土を作る『天草陶石』の色調は、黄色かかった黄土色で、日用品では、砥石(刃物を研ぐといし)を思い出すと色合いが理解し易いと思います。天草の海の色合いは、『藍より蒼く』と賞賛される青く澄んだ透明の『マリンブルー』ですが、岸辺から数メートルは、この陶石(とうせきねんど)粘土が溶け出しているのか?明るい黄色を含んだ『エメラルドイエロー』に染められる日がよくあります。大潮の満潮の頃合いがその色調の至高時期頃合いかもしれません。その時間の海は、東支那海域で繋がる同じ海であることが原因なのか、沖縄観光のコマーシャル映像で見る海の色を再現したように美しい。南蛮文化、キリシタン文化、鉄砲伝来の昔と変わらない、やさしい色調の海岸自然美が展開しています。
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『天草五橋1号橋』(天門橋と名付けられている)で渡海して天草諸島観光に入る直前の門前庭園として、マジックアワーに訪れると最高で、ロマンチックな、明治レトロチック石造り港湾です。世界文化遺産の候補地になっています。九州知事会が、『ユニセフの世界文化遺産の、国内暫定一覧表への追加』を推挙しました。
小樽や、下関や、横浜の様なレンガ作りの建物が林立していれば、レトロな明治の郷愁が伝わりやすいのですが、あいにく、もう少し地味で気付きにくいレトロ港湾景観が『三角西港』の特質です。現在では、漁港も、貿易港も、港湾施設はコンクリートで安直につくります。手間ヒマを掛けた手作り文化の素晴らしさが窺えます。『重機とセメントで、お手軽に、』な感じがしない、重厚な古い文化の香りがして、そこがミソです。
明治三大築港(維新政府三大築港プロジェクト=宮城県の野蒜[のびる]港→中途で挫折、福井県の三国港、現在は衰退。三大港とは、三角西港、野蒜港、三国港です。)の文明開化な匂いが漂う遺構で、本来は、明治の盛衰と共に朽ち寂びてしまうのが常ですが、この港の場合は、地形上の問題があって、明治30年代の鉄道敷設時に、この地までは鉄道が届かず、やがて鉄道の終点に新港(東港)が開設され、その機能は三角東港(現三角港)に移り、盛衰から取り残されました。しかしそれがかえって幸いに転じて、ポッカリと時代に置き忘れられて仕舞い、ガラス箱にコンポートされて、真空保存されました。今訪れると、あたかも、タイムマシーンに乗って明治の三角西港を訪問しているような感じのする公園になっています。正に、穴場の観光地です。切り石積みの埠頭護岸、水路、建造物(小泉八雲が長崎旅行から帰着して宿泊した旅館=洋館)、石橋等は明治レトロの香気を醸したまま残り、石畳の歴史公園「三角西港」として整備されています。(倉庫造りの、オランダ風喫茶があります。そこの窓辺や、デッキで、マジックアワーに”お茶する”と、天門橋(天草1号橋)の風光とともに、レトロな感傷が潮風に乗って漂います。)

松島は大矢野島と天草上島の間に点在する大小約20の島々の総称。古くから真珠の養殖が行われています。
この松島と五橋の展望地としては、虹ガ丘、千巌山、高舞登山があります。
日本での車海老の養殖は上天草市『維和島』が発祥地です。海岸に、堤防で囲われた養殖池が点在します。サトイモの殻を剥く水車のようなものが水しぶきを上げていれば、それが車海老の養殖池です。昼食で車海老の天丼付き定食を召し上がるのも乙なものです。
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起因、原因→『天草、島原の乱』は、大凶作が原因です。キリシタンによる、反禁教闘争=キリスト教徒弾圧に対抗する抵抗戦という側面は希薄です。本質は、飢饉の中での重税に対する『打ち壊し』です。『打ち壊し』の動乱を『世を撹乱して、立身の機を窺う』という思惑で利用する『関が原敗退の小西残党』です。残党の来歴は、小西行長の家臣であり、熱心な法華信徒である加藤清正には奉公が適わないキリシタンあり、天草の半農半士=国衆=地侍=その土地を所有し、民政・軍政を担当していた戦国武士です。『打ち壊し』の騒乱を利用して、幕府長崎奉行所まで巻き込み、戦国動乱の世に戻し、立身出世を画策しました。『関が原の残党』がキリシタン宗教色で粉飾したのです。
