《天草への交通アクサセス→空港のある都市部から遠い事の説明の為》


1,福岡方面から、乗用車を使い有料道路優先チョイス 福岡IC → 高速(九州自動車道) → 松橋IC → 松橋IC → 国道266号 → 上天草市→天草市(市街地の「本渡」) 所要時間3時間30分 

2,熊本から、バス等の公共交通を使い辛抱優先チョイス 熊本駅 → 「熊本駅」バス停 → 快速あまくさ号 → 「本渡バスセンター」 所要時間2時間45分

3,熊本から、格安ツボ解説のタクシーを使い分かり易く情報盛り沢山のタクシーチョイス 熊本のホテル → 「三角西港」での休憩 → 松島有料道 → 崎津天主堂 所要時間3時間15分 崎津天主堂→大江天主堂→富岡臥龍城→宿泊ホテル(天草での宿泊が必須になる) 所要時間4~6時間

《キリシタン南蛮文化の到来》の年表抜き書きメモ


※ 1543年 種子島へ鉄砲伝来。「五峰」と名乗る明の海賊が、ポルトガル人達を案内して、航海途次に難破し、舵航行不能のまま、種子島西之浦湾に入港、種子島島主である『種子島恵時・時尭親子』に、鉄砲を見せて、デモンストレーション発砲し、そして、『在来刀鍛冶の技術流用にて、製造法の技術協力契約』が結ばれる。

※ 1549年8月15日、フランシスコ・ザビエルが、ヤジロウを道案内にして、鹿児島に来航。長崎県平戸にて、宣教活動を行い、先進的南蛮文化が驚異を与え、領主には南蛮文化貿易が、領民にはキリスト教が歓迎された。
  「安土・桃山の文化」の特徴→1,「庶民の生活」2,「南蛮文化」
1,「庶民の生活」、、、、現世を楽しむ開放的な文化、色とりどりの衣服を身にまとい、小唄や踊りに興じた。
2,「南蛮文化」、、、、東南アジアやインド、ヨーロッパの文化、、南蛮貿易、宣教師たちの布教活動と共に、天文学や医学、航海術など伝えられた。活版印刷術、パン、カステラ、カッパ、カルタ、たばこ、時計、オルガン、さつまいも、かぼちゃ、すいか(西瓜)、とうがらし(唐辛子)、落花生、とうもろこし、ルソン壷等も。

 1566年 ルイス・デ・アルメイダが、天草に布教。フランシスコ・ザビエルが日本にはじめてキリスト教を伝えた、その17年後のこと。
たちまち信者は増え、その後、キリシタン大名・小西行長の所領となるころには、島に教会は30近くもあり、天草全島の人口約3万人のうち約2万3000人が信者だったといわれる。(日本人宣教師を育てる大神学校「コレジヨ」が河浦にできる。グーテンベルク式印刷機で、教材や布教のための印刷物「天草本」が印刷された。

1582年(天正10年)に、天正少年使節→伊東マンショ(主席正使)が大友宗麟の名代、千々石ミゲル(正使) 大村純忠の名代、中浦ジュリアン(副使) 、原マルティノ(副使) の4人がローマ法王の下に派遣される。
  因みに、1613年、支倉常長が、伊達政宗の命で、エスパーニャ帝国(スペイン)に遣欧されている。

1590年 キリシタン大名(天草地侍の頭目達が派遣した)遣欧少年使節団が帰国。グーテンベルク印刷機が土産。ルイス、アルメイダの、宣教師養成学校の『天草コレジョ』においてグーテンベルク印刷機が活躍、教科書として、『天草本=平家物語』が印刷される。

1637年『天草・島原の乱』。  厳しい弾圧と重い年貢に耐えかねた農民たちは、寛永14年(島原と天草合わせて約3万7千人の農民たちのほとんどはキリスト教の信者で、彼らを指揮したのは、《若干16歳の少年、天草四郎時貞←小西行長関ヶ原残党の天草地侍である益田好次の息子。》  『益田好次等の関ヶ原残党』は戦略を明確にし、戦術を百姓一揆軍に指示明示した。その戦略とは、打ち壊し百姓一揆に便乗して、島原藩、天草藩を混乱させて、幕府直轄領の長崎奉行所を落とし、戦国割拠時代へと時勢を回帰させ、『キリスト教的自由平等博愛社会』、『南蛮文化咲き誇る別天地』の実現をめざし、功名出世を企んだ。しかし、この乱では多くの信者が命を失い、幕府はキリスト教をさらに厳しく取り締まり鎖国を行うことになる。

印象深さのランキング 潜伏キリシタン遺跡

 無理しても訪問すべきは→→→崎津天主堂、大江天主堂、天草コレジョ館、富岡城   天草下島に所在します。(天草観光のリリーフエースである『天草サンセットライン』(海峡の対岸に長崎市が。)に所在します。)
時間に余裕がないので次の機会に→→→明徳寺、正覚寺(南蛮寺)、 天草キリシタン館等です。下島が観光興趣が深い、 中間に在る大矢野島、松島、上島が少しダルイ。結論→『天草サンセットライン』は、熊本県の果てで、そこはかと長崎の文化が香る。(団体観光客が少ない→俗化が少ない。天主堂では、心洗われる旅愁が湧く。)

[天草、島原の乱の原因=盤石なる幕藩体制での”藩の失政”(天草富岡に酷税徴収役場とする『富岡城』を構えた。島原の原城を解体移設し、『豪壮な島原城』にて酷税徴収を強行した)←これが主因。”カソリックの布教”が癌で、民の領主への反発と反乱を呼ぶ←これは副因。幕府は、主因、副因を差し替えて”鎖国”の根拠とした]

