《熊本の石垣石橋文化》


  日々あれこれと思い悩み、焦燥の日々をお過ごしの貴方。一度、ためしに、熊本城の長塀通りをゆっくり散策なさっては如何でしょうか?
 ドッシリ堅牢な石垣の白壁が日々の焦燥を沈め、幾何学模様の繰り返しが、そこはかとなく、不思議なリズムに引き込まれて、疲れた心を癒します。
 『石工の情熱発見!アーチ状の石垣』の訪ね歩き。江戸の昔の情熱物語をまとめます。
 この石垣石橋の積み石の技術は、石工達の情熱が積み上がった歴史譚の結晶です。つまり、それは、阿蘇が噴出する溶岩が生み出した装飾古墳文化に繋がり、肥後古代の歴史を物語ります。熊本城を語るとき、帰化技術集団について語ってくれます。幕末の、近代黎明期には、薩摩と肥後の対立の歴史を物語ります。九州の文明開化の歴史について語ります。ピラミッドがエジプトの歴史を語るように、『石橋』は、歴史物語を語る黒子を演じます。


黒子は、まず、穴太衆を語り始めます。

《 穴太衆(あのうしゅう)についての章》

 穴太衆(あのうしゅ)とは、石垣を作る職人集団で、近江坂本辺りに古墳時代から知られています。大陸からの帰化集団で、石積み技術で近畿地方の古墳製作に活躍し、近江坂本に集団生活するようになったのは、比叡山の延暦寺等の諸寺製作のためで、織田信長が比叡山を焼き討ちした時、焼け跡に残る堅牢な基礎の石垣に驚き、石垣技術の確かさに感服して、安土桃山城の石垣造りを着想し、『穴太衆』に担当させました。完成後、信長は満足し、家来の諸侯に有料で安土城を見学させて、自慢し、自身の創造力を披瀝しました。以降、感服した諸侯は争って『穴太衆』の造る石垣を採用し、天下の名城の石垣は、穴太衆が関わるようになりました。(各地の名城は、1600年着工、1607年竣工が多く、穴太衆が各地に分散した。)
例 金沢城、大阪城、熊本城、二条城、江戸城、日光東照宮、、、、、。
 帰化技術集団は、この他にタタラ製鉄集団が有名です。(『もののけ姫』にも登場して、日本文化史での重要な位置を占めている事を示唆しています。)技術者集団では”ワタリ”という大工技術集団が有名です(静岡大学小和田教授)秀吉はこの集団の出身で、この人達の協力で、墨俣の一夜城を作ったという説です。秀吉は近江大工とも深い関わりがあるようです。

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黒子は、熊本城と、穴太衆の関わりを語り始めます。

《穴太衆の技術、阿蘇装飾古墳技術、朝鮮技術の融合》


 加藤清正は、日本の西端の九州熊本に、日本三大名城の一つに数え上げられる『熊本城』を築きました。近江から、城壁の基礎となる石垣積み石技術衆の穴太衆を召し抱え、阿蘇の積み石文化を習わせて融合し、朝鮮征伐後には、大陸の最新技術を織り交ぜて、『扇勾配、武者返しで名高い石垣の熊本城』を築きます。

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黒子は、話を本筋からそらして、お城の闇に伝わる”呪い”を語り始めます。

《名城のミステリー肥後と薩摩の厳しい国境》

 

 名城と言えば、数々逸話が付き物です。井戸が抜け穴になっていたり、埋蔵金が噂されます。築城後に、建設に携わった城の弱点を熟知する大工が抹殺されたり、無慈悲に暗殺された奥女中の怨念が徘徊していたりで、不気味で、おぞましい話が付き物です。勿論、熊本城にも井戸を地下道にして抜け出す秘密のトンネル通路のウワサは存在します。(地元熊本放送RKKが、捜索隊を編成して、城の北側の通路のようなトンネルを探索しています。しかし、興味深い秘密は解明された訳ではありません。そんなに簡単に闇が白日のもとに晒されては、『名城の機密』の価値がありませんし、、、。名城には、暗黒部の深みがあるから、陰影が興味深いし、そそられるし、底知れぬ奥行きを感じます。   熊本城が第一番に想定した『戦さ』は、太閤の遺児『豊臣秀頼』を擁護して熊本城に立て籠もり、家康を九州に引きずり込んでの『対徳川戦』です。『家康』を長い補給線の必要な、攻城戦で、持久戦を強いる。攻守共に莫大な戦費を費やす。その場合の軍資金としての積み立て、埋蔵金がありそうなものです。その戦費が何処かに埋蔵されていないのか?興味がそそられます。  また一方で、戦況不利と見れば、有明海に帆掛けて、ルソンアンナンへ一時退却を想定していないのか?海外で活動する時、頼りになる黄金が隠されていないのか?
その為の、ハット驚く、奇抜な仕掛けの痕跡がありそうなものです。(吊り天井や、廻り壁、隠れ部屋、秘密の武器庫、地下牢獄等)秘密の部屋に関しては、それ程大仰な仕掛けではありませんが、本丸御殿の『招君の間』が紛れも無く、『豊臣秀頼』を『太閤の君』として招き込む特別室である事は隠しようがありません。