『天草の乱』の場合は、領主寺沢広隆が、本領の唐津から遠く離れた飛び領地の天草に富岡城(臥龍城と呼ばれて美しい)を築き、実質石高の二倍の石高を検地で計上して、重税を徴収します。 農民は死んだ方が楽だと思いました。(城持ち大名の基準は、4万石程度。実質二万石程度の石高では、”一国一城”の法度に抵触する。幕府に”城作り”を認めさせるために、サバを読んだ二倍の石高を登録した。)
『島原の乱』の場合は、領主松倉重政が、有馬氏の居城『原城』を廃棄して、4万石程度の石高では城持ち大名としての武威を整えるには少々石高不足です。ところが、松倉重政は、郭の広い、33もの櫓を整えた、天守閣の背丈も35メートル(創建当時のものは43mという数字を見ました、因みに、熊本城は、大天守16間2尺(約32m))五層の大城郭を建築してしまった事に拠り、財政逼迫に陥りました。そこで、百姓に重税を課し、絞りに絞りました。その悪政振りは、勧善懲悪の田舎芝居の水戸黄門的時代劇の種話になりそうな程単純単細胞な話に帰結します。『所業の不埒、存念(考え違い)の不見識を咎められてご成敗されるべし』、といった感じです。五十四万石の加藤清正の建てた熊本城の威厳が悪影響を及ぼして、対抗してしまい、理性を喪失してしまったのか?正気の沙汰では話とは思われません。司馬遼太郎さんの『街道を行く 島原編』では、松倉重政は、ルソン征伐を空想していた模様で、多数の大船、武器大砲、食料が準備されていたらしい。秀吉の朝鮮征伐の妄想より酷い。大陸深く攻め入った大本営参謀本部が、確たる見通しも無しに、米英中ソの大敵に戦端を開く愚行に類似している。
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※新幹線全線開通記念 コース(相談、交渉 下記を叩き台に)
熊本駅出発~高舞登山展望所~大江天主堂~崎津天主堂~お宿到着 25200円 約 7時間
天草(下島)、五和町、二江漁港のイルカウォチィング。餌付けされている訳ではありません。天然の居付きイルカが早崎海峡の鯵等を食料として居ついております。太平洋の楽園を売り物にした島々に足を伸ばすまでも無く、天然イルカの遊泳がウォチ出来るのです。大人も、子供も、老若男女にかかわらず、皆様、童心に返ったよう
にハシャギきっていますね。東シナ海と有明海を繋ぐ海峡という、熊本県地域圏に至近の海です。潮の出入りで急流となり、魚類の宝庫となっており、こちらで獲れ
る鯵は、”早崎鯵”というブランド名が付くほどおいしい。これをエサに約300頭のバンドウイルカが、日本近海では希といわれる根付きの イルカとして通詞島周辺を中心に生息しています。
『浮かび上がって来るイルカの、出来るだけ間近に行きたい。』『野生のイルカ も、水族館に居るイルカのような優しい目をしいるのだろうか?しっかり確認したい』『呼吸、息使いが聞こえるだろうか?』、
イルカに夢中で、『亡我』の境地。『観光、旅』の 極致ではないだろうか?
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観光をキリシタン遺跡にしぼると、大江天主堂.崎津天主堂、天草コレジョ館、明徳寺、正覚寺(南蛮寺)、 本土市立天草キリシタン館等です。ほとんど下島です。熊本からは2~2、5時間位の距離です。 一つ一つが点在し、小規模の為、大勢の観光客が大挙訪れるといった感じでは無く、 (それで、安売り団体観光に向き難く、一般的な流布情報は少ないようです。反面、注意深く旅情を探すと、見付け易いかもしれません)
明治の詩人達五人。与謝野鉄幹が先輩格。北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野萬里の5人等。五足の靴と呼ばれています。五人は、長崎県茂木港を経由して、下島の富岡港からキリシタン遺跡を散策し、大江天主堂の神父=フランス人神父(ルドヴィコ・ガルニエ)=パードレさんを訪ねる旅をしました。
白秋の邪宗門はこの旅で味わった詩情が礎になっています。(天草観光は南蛮の邪宗旅情、詩情が感銘を呼ぶ旅の様です。)
ガルニエ神父は、
1885年12月20日、日本赴任のため神戸上陸。1892年大江、崎津教会を兼任。大江教会を中心に。来日後、母国への帰国費用として支給される俸給を等を惜しんで教会建設費を捻出。孤児院も運営しました。(費用は何処から湧き出すのかと思います。)天草大江に溶け込むように日々を送り、1934年大江天主堂を建立。1941年1月19日(82歳)に大江の土となられました。