 [島原天草の乱の主因は、天候不順の飢饉、酷税に依る打ち壊し 殉教闘争は、副因。]
※飢饉、酷税に依る打ち壊し→暴動を皆殺しで幕府が終息させる。『酷税が暴動を派生させた。為政者側は(民を養う)政策を施さずに、徒に過酷税を収奪した。その『無政策の罪』振りで幕府の権威失墜を隠す為に、『キリスト教犯人説』に全ての責任を被せて、幕府は、禁教令を厳格化し、鎖国政策に走る。

【島原の乱の事情】
 島原天草の乱は、島原地域の農民一揆軍(有馬キリシタン国衆)と天草地域の農民一揆軍(小西キリシタン国衆)が、キリシタンである『同宗』を絆として、同盟関係を結び、天草国衆の益田甚兵衛好次の息子天草四郎時貞16才が、長崎コレジオ修学途次であったので、宣教師=司祭の代理として洗礼儀式を行い(本来は、宣教師=司祭以外には許されない儀式)、手慰みで南蛮手品等を見せたのが、奇蹟を呼ぶ偉人と曲解されて、乱の先導者に祭り上げられることとなる。(当時、宣教師は幕府に追放されていて、天草四郎は、洗礼儀式を行う宣教師の代理を果たした。←資格は、まだ無し)
【島原の乱の酷税】
 飢饉の中での重税に対する『死覚悟の打ち壊し』が起こり、その動乱を『有馬クリスチャン国衆=残党が、立身の転機、チャンス』と『打ち壊し』に[クリスチャン殉教闘争]の精神性を加味して、利用するのが『有馬残党』です。
 有馬氏は宮崎に移封せられ、換わって松倉重政が、1万石から4万3千石への大躍進して、島原に封ぜられる。その有頂天が高じたのか、有馬氏の原城・日野江城から膨大な石材等運搬の重労働を領民に課し、実高は4万3千石で、虚構の取れ高10万石を幕府に報告し、10万石以上の領主でも分不相応な、33櫓の在る四層五階楼天守閣の豪華『島原城』を建設し、言うまでも無く、領民が命を繋ぐべき食い扶持分まで(島原城建設資金=年貢)に投じても不足する。

 司馬遼太郎さんの『街道を行く 島原編』では、松倉重政は、倭寇もどきに、ルソン征伐(海賊行為)を空想していた模様で、多数の大船、武器大砲、食料が準備されていたらしい。混乱の戦国期は、まだ倭寇の海賊気分が九州の領主には見られた模様で、秀吉の朝鮮征伐もその類い。

 【 天草の乱の事情】
 天草の乱には、黒幕的な戦略家が居る。関ヶ原の役の結果、惨敗者の側に陥ちた、小西行長領天草地侍=国衆(国衆は、自身で開墾した所領を、自身の武装で守る古い百姓で、この頃は、自身の所領から離れて、所領石高相当の扶持米を給料として受け取る。国衆が大名の家来になると、『地侍』となる。”侍→職業軍人”)。
  関ヶ原の役は、熊本では、肥後南小西行長半領宇土城の攻防で火ぶたが切られた。肥後北加藤清正半領の領主の加藤清正は、徳川方に加勢し、石田方加勢の小西行長の宇土城を壊滅させた。その際、身内出自の家来の少ない加藤清正は、『小西家から加藤家への奉公先転換を小西家の侍に呼びかけた。”侍奉公の先を加藤家に転換して、個人能力で地領を守り増やせ”』と。ところが、この呼びかけには『条件』が付いていた。カソリックの多い、天草の地領出自の地侍は、『加藤家に奉公出来ない』と。 『この呼びかけ』は、当初堅塁を誇った宇土城守備方も、内部崩壊のスキを見せて落城となる。天草出身地侍は、天草百姓へと逃げ帰り、肥後南小西半領の地侍は、加藤家家来として奉公が適う。
  『立身の転機、チャンス』とばかりに、『打ち壊し』に[クリスチャン殉教闘争]の精神性を加味して、『黒幕的な戦略家』として、暗躍するのが上記の『小西領天草地侍の関ヶ原惨敗残党』です。この『惨敗地侍クリスチャン』と、法華宗徒加藤清正は、宇土城の攻防の際に、互いの宗教的純粋性の部分で『対立』が公になってしまいます。

  ※加藤清正は、熱心な法華信徒で宗教的純粋性、精神性に於いても法華宗とクリスチャンは相容れない。『家来が欲しい、加藤清正。奉公する領主が欲しい天草侍』。両者は、対立した。国衆→益田甚兵衛好次等の指揮する天草領民は、『打ち壊し』のヤケッパチ騒乱に。『国衆の天草侍』は、『神の下での自由平等博愛のキリスト宗教性』を目覚めさせて、他宗教からの純真性、純粋性を図る為、神社仏閣等をも『打ち壊し』破壊させた。戦略をたて、幕府長崎奉行所を当面の攻撃目標にして、戦国動乱の世に戻し、立身出世とキリスト教純粋性、普及を画策した。  

