阿蘇神社 参詣 観光は今
   


熊本”阿蘇神社”本宮は、大地震により楼門等が崩壊。 復旧の為に拝殿,本殿、(日本三大の)楼門等を撤収保管→(再構築の為)しているが、それが為に、拝殿等の奥に隠れて見えなかった神殿等が露出→一般公開の仕儀に至る。気高く、秀麗で、深窓の、国宝かと?見紛う如き絢爛たる『一の神殿』、『二の神殿』、『三の神殿』の豪華な装飾屋根が参詣人の面前に現出。ご神体の健磐龍命(たけいわたつのみこと)、その奥方御前の阿蘇都比当ス(あそつひめのみこと)に直接に、隔てるものなしの状態で拝敬、参拝出来る。復興支援の参詣観光のチャンスだ。是非復興基金の寄付の為にも参詣されたい。



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阿蘇神社本宮の楼門、拝殿、本殿、一の神殿、二の神殿、三の神殿等の見取り図

   

 下記掲示の『見取り図=阿蘇神社本宮の建物配置図』を御覧頂き、今回の緊急レポートの趣旨を理解頂きたい。  『一の神殿、二の神殿、三の神殿』が豪華で、美しい。観光案内で100回以上は訪問しているのに、この様に美しい神殿が存在する事を知らなかった。拝殿より奥の側は、高千穂町の岩戸神社等も『御神域で在り、お祓い前の不浄の身で汚してはならない』と気遣い、近寄り、覗き込む事が出来なかった。ところが、大地震の不幸が、拝殿、本殿等の建物を損壊し、損壊木材等を、「他所に保管復元の措置」を行った為に、一般参拝者が存在すら無知であった『国宝かと?見紛う絢爛たる一の神殿、二の神殿、三の神殿』が、阿蘇神社の御本体の如くに現出した。  勿論、復興工事が立ち上がるまでの、一時的な現象で、拝殿、本殿等の建物の工事足場が立ち上がれば、その後は神殿等は又々隠れてしまう。全国の、神道宗教に帰依する皆様!熊本で初詣にいそしむ皆様!阿蘇神社は、今が神殿等を参拝のチャンスです。お急ぎ下さい。復興基金のご寄付、復興を助力するお賽銭をよろしくお願いいたします。




『見取り図=阿蘇神社本宮の建物配置図』

背景色の水色の部分が撤収されて、隠れて見えなかったピンク背景色部分=神殿部分が浮かび上がった。




《二の神殿と、中央の基礎石平面部が拝殿の撤去跡》

   


阿蘇神社本宮 撤収されている拝殿口の仮設木製施設と
その奥の健磐龍命(タテイワタツノミコト)社殿
一の神殿=健磐龍命タテイワタツノミコトがご神体
↓ 右後ろの奥が三の神殿 右中央端に二の神殿の屋根の一部


《一の神殿》



《二の神殿》

邪馬台国於いての卑弥呼に喩えられる、阿蘇氏部族長で、行く末を占う神通魔力を持つ、魅惑の女性。タテイワタツノミコトがその魅力に惑い、講和を決断し、娶った結果、阿蘇部族が稲作技術を学び一体で、《阿蘇稲作文化の国家》を創りあげた。
二の神殿→阿蘇都比当ス(あそつひめのみこと)がご神体

『アソツヒメ』と『大和の将軍タテイワタツノミコト』は、憎しみが、、何時か恋慕に。戦いの矛を収めて、二人は結ばれて、天孫国=大和国の米作り文化を。タテイワタツノミコトが伝授する天孫国の稲作技術が導入されて、高千穂の実(米)が、豊に稔る国家として、平和繁栄に繋がり、肥後の地一帯に稲作国家が繁栄し、肥後の阿蘇神社は二百社が各集落の鎮守の村神様として畏敬深く慕われて、阿蘇氏は、戦国時代まで武力を持つ豪族として続いた。現在は、諏訪神社の如くに、阿蘇神社として、~社の職に。