 また、熊本城固有の血塗られたミステリーとしては、その虚実は別にして、山伏塚(やんぶしつか)という地名におぞましい過去が存在します。熊本城から約3Kmくらい北方の断層傾斜地にその塚は存在します。 清正は、熊本城完成後、豊臣秀頼の行く末の不安と、城そのものの不安を払拭するため 山伏を城に招き祈祷開運を祈らせました。そして、その後、『城の秘密』を守る為、山伏を暗殺したという逸話があります。
 (夜な、、夜な、、首の無い山伏、、が付近を徘徊、、付近は断層による急傾斜地で、竹薮が鬱蒼として、、ジットリした風が、、笹ズレがサラサラと、、、、、)。  石垣石積み技術にもミステリーの種があります。

 『キーストーン』の謎が招きよせる暗黒が謎の底の暗闇に誘います。石垣築城技術は、石橋技術にも繋がり、城下町と城域を繋ぐ”お堀に掛かる石橋”そして、その石橋の要石=”『キーストーン』に為政者の暗い思惑がチラチラと透かれて、覗かれて、敵の進駐を防御する『防衛橋』の謎”が人々の猜疑心を煽り、暗黒虐殺ミステリーへと縷々と繋がるのです。

『薩摩の石橋暗黒虐殺ミステリー』  閉ざされた、秘密を厳守する薩摩の暗黒虐殺ミステリーってどんな?  それは、、、。雄藩である薩摩藩から、”鹿児島城下の甲突川に石橋を掛けるように、仮想敵国の肥後藩の侍分の石工に発注されるのです。”要請された肥後の侍分、種山石工(たねやまいしく)の岩永三五朗が、薩摩の城下に立派な『五つの石橋』を完成させて、他に干拓用石造物を造り、現在もその功績を顕彰されています。現代風に喩えて表現するなら、ソ連のミサイル技術者を米国がヘッドハンティングしたようなものです。ありえない技術移転が行われたのです。そうした無理が祟る事件が発生します。『五つの石橋』完成後の、肥後藩の侍分の石工の消息が不明という話があります。 藩交通の要衝であり、城塁防衛の要所の石橋の秘密を知り過ぎているため、抹殺されたというのです。 防衛の要を、敵国の侍分の石橋設計者に企画させるなんて、甚だ危険冒険と思うし、完成後には、設計者に生きていて貰っては甚だ困る事でしょう。 藩内の政敵への思惑を洞察しても、『岩永三五朗』の頭の中の設計図は消滅させておかないと災いが生ずる。


『薩摩は深い闇の国』  薩摩と肥後の街道には、難所の佐敷太郎(峠にはよく人の名を付ける。赤松太郎峠、佐敷太郎峠、津奈木(つなぎ)太郎峠は総称して「三太郎峠」。「野間之関」が名高い、薩摩側管轄の関所。)があります。 出入り往来には厳しい目が光っていました。薩摩は二重鎖国と言われます。有名な、幕府の隠密、忍者、スパイ達である『薩摩飛脚』が往来したと囁かれています。関所は、現在の国境の比ではない厳しいものです。(箱根の関と同等か上、仮想敵国との国境というよりも、一時停戦ライン)幕府にとって一番恐ろしい藩は、琉球まで内密に支配している薩摩藩です。(現に維新で幕府を転覆させてしまいました。)”関が原の戦”の時、光成側についた薩摩、一方肥後の領主になる細川藩は譜代No1の徳川贔屓です。

 徳川幕府二百五十年間は、細川藩が薩摩島津藩を監視し続けました。薩摩鹿児島市中心街を流れる甲突川に掛かる橋、川の流量、道の仔細、地形、弱点。これらを詳しく熟知する、薩摩飛脚の隠密情報より価値ある情報を持つ最敵国の侍、肥後の石工岩永三五朗達は一体どうなったのでしょうか?鹿児島の石橋記念公園に三五朗の偉業が顕彰されていますが、、、、。(現在も、石橋の恩恵を記念顕彰するくらい価値ある建造物なのです。)