   1. 『打ち壊しの引き金になった飢饉の中での重税』には、領主の側の勝っ手な都合があり、『天草の乱』の場合は、領主寺沢広高(名護屋城築城の功、朝鮮出兵準備の能吏。太閤秀吉の能吏の一人(石田光成等の側用人=秘書、文官の一人。←武断派:加藤清正、福島正則等から憎まれる。  天草領主寺沢広堅は、唐津舞鶴城城主。関ヶ原の役では家康方に味方し、その功で、飛び領地天草を加増。)が、本領の唐津から遠く離れた飛び領地の故に、富岡城(臥龍城と呼ばれて、海浜の美麗を誇る)を築き→お城自慢の殿様。(唐津の舞鶴城は、名護屋城を解体し、虹の松原海岸に移築、築城した。詰まり、海浜の美麗城がお気に入りで、やがて、城自慢が仇となる。)富岡城築城に際して、(一国一城の幕府築城法度が負担になる。四万石以上の大名に『築城』が認められる。実質石高2.1万石では、築城が法度違反になり、民への酷税が懸念された。)結局、『寺沢広高』は、実質石高を偽り、2倍増しの石高を捏造して(偽石高4.2万石)を計上報告して、あまつさえ、『虚偽の石高』を元に酷税を徴収します。 領民は[命を繋ぐ食い扶持]すら残らず、飢饉の不作の季節がくると、死んだ方が楽だとヤケっぱちになりました。(富岡城=『臥龍城』に天守閣は無い。天守閣構築は、さすがに遠慮した模様。)  

 『島原の乱』に遅れる事一ヶ月で、『天草の乱』が起こる。当初、乱の打ち壊しは、富岡城に向かうが、後一歩のところで、富岡城は、落城しない。やがて、島原の乱と呼応する事が、両地の中間に浮かぶ『談合島』で決まり、島原の原城跡に乱側の陣を置き、『島原城を落とす』と、攻撃目標が決まる。
 
 『島原、天草の乱連合軍』は、島原城攻防戦では、初戦は勝利に勢い付くが、幕府主導の九州諸藩連合軍が整いだすと、勢いが落ち、原城に立て籠る。持久戦、兵糧攻めが幕府方の主作戦になると、
篭城期間は3ヶ月で、落城となる。観光的にまとめられた話では、内通者一人を除き、37000人が皆殺しになり、骸も埋葬されず、今も残骨が発見されるとか、、、。


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【大江天主堂】(天草町)

大江の丘に立つ白い教会。昭和7年、フランス人宣教師ガルニエ神父が建てたもので、尖塔に向かい左手、奥隅に彼の像があります。ガルニエ神父は、人生を神と大江村への布教に捧げて、大江村の土となる信念を貫きました。祖地フランスに戻るべく支給される旅費を倹約して貯蓄して、一枚の法衣も節約して、挙げ句の天主堂建設費を捻出です、驚嘆します。

 明治40年(1907)北原白秋ら“五足の靴”の詩人達が『パードレとの面会』を旅行の主要テーマにした明治カソリック宣教師の聖人。

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五足の靴

 明治の詩人達五人。与謝野鉄幹が主導先輩格。北原白秋、吉井勇、木下杢太郎、平野萬里の5人等。五足の靴と呼ばれています。五人は、北原白秋の古里の『柳川』訪問後、長崎県茂木港を経由して、下島の富岡港からキリシタン遺跡を散策し、大江天主堂の神父=フランス人神父(ルドヴィコ・ガルニエ)=パードレさんを訪ねる旅をしました。 白秋の邪宗門はこの旅で味わった詩情が礎になっています。(天草観光は南蛮の邪宗旅情、詩情が感銘を呼ぶ旅の様です。)
 ガルニエ神父は、
1885年12月20日、日本赴任のため神戸上陸。1892年大江、崎津教会担当宣教師を兼任。潜伏キリシタンの里で、大江教会を中心に奉職。来日後、母国への帰国費用として支給される渡航費等の支出を節約し、(大江の里の土になる気概か、フランスに渡航することなく)教会建設費を捻出し、孤児院も運営しました。(生活費用は何処から湧き出すのかと、信徒に敬愛されます。)天草大江村に溶け込むように日々を送り、1934年大江天主堂を建立。1941年1月19日(82歳)に、大江の里の土となられました。

【崎津天主堂】

 崎津の、狭い入り江の漁港に、身を縮めるように建っている天主堂。 畳み敷きの床は信者との距離感を感じさせない。観光で覗くのは罪悪感すら感じる。創建は、戦国カソリック渡来期の聖人=ルイス、アルメイダ神父が関わっている。1569年、ルイス・デ・アルメイダ神父(戦国期、大分の府内に総合病院を建立した。南蛮医術を持ち込んだ人。1580年、マカオに戻り、『日本への布教』の信念を遂げるのに、敢えて貿易商人の俗界を離れ、『司祭』に叙階された。(人の病を治す喜びが、人々を神の元へ導く喜びへ昇華した。)一旦マカオに戻り、司祭の資格を取って、再来日し、宣教師=司祭の資格をもって、布教活動・医療活動に専念するが、1583年10月に天草の河内浦で没した。)は、聖人の中の聖人。天草コレジョも建立。崎津天主堂は、明治以来3回の建て直し。(江戸期は、庄屋屋敷があり、踏み絵で、潜伏キリシタンの選別が行われた処。)現存の天主堂は、昭和9年、ハルブ神父(フランス人)により創建。長崎の天主教会群を、フランス人神父から習い覚えたゴシック建築技術で、日本人『鉄川与助』によって施工された教会。「海の天主堂」とも呼ばれる。教会が建つ崎津漁港一帯は、日本の渚・百選「キリシタンの里 﨑津」に。日本のかおり風景百選「河浦 﨑津天主堂と海」に選ばれています。

 到来当時の南蛮文化を具体的に見たい→建築物があれば、、。ないと思われます。大浦天主堂(1865年日本最古の現存するキリスト教建築物)において、日本人潜伏キリシタンが仏人宣教師に、人目を避けて告白し(信徒発見の奇蹟)、パリから長崎各地に宣教師が派遣されて、天主堂建設が行われる。その中でも、熊本天草に派遣されたガルニエ神父は、ルイス・デ・アルメイダ神父の産まれ変わりの如くの聖人で、大江、崎津の両集落担当を兼任しながら天草の土となった。信徒発見後の、大江、崎津天主堂のゴシック教会建築から、『渡来時の南蛮文化を偲ぶ』方法が選択出来るのみ。 もっと、南蛮文化のイメージに浸りたければ、コレジヨ館に行くと善し。