阿蘇神社に於いての、参詣して、成就する『御利益で第一』に挙げられるのは、『縁結び』です。阿蘇神社が肥後国一帯に、『二百社』の数を誇るのは、夫婦の神が、戦さの恩讐を乗り越えた『男女の縁』→『奈良大和の将軍 敵対 阿蘇部族の長』を大きく育て上げて、食料での諍いのない『平和で豊かな国』を創り、広めた歴史があるから。『男女のか細い赤い糸のような縁』でも、たぐり寄せる御利益。

       





《三の神殿》

   

三の神殿にはアソツヒメの父神である吉見の神国龍神




   


【阿蘇神社の歴史 縁起物語】

   

 神武天皇(かんやまといわれひこ)が東征を成し遂げて、四辺が山の奈良盆地に『大和』を建国する。(宮崎県高千穂町は棚田の景観が素晴らしい。地形的には、五ヶ瀬川が渓谷の底に流れていて、両側の河原がすべて棚田で、平地が少ない。)遠征天孫国部族は、奈良盆地こそ、「我々天孫国が持つ稲作技術の最適地」と決定する。
 神武天皇は、田を潤す”水”に注目する。水を上部の棚田から下部へ利用し尽くす水田の技術を生かす為、奈良盆地こそ『大和の国』を創建する最適地とし、神武天皇の東征伝説の完結地となった。  
 『天孫国』の故地の様子。
  『天孫国』の故地の旧跡は、古事記から宮崎県であると推定されている。宮崎県は、南北に細長く、西に進むと山間地がほとんどで、東に行くと海辺に出るが、三陸海岸の如くにリアス式海岸の絶壁が海へと落ちている。西の山間地から河川が海へと向かうが、小さなデルタ地帯を生むのみ、それが所以で、『天孫国』の稲作の国土は狭小になってしまう。 それこれで、神武天皇、高千穂大明神兄弟は、東の海、山の彼方に「希望、あこがれ」を抱き、『東征』の旅へと。
 未知のゾーンへの『冒険、開拓』で在る故に、壮健な男子婦女子が選ばれて、旅の足手まといの人々は、『天孫国』に残留し、稲作地を守る。 遙々と、『一年くらいで奈良盆地へ』。
  『高千穂大明神の活躍』
 ひ弱な国民残留の『天孫国』は、熊襲や、隼人の狩り場になり果てる。田の収穫を横取りされたり、畦を切られたり、と『縄張り紛争の戦さ』の奈落に落ちて行く。 大和建国に奮闘した、『天孫国兄弟』は、『かんやまといわれひこ』が『大和建国』、『みけいりのみこと』は『天孫国救出』に役割分担を誓い、『みけいりのみこと』は、日向高千穂に戻り、熊襲討伐の戦端を切る。  
  一般知見から検討すると、『熊襲』は、食料を採取狩猟で獲得し、生産活動を蔑み、奪い取る勇猛さを尊ぶ文化。(中央アジアの遊牧民は、羊に与える草を栽培しない。奴隷の『労働力』が必要になれば、他部族を襲う)。現在の日本人の赤ちゃんに蒙古斑が見られるのは、中央アジアの騎馬民族の遺伝子が注がれているため。九州の『採取狩猟生活部族』は、『縄文人』ではない。九州では、紀元前5000年くらいの昔に、『鬼界カルデラ大噴火』が発生しており、『縄文人』も、草や木も、全てがその火山灰に埋め尽くされた。神武天皇東征伝説の頃に採取狩猟生活をしていたのは、三韓と交流を深める大和朝廷を考慮すれば、中国東北部から渡った『騎馬民族』と推定される。日本人の遺伝子に、中央アジアの騎馬民族の遺伝子が注ぎ込まれる。蒙古斑の理由も説明が付く。『騎馬民族』と云いながら、馬を連れていない。神経質な馬を連れて海を渡れない。『騎馬民族』とことさらに云うのは、『狩猟生活』『生産活動を蔑み』『勇猛さを尊ぶ文化』→『武勇を誇る文化』  