この南蛮寺を根拠地として、天草の乱が始まり、次第に島原方面へ広がっていきます。 現在の住職は、心無い観光客が寺域を侵す事が意に添わないようです。 観光バスで乗り付けることは出来ません。
本渡市街を一望する丘の上。本戸城のあったところ。現在は殉教公園として天草キリシタン史跡めぐりの欠かせない ポイントとなっています。「天草切支丹館」(天草四郎陣中旗 国指定重要文化財の展示)、「殉教戦千人塚」、キリシタン墓地、明徳寺等。明徳寺(本渡市代官鈴木重成が建立。キリシタン改宗を目的として兄の禅僧鈴木正三和尚の助力を仰ぎ建立した。禅刹。)一方通行の殉教公園から市街へ降りる途中にある。キリシタン弾圧の中心となった寺で、石段に残る無数の十字は、 これを踏むためのもの。石段登り口には謎めいた異人地蔵が立っています。 上に戻る
天草の乱やキリシタン弾圧時代の資料、遺品を展示。天草四郎陣中期、踏絵など貴重なものが多い。 【千人塚】天草の乱戦死者を祭る周囲20mほどの半球形の石の塚。純白のキリスト像が静かに見守っています。

江戸後期のアーチ型石橋。一帯は天草の乱の激戦地だった所です。この橋は乱200年後位に掛かります。
陸繋島にあり、本丸跡からの展望がすばらしい。近くに、江戸時代“郡会所”だった建物で、古文書など約70点を 展示した苓北町郷土資料館があります。下から仰ぎ見る富岡城は、臥竜城の名を偲ばせる美しい佇まいです。
キリシタン史跡の多い富岡から下田温泉を経て下るルート。妙見浦などの海岸美が展開し、夕日は非常に美しく、 本渡から下田温泉へ直行の場合は、天草下島横断道路が断然近いです。サンセットラインとして名高い天草西海岸の代表的景勝地。 100m近い断崖が連なり、青い海と変化に富む岩肌、 松の緑のコントラストが鮮やかです。とくに十三仏崎公園からの眺めがいいです。
大江の丘に立つ白い教会。昭和7年、フランス人宣教師ガルニエ神父が建てたもので、左手に彼の像があります。ガルニエ神父は、人生を神と大江村への布教に捧げて、大江村の土となる信念を貫きました。祖地フランスに戻るべく支給される旅費を貯蓄して、一枚の法衣も節約して、とうとう天主堂建設費を捻出しました。
明治40年(1907)北原白秋ら“五足の靴”の若き文人たちも、南蛮文化に憧れて、ここを訪れ、後に、『邪宗門』で南蛮文化を詩想に結晶させ端緒を得ます。
メンバーの一人、吉井勇の歌碑が立っています。
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崎津の、狭い入り江の漁港に、身を縮めるように建っている天主堂。 畳み敷きの床は信者との距離感を感じさせない。観光で覗くのは罪悪感すら感じる。創建は、アルメイダ神父が関わっている。1569年、ルイス・デ・アルメイダ神父(戦国期、大分の府内に総合病院を建立した。南蛮医術を持ち込んだ人。1580年、マカオにわたって、日本への布教の便を図るのに、敢えて司祭に叙階された。再び日本に戻って、宣教活動・医療活動に専念するが、1583年10月に天草の河内浦で没した。)は、聖人の中の聖人。その頃の建立。天草コレジョも建立されている。明治以来3回の建て直し。現存の天主堂は、昭和9年、ハルブ神父(フランス人)により創建。長崎の天主教会群を、フランス人神父から習い覚えた技術で施工した『鉄川与助』によって施工された教会。
正面の祭壇がある場所は、キリシタン時代に厳しい踏絵が行われていたところ。「海の天主堂」とも呼ばれる。、教会が建つ崎津漁港一帯は、日本の渚・百選「キリシタンの里 﨑津」に。日本のかおり風景百選「河浦 﨑津天主堂と海」に選ばれています。。
遠洋漁業の基地となっています。大昔から地理的に、ハエ(南風ー季節風)に乗って航海して来る人たちの休息の場でした。現在、日本各地の港に残るハエドマリという地名もハエ待ちという意味です。春一番等の嵐を避けるという意味もあります。ハイヤ節の元歌は牛深ハイヤ節です。『ハエ節』という意味です。ハエ節にはハイヤ踊りがつきます。最も大きく、有名に育ったのは阿波踊りです。この踊りの女踊りは、牛深ハイヤ踊りの泥臭ささを削リ落として、女性の色気の豊かにを表現した素晴らしいものになっています。
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