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【宣教師学校 天草コレジヨ館】

『ルイス・デ・アルメイダ』が天草にキリスト教をもたらした。  天正少年使節(天草国衆領主等が、ローマへ派遣した使節)のローマ訪問土産の『グーテンベルク印刷機のレプリカ』が展示品の核心。その他、3本マストの帆船黒船南蛮船(運搬輸送用と、戦闘用船の違い。)の大型模型展示。南蛮文化の渡来の意義や、少年使節のローマ訪問の意義の解説。キリスト教と南蛮文化が天草にたどり着いたのがイメージ出来る、解説説明員の案内も興味をそそる。 

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【潜伏信徒発見後の天主堂建立 キリシタンの歴史】

 1614年 『家康』による禁教令によってキリスト教信仰は禁止された。
 1637年 『島原の乱』カトリック信徒は、密かにキリスト教の信仰を捨てずに代々伝えていった。これを「潜伏キリシタン」と呼ぶ。 幕末の、日仏通商条約(井伊大老の、朝廷を無視した日米通商条約の汎用)開国後の
 1865年(慶応元年)、長崎の大浦天主堂(フランス寺)に、浦上(現・長崎市浦上)在住の『潜伏信徒』が訪ねて、密やかに告白し、(「信徒発見」)、『潜伏キリシタンの存在』が明らかになった。その後、『浦上』以外にも『外海』や『五島』などでも信仰を表明する者が多数あらわれた。
 維新後の西洋文明の積極的導入(「文明開化」)政策から図れば、『家康の禁教令』も否定されるのが順当である筈が、、、明治初期は、キリスト教は禁教であったため、信仰を表明した『信徒』は、投獄や拷問によって棄教を迫られ、あるいは全国に配流されるなどの大規模な弾圧にあった(浦上四番崩れ・五島崩れ)。 明治政府によるキリスト教弾圧は諸外国の非難を招く。
 1873年(明治6年)に、江戸幕府以来の「キリシタン禁教令」が解かれた。『パリ外国宣教会』などによって、潜伏キリシタンの里に天主堂が建立されていく。
 『潜伏キリシタン』は、次の3種の色合いの『信徒』に分かれていく。
 1.『カクレキリシタン』(全部カタカナが固有名詞)→潜伏が長すぎたため、神道、仏教、民俗信仰の影響等、独自の解釈が進み、維新政府の『禁教令維持政策』も影響し、本来のキリスト教を拒絶。本来のカトリックとは一線を画す。
 2.少数ながら、昭和以降にカトリックに復帰した集落があった。『カトリック信徒』
 3.フランス人の宣教師の情熱、天主堂建立を核にした布教後、伝来時のキリスト教に復帰、帰依した。解釈し易く名付けると、『天草崎津大江信徒』。『長崎大浦、浦上信徒』。『外海、五島信徒』。フランス人宣教師の情熱により、再びカトリックの、ゼウスの下(もと)の『自由、平等、博愛』が伝わった。
  1998年 黒崎教会の『野下千年神父』は3種の色合いの『信徒』三者が心を寄せ合う場『枯松神社』に、信仰を守り抜いた先祖を慰霊する祭を実施するよう呼びかけ、2000年に三者の協力による「枯松神社祭」が行われ、現在も毎年行われている。




《三角西港》

  『天草五橋1号橋』(天門橋と名付けられている)で瀬を渡り、ワクワクとする天草諸島観光に入る玄関前庭園として、夕闇迫る頃に訪れるとロマンチックな、明治レトロチック石造りの港で、ユニセフ世界文化遺産=明治日本の産業革命遺産 の一つの港湾施設です。  小樽や、下関や、横浜の様なレンガ作りの建物が林立していれば、短絡に、レトロな明治の郷愁が伝わりやすいのですが、あいにく、もう少し地味で気付きにくいレトロ港湾景観が『三角西港』の特質です。現在では、漁港も、貿易港も、港湾施設はコンクリートで安直につくります。手間ヒマを掛けた手作り文化『石を切り出して敷き詰めた港湾施設』の素晴らしさが窺えます。『重機とセメントで、お手軽に、』な感じがしない、重厚な古い文化の香りがして、そこがミソです。  明治三大築港(維新政府三大築港プロジェクト=宮城県の野蒜[のびる]港→中途で挫折、福井県の三国港、現在は衰退。三大港とは、三角西港、野蒜港、三国港です。)の文明開化な匂いが漂う遺構で、本来は、明治の盛衰と共に朽ち寂びてしまうのが常ですが、この港の場合は、地形上の問題があって、明治30年代の鉄道敷設時に、この地までは鉄道が届かず、やがて鉄道の終点に新港(東港)が開設され、その機能は三角東港(現三角港)に移り、盛衰から取り残されました。しかしそれがかえって幸いに転じて、ポッカリと時代に置き忘れられて仕舞い、ガラス箱にコンポートされて、真空保存されました。今訪れると、あたかも、タイムマシーンに乗って明治の三角西港を訪問しているような感じのする公園になっています。正に、穴場の観光地です。この港、明治期には繁華であったようで、車社会以前の、船社会(人々の往来は、船又は汽車。三角、天草は、文化圏としては、長崎に属する)切り石積みの埠頭護岸、水路、浦島屋(小泉八雲が長崎旅行から帰着して宿泊した旅館=洋館。この洋館は、江戸後期に建てられた長崎大浦天主堂、旧グラバー住宅、旧リンガー住宅、旧オルト住宅の建築請負う大工小山秀之進の施工。この人は、くまモン の産みの親の小山薫堂さんの曾祖父にあたる。)、石橋等は明治レトロの香気を醸したまま残り、石畳の歴史公園「三角西港」として整備されています。(倉庫造りの、オランダ風喫茶があります。そこの窓辺や、デッキで、マジックアワーに”お茶する”と、天門橋(天草1号橋)の風光とともに、レトロな感傷が潮風に乗って漂います。)