石橋記念公園・石橋記念館http://www.synapse.ne.jp/~kppfuki/ishi/index.html

 抹殺されたのでしょうか???”永送り”されたのでしょうか???
”永送り”生々しい表現ですね。遠い世界へ追いやられるのですね。

 この冒険とも思える石橋に拠る城下繁華街架橋政策を推進した人物が、『調所笑左衛門』で、茶坊主上がりの切れ者です。頭が良いから出世するし、深慮遠謀出来る知恵者で、藩政改革が委ねられる。競争者を出し抜く深い暗黒部を持った男が、『岩永三五朗』達の肥後帰国、行く末を保障するのか?、、、、後の話とします。


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黒子は、加藤家が54万石から1万石に改易、蟄居措置後の肥後の『穴太衆』の行く末を語り始めます。
櫓、天守閣の基礎石積み技術が、庶民の文化を支える橋脚建築へ飛翔していきます。

《肥後の『穴太衆』のその後→種山石工》

 

 話は、熊本城のおおまかな歴史年表と『穴太衆』の経歴を再確認いたします。 加藤清正は朝鮮出兵時に、秀吉の死を迎え、1600年『関が原の合戦』があり、世相の混乱を察して1608年頃熊本城を完成させます。朝鮮の石積み技術を取り入れ、近江の『穴太衆』の石垣構築技術、肥後阿蘇の溶結凝灰岩加工技術を融合して堅牢な城を築いたのです。(加藤清正という触媒を得て石橋、石垣構築技術が大きく発展します。)  清正は朝鮮の石積み技術を導入する事により”石塘”イシドモ(石で作った堤防→木の杭打ちではないので当時では画期的。白川と坪井川を分離。JR熊本駅近くに作る。石塘により、坪井川が深く掘り込まれて、城下町の水運交通と、内堀機能が確立した。(坪井川には、明治期、城下町部分に橋本勘五朗により明八橋、明十橋が架設されています。この二つの石橋も有名です。)
 熊本城の石垣の堅牢さや、防衛能力は、結局は江戸期には証明されず、明治10年の『西南の役』で証明されます。 (西郷隆盛を主将とする薩軍が、官軍が守る熊本城に挑まず、素通りして北に向かっていれば、不平士族を糾合しつつ膨れ上がっていってたのに、難攻不落の熊本城を攻撃したため、維新政府軍側に、米国南北戦争後の用済み銃砲大砲類の補給の時日時間を与え、敗戦に至ります。) 維新の巨魁=西郷隆盛は、築城で名高い名将加藤清正に挑み、堅城の守備能力に完敗します。
 加藤家の穴太衆は、家老飯田覚兵衛配下の身分の時に加藤家改易に遭遇します。そして、熊本在住石工集団(穴太衆)として独立し、町人の戻り、阿蘇の石材加工石工と融合していきます。 穴太衆は石工集団『仁平グループ』と呼び名が変わります。
 加藤家を離れて嘉島町上島に本拠を置き、棟梁『仁平』の時代に鹿北に移り住みます。
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長崎の、中島川の石橋

黒子は、本筋の石橋(木造りの橋脚の脆弱性に取って代わって)の歴史整理して、要約を語り始めます。

《日本での石橋の歴史》

棟梁『仁平』の活躍が始まります。

 ローマで考案された石橋の設計技術が、シルクロードを経由して、中国人僧侶、興福寺住職・黙子如定により長崎に伝えられて、日本最古のアーチ型石橋群、中島川石橋群になります。長崎観光は、雨の坂道石畳がロマンチックで、水に映る眼鏡橋が幻想的。  そして、その技術は、隣国肥後の石工に強く影響し、石橋への憧憬を湧出し、石工集団『仁平グループ』の活躍を惹起します。『仁平石橋グループ』の石橋技術は、『肥後穴太衆』の遺伝子から生まれ、中国風石橋を肥後各地に残し、200年後の江戸末期明治初期に、長崎を逃亡した『藤原林七』率いる『種山石工グループ』に拠って飛躍的に進化します。

帰化技術集団『穴太衆』が近江坂本で活躍し→加藤家1万石に改易後、士分を離れた石工集団『仁平グループ』が、築城石垣制作から石橋制作に目覚め→長崎で欧米文明技術に目覚めた『藤原林七』が隠れる里が、肥後石橋技術が眠る『種山』で、『種山石工グループ』の石橋技術が創造、練られる。そして、『通潤橋』で大成を見る。
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黒子は、棟梁『仁平』の活躍を語り始めます。