 『天孫国危うし』と、神武天皇に報告が届く。
 大和建国が軌道に乗りつつある神武天皇は、その武力の一部を、『天孫国救出』に割く。岩壁の様な胸板を持つ屈強の若者=自身の孫に当たる『タテイワタツノミコト』を選び出し、兵を付けて日向高千穂へ『征夷大将軍』として送り出す。この派遣が制度として固定化して、『将軍』がやがて、大和の第一権力者となる。
 【阿蘇大明神「建磐龍命タテイワタツノミコト」が征夷大将軍】
  「建磐龍命」が大和の兵を率いて九州宮崎上陸 。リアス式海岸の山側に沿って北上、日向を経て、延岡から五ヶ瀬川沿いに西へ山を登ると高千穂の集落が在る。棚田の見事な高千穂集落を経て、北上し、阿蘇カルデラに集結する熊襲に襲いかかる。  勇猛な熊襲は、簡単には下らない。徒に年月が過ぎ、戦さに倦み、捕虜が徒に増える。
  「建磐龍命」は、在るとき、武力偵察に、高森を訪れる。高森での『熊襲』の生活の場は、阿蘇カルデラの鍋底の部分で、南外輪山の山上からは、集落が一望出来る。緑の山水がおだやかで、平和を醸す。  阿蘇氏は、『草原が輝く』地で『米の草』を栽培しないのか?将軍は、たたなつく大和の棚田景観を思い出されて、ホームシックに落ちて、感傷を抱く。里心が湧く優しい気性の将軍は、戦さを続けるより、憎しみを喜びに換える上策はないか?と思い始める。徐々に、思考が 集約していくのは、『何故阿蘇の民人は、米を作くらない。長草が繁茂するではないか?米草が繁茂しない訳はない。食料が確保出来れば、戦さは遠のく』    高千穂集落への帰途、誰かが噂していた湧水神水が湧くお社(草部吉見神社)の存在を思い出した。帰り着くまでの水補給が必要。道を迂回して、湧水を探すが、見付け難く、あてどなくさ迷うタテイワタツノミコト。  そうこうしている時に、素晴らしい邂逅が。その邂逅が『男女の巡り会い』となり、『大和の将軍』と『熊襲の姫部族長』の邂逅が、『捕虜の交換』の話し合いとなり、講和の手がかりとなったのか?やがて、『講和』→『大和の将軍の婿入り(初めは、人質かも?敵陣の只中に捨て身で晒して、『稲作技術、米作りの文化の平和、豊穣』を教えて、『狩りの勇猛』を捨てて、『稲の生産労働』へ文化の移行は、建磐龍命とアソツヒメの絆が余程強くないと完遂出来ない。『二人の汗』→『稲作文化の受け入れ』→『稲作開始』→『阿蘇一族に食料の紛争が消滅』→『平和、豊穣が続き』→『部族の民から”豊穣の稲作神”として祭られて→『稲作文化は肥後の国一帯に普及』→『肥後に阿蘇神社は二百社あり。肥後の鎮守の神様はタテイワタツノミコト』→『阿蘇神社』と云われています。

   


《元気に復興中の阿蘇神社門前町ストリートも楽しい》
   

 阿蘇神社門前町は、由布院の『湯の坪街道』や、『旧軽井沢メインストリート』の様な、テイクアウト食品を楽しみつつ、食事、お茶、趣味用品の買い物見て歩きで、リラックスタイムを過ごす場としての情報が浸透しつつあります。前二者の盛況にはほど遠いようですが、2012年の豪雨災害、この度の2016年大震災、その後の豪雨と、災害が押し寄せて、商店街振興会もノックアオトしたかと思いきや、災害以前の盛況に戻りつつあり、勢いは、復興真っ最中という感じ。


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