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下田温泉 妙見浦 鬼海ヶ浦展望所のイラスト据え置き看板より



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《観光案内旅日記 天主堂を施工した日本人大工 鉄川与助 小山秀之進》

《道草 2 天主堂を施工した日本人大工 鉄川与助 小山秀之進》

 2013年3月6日(水)に天草観光を承り、崎津天主堂、大江天主堂を中心にした観光案内(タクシー運行)をスケジュールし、実施しました。厳寒から急激に温暖になった春先の季候が嬉しい、穏やかな日和でした。雲が少なく、夕日で名高いサンセットライン天草西海岸を辿る絶好のドライブ日和。鬼池~口之津の島鉄フェリーの下島=鬼池港(島原の子守歌の歌詞に出る、売られる娘のを鬼(おん)の池ん 久助(きゅうすけ)どんがこの港から、、、)が最終の目的地で、お客様の降車位置です。  
 コースのコアな訪問地の一つは、やはり、『崎津天主堂』。天主堂内では、声を殺して、、厳かに解説、「隠れキリシタンの里の五島列島の天主堂群の設計施工者は、フランス人宣教師で、途中から日本人大工『鉄川与助』が手伝いながら、西欧ゴシック天主堂の設計施工技術を習い覚えて行きます。ゴシック建築の粋、天主堂建築の技術が日本人大工に伝わって行きます。(この時期より少し前の頃に、『小山秀之進』が長崎洋風屋敷や、天主堂を施工しております。)天草の天主堂は『鉄川与助風和式アレンジ』が感んじられます。『明治日本は貪欲で、旺盛な技術吸収意欲溢れる人達が生きた時代なんだ!』と感嘆できます。 教会建築で、核心の部分のステンドグラスを通す、聖天からの射光の演出が少し和風パステル的色彩になっています。  原爆爆心地で、破壊消失してしまった『元長崎浦上天主堂』は、鉄川与助が施工したものです。ゴシック建築天主堂で、鉄川与助が施工したものには、『崎津天主堂』、『大江天主堂』、『元長崎浦上天主堂』これ以外に、熊本市の『手取カソリック教会』(つるやデパートの前)が在ります!」と解説しましたが、礼拝堂の堅いベンチに腰を下ろして、「天主堂の雰囲気に浸る皆様の感想は、落ち着く!ホッとする!気持ちの安らぐ素晴らしい空間ダ!と感慨をもらす。」と、お伝えする。(五島列島の鉄川与助の施行の天主堂は未調査です。九州にはまだ他にも、在るらしい。)  
鬼池港で、運行、案内業務終了の筈が、口之津~雲仙への経路の相談があり、「島原半島を海沿いに辿る二経路と、山越え一経路があり、本日の天候、走行予定時間から推察すれば、当然、海面に黄金色に輝く落日の美しい『橘湾沿いの海岸線』を辿るのが本筋」とアドバイスし、交通手段が未定であることが判明したので、急遽、最終降車地を雲仙に変更、落日の絶景をお相伴で拝見させて頂くこととなりました  
 テーマに掲げた『小山秀之進』の話が出てこないですねぇ、この時点では、まだ小山秀之進を観光知見と認識していない。一昨年2011年3月12日に九州新幹線が、全線開通しました。その前後から、ゆるキャラの『くまモン』のマスコミ露出度が激しくなり、私が案内する観光客もくまモングッズを語り、どうも『千都クン』や、『彦ニャン』の人気を凌ぐ勢いとか、、、。『くまモン 米国ウォール・ストリート・ジャーナルに登場』『3月16日(土)、17日(日)の2日間にわたり、地元・グランメッセ熊本で「くまモン誕生祭~ずっとくまもとサプライズ~」』、、、凄い勢いです。この『くまモン』の発案者、生みの親が『小山薫堂』さんです。2012年12月頃に、テレビのニュースで知りました。『料理の鉄人』、『おくりびと』等、熊本県天草出身の放送作家、脚本家、ラジオパーソナリティという情報。なるほど、大衆が迎合するツボを心得た、創作力豊かな人の発想は凡人には真似が出来ないと感心しました。(著作権はフリーにしてあるらしい。どの程度フリーかは問題外のこととしておきます。)  この『小山薫堂』さんの実家が、『天草で、家業が建築業』という情報が、それとなく、マスコミから流されていました。天草は、乱の後はおおかたは天領となり、代官所の下役人以外に武家が無く、創造力豊かな血筋は無いだろうと思っておりました。あに図らんや!日本有数の大建築家の血筋という、大向こうを唸らせる情報が、遠慮されて、奥ゆかしく流された為、意外さ満点の情報となった模様です。
 