《石工『仁平グループ』》


棟梁『仁平』は、長崎に遠征、留学して、興福寺の唐僧『黙子如定』(もくす にょじょう)禅師が架設した数々の中島川眼鏡石橋を研究します。 

 石工『仁平グループ』は長崎で中国式石橋の技術を習得し、帰郷後、黒川の眼鏡橋や門前川橋(御船町)などを造ったといわれております。

例示 黒川(阿蘇カルデラ内の北側を流れる)眼鏡橋(美しいが昭和の洪水で崩壊)、植木町豊岡橋、御船町門前川橋

門前川橋

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黒子は、200年の石橋技術の『目覚め』を語り始めます。

《種山石工集団=藤原林七グループ》

 藤原林七の代表作 『鍛冶屋上橋』 『 鍛冶屋中橋』 『鍛冶屋下橋』(八代市東陽町)

 西欧の異文化への狭い窓口『長崎奉行所』は、興味深い、不思議な『物語』が当たり前のように起こるところです。   
 物語のヒーローは、『藤原林七』と言います。長崎奉行所に勤めていた下級武士です。古来の『穴太衆』の石垣技術を飛躍的に進化させて、現代建設技術に劣らない石橋建設技術に革新確立します。
 『藤原林七』は、江戸幕府行政機関としては一風変わった『長崎奉行所』の下級役人として奉職します。『長崎奉行所』は、佐賀藩や、島津藩の文明開化の触媒として機能します。そして、下級役人にも作用し、科学変化を生み出します。下級役人『藤原林七』は、勤務の傍ら、長崎中島川に掛かる眼鏡橋に魅せられます。水に映る石橋は美しいし、杭の無い橋梁の力学が不思議です。知識欲は、ご禁制への恐怖を忘れさせます。ご法度のオランダ人との接触を図り、石橋力学の基礎『円周率』を習い覚えます。ところが、ご法度犯しは発覚露見します。死罪を恐れて、『藤原林七』は有明海を越えて、肥後種山村(八代市種山町)へと逃れて隠れ暮らし、やがて、肥後穴太衆の石工集団『仁平グループ』の残した『石橋』を知り、詳細を調べます。(証拠、資料はありませんが、石橋に共通点が多く、異質が少ない。)『藤原林七』が試作した 『鍛冶屋上橋』 等は、肥後古来伝承の『仁平グループ』の石橋とそっくりで、石垣技術を補完、革新したものとしか思われない。長崎奉行所関連に、シーボルトや、オランダおいねの医学関連技術進化の話は良く伝わりますが、建設技術関連は『藤原林七』の話のみのようです。

 工夫改良を加えられた石橋技術は、代々種山石工の奥義とされました。そして、この物語の『藤原林七』の孫にあたるのが『橋本勘五郎』です。橋本勘五郎は種山石工集団(八代郡東陽村)のエリートです。祖父の林七が、習得した『石橋の謎』(キーストーンの謎。城下での戦闘を予想して、瞬時に橋を崩落させる技術。)は『藤原林七』→『岩永三五朗』→『橋本勘五郎』と継承され、新田開発の治水樋門工事や、用水路、農業用水用石橋へと発展継承されます。

 鹿児島薩摩の五石橋(玉江橋、新上橋、西田橋、高麗橋、武之橋の5つの大きなアーチ石橋)熊本の霊台橋、通潤橋、緑川石橋群等には、”熊本城の武者返し”と呼ばれる、扇勾配=裾流れの曲線→崩れやすい地盤に踏ん張る機能が、アーチ型の曲線美を演出しています。石淵縁の織り成すアーチ曲線が不思議な調和感を醸す。


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黒子は、『八代干拓の父、薩摩石橋の父、水路橋の父』岩永三五朗と調所(ずしょ)笑左衛門を語り始めます。

《岩永三五朗と調所(ずしょ)笑左衛門の物語》

 幕末の名工、肥後石工の始祖の『藤原林七』と明治レトロ石橋の集大成者の『橋本勘五郎』の間を繋ぐのが、『岩永三五朗』です。『岩永三五朗』は、名付けるとしたら、『八代干拓の父、薩摩石橋の父、水路橋の父』。歴史的評価では、橋本勘五朗と並び称されます。橋本勘五朗の義理の父にあたります。この『藤原林七物語』ではバイプレイヤーのようですが、鹿児島に語り伝わる話としては、『岩永三五朗と調所笑左衛門の物語』の方が重要視されています。