 私、突然スケジュールが変更になり、雲仙までお客様をお送りし、長崎市内で一泊し、翌日、ユネスコの世界文化遺産登録リストに挙げられている『大浦天主堂』、『浦上天主堂』と、天草『崎津天主堂』、『大江天主堂』を実地検証比較することとなりました。  実地検証比較とは大袈裟ですが、実質は、東シナ海のさかなをアテに酒飲んで、長崎B級グルメのランチ喰って、骨安めを満喫するのが目的です。長崎では中華料理、卓袱料理に気を取られがちですが、地理的特長から考えると、『海鮮料理』が美味い筈です。『美味い魚』を目当てに、夜の居酒屋でメニューに目を走らせると、『鯨』が目立ちました。「下関で酒飲むんじゃあるまいし、長崎で鯨を喰うって、違和感あるなぁ!」というのが当初の感想です。何日かして、思い返すと、熊本県天草(二江港)も、島原(口之津)も、地付きのイルカが生息するところで、イルカウォチィング観光の盛んな処、、、、ということはと、『昔からイルカの肉を食べる文化が残っている筈と、、、。』という『あて推量』の『思いつき推理』で頭が一杯になります。タンパク質が大量に摂取できる『鯨肉』『鯨と同質のイルカ肉』を食べる文化が、和歌山の太地や、伊豆、伊東、千葉の銚子、気仙沼地方と同じように、、、、。『和歌山の太地』の地元漁師が西欧人に、「知的に発達仕切った、文明一歩手前の、ホ乳類のイルカの肉を食するのは、人肉を食するのに近い行為で、残酷だ!」という批判に晒されたように、『長崎の文化は野蛮』と非難されるのを恐れて、昔から外国人との付き合いの上手い長崎の人達は、「イルカの肉を食する文化」があることを喧伝しなかったのかも?私が無知であるだけで、『長崎はイルカとは違う、鯨料理で全国区の人気の郷土料理』だったのかなぁ。。  

 いよいよ、本題に、『閑話休題』です。 翌日3月7日(木)、スマホで、『大浦天主堂』の電話番号を調べて、ナビにその番号を打ち込んで、『大浦天主堂』へ行きました。天主堂や、グラバー園の入場料、青空駐車場の料金の高額な事にはカルチャーショック、熊本と長崎の観光文化の違いに驚きました。観光客の足もとを見る、『ボッタクリ観光』そのものです。入場料はまだしも、駐車料金が1200円を提示したのにはビックリしました。観光派生業者もシッカリボッタクリ観光の片棒を担いでいる。長崎は観光で名高い為、とりあえず「長崎に行けば、観光的感動でワクワクする。」と期待する旅人で溢れている。自分流の観光テーマを意識しない、ボッーと漫然観光に陥ると、必然的に旅人は、ガッカリ旅、ボッタクリ観光の悲哀を味あわされてしまう。  それはともかく、『ユネスコの世界文化遺産登録リストの大浦天主堂、浦上天主堂と、天草の崎津天主堂、大江天主堂の実地検証比較』がテーマ。『大浦天主堂』は、スピーカーから要領の良い解説が流れるので、他の解説文を読む努力が苦にならない。帰宅後、説明文読み下し後の、薄れ行く記憶を定着させるために、ネットで『テーマ 天主堂 ゴシック教会建築の日本人巧み大工』の魚拓をまとめる。

【『天主堂 ゴシック教会建築の日本人巧み大工の魚拓』】
 ※『浦上天主堂』(市北部の潜伏キリシタンの里の天主堂建築 旧堂は、原爆記念遺物) 1925年(大正14年) 5月 -旧堂 正面の高塔ドームまでの工事が完成。請負は鉄川与助によるもの。
※『大浦天主堂』(正式名は日本二十六聖殉教者堂→ 1597年2月5日慶長元年12月19日)に殉教した26名。日本二十六聖人→秀吉が南蛮貿易を独占する目的で禁教令発布。→二回目の禁教令発布で、新参の、秀吉の禁教令の趣旨を誤解したフランシスコ会(一部イエズス会)の26人を処刑しました。この悲劇は、ローマに報告されて、この年にローマ教皇ピオ9世により列聖される。)  1865年(元治2年)に建立された日本最古の現存するキリスト教建築物。設計 - フューレ、プティジャンの2名。 施行 - 天草御領島出身の小山秀之進が大工棟梁として施工。正式名は日本二十六聖殉教者堂。ユネスコの世界遺産(文化遺産)暫定リストへ掲載。「長崎の教会群とキリスト教関連遺産」を構成する文化財の1つ。 井伊大老の専断で結ばれた『日仏修好通商条約』(日米条約は全14ヵ条で、箱館・横浜・長崎・新潟・神戸の開港)により、フランス人の、出島以外の長崎市内を往来が許されて、『フランス寺への礼拝』の目的で建設される。江戸鎖国時代の出来事。 1865年(元治2年)3月17日(2月12日)- 浦上の潜伏キリシタンが大浦天主堂を訪ね、プティジャン神父に密かに信仰者であることを名乗る(潜伏信徒発見→「東洋の奇蹟」)

『小山秀之進』江戸後期に苗字帯刀か?士分階級に登っているタクミ大工
《主な業績》  1.国宝 長崎大浦天主堂の造営。    元治元年(1864)12月完成。当時の年齢36歳。  2.国指定重要文化財グラバー邸(木造)    文久3年(1863)完成。  3.国指定重要文化財オルト邸(石造)    慶応元年(1865)完成。  4.国指定重要文化財リンガー邸(石造)    明治初期の完成。    など、主として長崎に多く残されている。 1.2.3.4.は、長崎大浦地域に集中。2.3.4.は、長崎グラバー園に集中。  5.三角西港の築港並びに洋館建築。

【『小山秀之進』は、『小山薫堂』の曾祖父】
 大浦天主堂からグラバー園は石畳の裏道で結ばれている。途中に、資料館がひっそりと佇む。ボッタクリ観光地の高額の入場料、駐車場料金の仇を晴らすために、漫然旅客の寄りつかない、テキスト説明文満載の資料館に突撃した。寄る、押し寄せる年波に、スッカリ老眼鏡頼りの危うい視力を鼓舞して、打ち掛かるテキストを縦に切り、横に払って、獅子奮迅の奮闘むなしく、『覚えるとは、忘却することなり、覚えずして、忘却なきを誓う儚さよ!』大した値打ちのある事も記憶できずに、侘びしく去るグラバー園。長崎B級グルメ郷土料理のトルコライスの味すら今は何物ぞ!