 『岩永三五朗』は、林七の娘を嫁にしましたが、石工集団としては野津(のつ)石工で、現在の八代郡鏡町あたりの住人です。(八代干拓地の樋門付近)
 薩摩鹿児島の甲突川に掛かる、玉江橋、新上橋、西田橋、武の橋、高麗橋を制作しました。
  それ以前に八代の樋門干拓工事の功績で、岩永姓を許され、士分扱いです。
 雄亀滝橋〈おけだきばし〉→農業用水水路橋も制作。

 岩永三五朗は薩摩で歴史的偉業を残しました。『薩摩五石橋』の他、数々の石橋を残しました。岩永三五朗を発見、発掘し、薩摩へ招聘した人物が家老の『調所笑左衛門』(ずしょ しょうざえもん)です。
『岩永三五朗と甲穴川石橋の物語』を講談調に、盛り上げて呉れる人物です。
浮世の実理に聡くて、明暗取り混ぜて 曰く付きの人物で、”薩摩おゆら騒動”の影の首謀者と成ります。”茶坊主出身”というのも仕組まれたような配役、出自設定ですね。茶坊主という職柄は、藩の内向きの財政政策の裏を知りながら、口出しが適わず、黒子に徹します。『調所笑左衛門広郷』は、黒子の役柄を演じながら、そこから脱し、家老に抜擢されてからは、藩政の無駄を節減します。財政改革を成し遂げた人物ですが、藩主の世継ぎ問題にも口を挟んだ人物です。(仕事も出来たが、敵も多い。秘密を厳守しようとする総責任者。甲突川に掛かる五石橋は、鹿児島城下の要路。)

 この策士、調所笑左衛門が、肥後の名工で武士待遇の岩永三五朗の噂を聞きつけ、甲突川への架橋を考えます。 石橋の特徴は、少々の大水では崩れませんし、なにより、橋を落として城に篭城する時、”石積みの謎、キーストーン”を破壊すると、不思議千万!手も無く橋を崩壊させる事が可能なのです。 調所笑左衛門は、考えました。堅固で有益な石橋を作らせて、城下の荷役、人事往来を活発にし、商業を盛んにし、万一、戦さの時は、すぐに橋を破壊し、敵の侵入を防ぐ。同じ火山灰地質で練り上げた肥後の石工の積み石架橋技術は、甲穴川を『お掘り』として生かし、薩摩を守り育てるに違いなしと。

 そして、”石橋の謎”の秘密は厳重極秘にして置く、、、と。肥後の石工達は”永送り”(抹殺)しよう、、と。
 史実では、『岩永三五朗』は、無事八代に戻っております。その後、半年で生涯を閉じております。下種の勘ぐりで、毒殺?ではないのか?と疑います。

 薩摩に旅たつ以前に、岩永三五朗は、郡代の不破敬次郎、庄屋の隅丈八等の依頼を受け、”雄亀滝橋”(初めての水路橋)を六年がかりで完成させました。この石橋は、『種山石工』の技術の集大成である『通潤橋』の送水管が橋体の中を通って居るのに対し、上面が水路のみの、通潤橋に比べて単純な構造です。

 郡代が関与したとはいえ、肥後藩自体は水路橋建設に一切資金を出していません。この頃肥後熊本に完成している往来橋や、水路橋は、庄屋が計画して、人足として農民が奉仕し、庄屋の私財が投じられました。
石工自身も仕事に対する情熱で取り組み、完成する『石橋』の堅牢で重量感豊かな姿を思い描いてモチベーションを高めた様子が窺えます。『男の夢の城』が藩抜きで実現します。権力の関わらない『庶民の名城』です。

 白糸大地の庄屋 布田保之助も”雄亀滝橋”の水路を流れる冷たい水を飲みながら 『男の生き甲斐バイ!!』と心に決めました。兎に角、こんな立派な水路橋を作る親方に、百姓の心意気を伝え、将来きっと、自分の村にもこの水路橋よりも立派な水路橋を作ってくれるよう談判しました。此処よりも何倍も水を必要としているのが、白糸大地である事。何倍も難工事であろう事。若い情熱は、岩永三五朗の職人魂を打ち、快諾をしましたが、薩摩藩からの要請の仕事の事もあるので、後での話しと言うことになります。