結論!まとめ!  

『小山薫堂』さんは、控えめな人。世界一の人気ゆるキャラの『くまモン』の生みの親でありながら、最近まで、アピールする出しゃばりを控え、著作権管理者の主張も控え、『おくりびと』、『料理の鉄人』脚本家のアピールも少なく、出自が士分の、大功績を残すたくみ大工の家柄であるアピールも少なく、、、。今日から2日間は、近くのグランメッセ熊本で、くまモン誕生祭がおこなわれている、、、、。ある意味『小山薫堂祭』である。

《観光案内旅日記 天草の海岸の陶石の露出》


 天草の素晴らしい景勝を紹介します。
 天草諸島の多島海域地域(大矢野島~天草上島)を南西に下り、「松島有明道路」に登ると、車窓に映る『エメラルドグリーンとマリンブルーの海の色を』捜し、『有明海』、『島原半島』、海からせり上がる『島原の街並』、『雲仙普賢岳の偉容』、火山岩の『流紋岩、安山岩の異様な海辺の岸壁』を見流して、40年以前からの、多島海を縫い繋ぐ『天草パールライン観光』と名付けられた天草五橋観光コースも銘記しておきます。(澄んだ空気の晴れた日は、それなりに、美しい景観が展開する。)
 
  天草の旅路の順路は、『天草五橋』の一号橋(天門橋)が玄関で、『大矢野島』と『天草上島』を2,3,4,5号橋が繋ぎ、『天草上島』と『天草下島』を『天草瀬戸大橋』というループ橋が繋ぎ、天草下島を南西に下り詰めると、『天草パールライン五橋観光』のクライマックスの『サンセットライン天草西海岸』へと至ります。

 『天草上島観光』のミソ(中核)は、多島海『松島』の海の展望で、3ヶ所程ある展望台で秀逸なのは、『高舞登山展望所』です。(大型車はこの展望所取り付け道は登れません。乗用車の巾まで。運転に自信がある人のみ。さらに、登り口は迷いやすいので注意。離合があった場合は難渋する覚悟が必要。)もちろん、この松島は、松尾芭蕉の句で名高い宮城県の松島とよく比較されます。『高舞登山』からの景観の妙は、『宮城県の松島』より数段上回っています。他の2か所の展望台は、それなりで、強く推奨する気持は起こりません。

 天草観光のクライマックスの 『サンセットライン天草西海岸』の旅情は、『天草パールライン五橋観光』とは別ものです。『サンセットライン天草西海岸』まで足を運ぶ方が数段素晴らしい旅情が得られます。南蛮風文化の漂いが感じられます。東シナ海は、沖縄に繋がっています。海の色も沖縄に類似します。天草観光の中核(コア)は、『天草西海岸』に在ります。コチラに在る旅情、感銘を如何に探るかが一番の課題です。

 下田温泉の『五足の靴』旅館のある妙見浦は絶景です。唐津城の弟分『臥竜城 富岡城』(島原城と共に、乱の一揆軍の攻撃対象でした。)~夕陽の名勝『妙見浦鬼海ヶ浦展望所』~(大江天主堂、崎津天主堂)~牛深港までが直接に東シナ海に面する海岸で、ルソン南蛮からの海流に直接晒されています。偏西風に押しやられる海流が泡立つ所です。偏西風=貿易風(夏の南西風、冬の北西風)は、ヨーロッパ文化、文明を押しやる様にして、帆船に乗せて、伝播させて来ました。(キリシタン文化、鉄砲伝来だけでなく、明治維新の改革思想を生み出す『環境、文化』の醸成にも帰依しています。
 江戸末期、明治初期の英明君主、思想家、経世家の代表的人物を列挙すれば、『嶋津斉彬』、『鍋島閑叟』、『横井小楠』、『福沢諭吉』、『西郷隆盛』、『大久保利通』、『江藤新平』、『大隈重信』等、鹿児島県、熊本県、佐賀県等の九州諸藩に逸材が輩出します。(『長崎の出島』からの影響はかなり直接的ですが、九州各県には、南蛮文化を貿易風と共に受け入れた時の『下地の醸成』があったと感じます。)

 『大矢野島』『天草上島』『天草下島』の西に面する海岸(有明海側)は、沈みゆく落日が美しいのは当然として、この西岸には、リソイダイト(流紋岩)が露出している。又、良質の陶石(とうせき)→(九州の磁器は、8割が天草陶石で作られています。)が露出している所が多くあります。 磁器の粘土を作る『天草陶石』の色調は、黄色かかった黄土色で、日用品では、砥石(刃物を研ぐといし)を思い出すと色合いが理解し易いと思います。天草の海の色合いは、『藍より蒼く』と賞賛される青く澄んだ透明の『マリンブルー』ですが、岸辺から数メートルは、この陶石(とうせきねんど)粘土が溶け出しているのか?明るい黄色を含んだ『エメラルドイエロー』に染められる日がよくあります。大潮の満潮の頃合いがその色調の至高時期頃合いかもしれません。その時間の海は、東支那海域で繋がる同じ海であることが原因なのか、沖縄観光のコマーシャル映像で見る海の色を再現したように美しい。南蛮文化、キリシタン文化、鉄砲伝来の昔と変わらない、やさしい色調の海岸自然美が展開しています。


《イルカウォチング案内記》







 天草(下島)、五和町、二江漁港のイルカウォチィング。餌付けされている訳ではありません。天然の居付きイルカが早崎海峡の鯵、小魚、甲殻類等を食料として居ついております。南太平洋の楽園を売り物にした島々に足を伸ばすまでもなく、天然イルカの遊泳が接近視認が出来るのです。大人も、子供も、老若男女にかかわらず、皆様、童心に返ったよう にハシャギきっていますね。東シナ海と有明海を繋ぐ海峡という、熊本県民居住地域圏に至近の海です。潮の出入りで急流となり、魚類の宝庫となっており、こちらで獲れ る鯵は、”早崎鯵”というブランド名が付くほどおいしい。これをエサに現在、約200頭の「ミナミハンドウイルカ」が、日本近海では希といわれる根付きの イルカとして通詞島周辺を中心に生息しています。
 『浮かび上がって来るイルカの、出来るだけ間近に行きたい。』『野生のイルカ も、水族館に居るイルカのような優しい目をしいるのだろうか?しっかり確認したい』『呼吸、息使いが聞こえるだろうか?』、 イルカに夢中で、『亡我』の境地。『観光、旅』の 極致ではないだろうか?

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『天草上島』の『高舞登山展望台』



松島は大矢野島と天草上島の間に点在する大小約20の島々の総称。古くから真珠の養殖が行われています。 この松島と五橋の展望地としては、虹ガ丘、千巌山、高舞登山があります。
日本での車海老の養殖は上天草市『維和島』が発祥地です。海岸に、堤防で囲われた養殖池が点在します。サトイモの殻を剥く水車のようなものが水しぶきを上げていれば、それが車海老の養殖池です。昼食で車海老の天丼付き定食を召し上がるのも乙なものです。



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正覚寺(南蛮寺) 上天草市有明町

この南蛮寺を根拠地として、天草の乱が始まり、次第に島原方面へ広がっていきます。 現在の住職は、心無い観光客が寺域を侵す事が意に添わないようです。 観光バスで乗り付けることは出来ません。

殉教公園 (本渡市)

本渡市街を一望する丘の上。本戸城のあったところ。現在は殉教公園として天草キリシタン史跡めぐりの欠かせない ポイントとなっています。「天草切支丹館」(天草四郎陣中旗 国指定重要文化財の展示)、「殉教戦千人塚」、キリシタン墓地、明徳寺等。明徳寺(本渡市代官鈴木重成が建立。キリシタン改宗を目的として兄の禅僧鈴木正三和尚の助力を仰ぎ建立した。禅刹。)一方通行の殉教公園から市街へ降りる途中にある。キリシタン弾圧の中心となった寺で、石段に残る無数の十字は、 これを踏むためのもの。石段登り口には謎めいた異人地蔵が立っています。 上に戻る

【天草切支丹館】

天草の乱やキリシタン弾圧時代の資料、遺品を展示。天草四郎陣中旗、踏絵など貴重なものが多い。 【千人塚】天草の乱戦死者を祭る周囲20mほどの半球形の石の塚。純白のキリスト像が静かに見守っています。

明徳寺(本渡市)

 天草の乱後、天草は幕府直轄領→『天領』になり、初代代官『鈴木重成』が赴任する。『鈴木重成』は、開拓移民の領民の生計を気遣い、乱の直接の原因の、旧藩寺沢藩の『天草領地検地石高四4万2千石が虚偽であることを暴き、切腹してまで幕府に、『二万一千石』での租税減封徴収を訴えた。やがて、切腹の誠意が幕府に届き、天草領→『二万一千石』と改められる。 『鈴木重成』の兄に『禅僧鈴木正三』がいて、民政安定の助力を兄に懇願。『鈴木正三』の計らいで、人心平定とキリスト教からの改宗を目的として建立された曹洞宗の禅寺が、『明徳寺』。開山は中華珪法。石段の入口に、『異人地蔵』がある。彫りが深く、文字通り南蛮人の顔をしている。

祗園橋(本渡市)




重要文化財 日本最大

江戸後期のアーチ型石橋。一帯は天草の乱の激戦地だった所です。この橋は乱200年後位に掛かります。

富岡城跡(苓北町)

陸繋島にあり、本丸跡からの展望がすばらしい。近くに、江戸時代“郡会所”だった建物で、古文書など約70点を 展示した苓北町郷土資料館があります。下から仰ぎ見る富岡城は、臥竜城の名を偲ばせる美しい佇まいです。

妙見浦 鬼海ケ浦展望所(下田温泉)天草西海岸

キリシタン史跡の多い富岡から下田温泉を経て下るルート。妙見浦などの海岸美が展開し、夕日は非常に美しく、 本渡から下田温泉へ直行の場合は、天草下島横断道路が断然近いです。サンセットラインとして名高い天草西海岸の代表的景勝地。 100m近い断崖が連なり、青い海と変化に富む岩肌、 松の緑のコントラストが鮮やかです。とくに十三仏崎公園からの眺めがいいです。

【牛深市】

遠洋漁業の基地となっています。大昔から地理的に、ハエ(南風ー季節風)に乗って航海して来る人たちの休息の場でした。現在、日本各地の港に残るハエドマリという地名もハエ待ちという意味です。春一番等の嵐を避けるという意味もあります。ハイヤ節の元歌は牛深ハイヤ節です。『ハエ節』という意味です。ハエ節にはハイヤ踊りがつきます。最も大きく、有名に育ったのは阿波踊りです。この踊りの女踊りは、牛深ハイヤ踊りの泥臭ささを削リ落として、女性の色気を豊かに、スマートに表現した素晴らしいものになっています。

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