 実は、この時、薩摩の調所笑左衛門から、甲突川の架橋についての相談が岩永三五朗の所に来ていました。 肥後に在住する岩永三五朗にとって、薩摩は恐ろしくて、遠い所です。肥後藩の思惑も心配です。甲突川架橋を引き受ければ、義父の藤原林七同様に、『お上の思し召し』に逆らうのではとの心配をしなければなりません。しかし、職人魂は自信の保身を顧みず、大仕事に向かうように命じます。

 岩永三五朗と布田保之助の約束は果たされないまま35年が過ぎ去りました。岩永三五朗は、一つ、一つと橋を完成させていく度に、調所笑左衛門との付き合いが深まり、その人となり、笑左衛門の行政能力の非凡さ、実行力に感銘します。しかし、その深慮遠謀には、ある種の恐怖を感じます。『掘割を精緻に知る己は、幕府すら恐れる薩摩藩の機密を知りすぎているのではないだろうか?』『職人技術者は、歴史を覆す機密を知り過ぎて仕舞う。義父の藤原林七同様に、権力を握る者には危険視されるのでは?』


 石橋は不思議な力のバランスで、頑丈に出来ています。石自身の重みで対岸と繋がっています。昔から、石垣や石橋には魔術のような仕掛けが在り、一石(キーストーン)を外すと崩壊すると言われています。薩摩にとって、一石の秘密を知る棟梁の三五朗は、橋完成後は生きていて欲しくない存在です。日々を重ね、5つ目の橋の目途が着く頃、身の危険を感じつつ、し残した白糸台地の水路橋の事も気懸かりで、甥の橋本勘五郎に手紙を書き、布田保之助の心意気を伝え、自分の仕事の完遂を依頼しました。

(三五朗が橋本勘五郎に手紙を書いたというのは創作ですが、三五朗が肥後に戻って、通潤橋制作に関わっていないのは事実です。通潤橋は台地から台地へ、谷を越えて水を渡す歴史的な荘業で、新しい工夫や技術を取り入れる必要のある大難工事です。石工岩永三五朗としては自身で完遂したい仕事です。)岩永三五朗は、通潤橋制作を布田保之助に約束したまま、薩摩で殺されたか?身を隠したか?橋本勘五郎の裏から指揮したのか?(職人故に、影から影へ消されても歴史には残らない)

『橋本勘五郎』の思い
 石工である限り、天下一の石工である限り、やがては日本一の、石橋技術の集大成の水路橋を作ってやろうと橋本勘五朗も考えていました。
 人事の往来の用に役立つよりも、農業用水の往来の便を図る方が、生産的で、価値を生み出し、人の営みにおいて重要な事柄である事を認識していました。この大掛かりな水路橋は数々の技術的困難が予想されました。大水量の往来の際にたてる振動は、石の接着を破壊します。土砂の蓄積も大問題です。(現在も、ダムの土砂堆積問題が解決されていない)生涯一の大仕事が、通潤橋の制作です。庄屋の布田保之助の熱意も素晴らしく、義父の依頼を果たす責もあります。石の接着は、ニカワ、松脂等の混合比率を試行錯誤しました。土砂の蓄積は、中ほどに放水口を作り、時たま放水する事により、水流と共に土砂を排斥する事で解決しました。

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黒子は調所(ずしょ)笑左衛門がフィクサーとして糸を引いた『薩摩のおゆら騒動』を語り始めます。

《調所笑左衛門が首謀者の『薩摩のおゆら騒動』》

 ”おゆら”は江戸の市井の人です。小股の切れ上がった小町娘で、(江戸の三田四国町の大工の娘。斉興の下女として仕えて愛妾になります。)、薩摩の殿様が籠で往来中に見初めた女性です。側室にすると、見事に、子(島津久光)を成します。(その久光は、息子を29代薩摩藩主忠義とし、自らはその後見人となった→鹿児島藩藩主の「国父」久光です。幕末の賢公として、明治維新政府が成立する以前の一時、旧体制の維持派賢公政治をリードしました。

 久光(ひさみつ)と斉彬(なりあきら)
 斉彬は、幕末の当代第一の英明君主です。(西洋文明を積極的に薩摩に取り入れ、日本一の開明藩を創り上げます。製鉄・造船・紡績、大砲製造、洋式帆船蒸気機関船、武器弾薬、食品製造、ガス灯の実験などの事業を起こし、現在も、磯庭園隣に『集成館』として展示されている。膨大な財費も消費した。)
 久光公と斉彬公の『世継ぎ争い』が”おゆら騒動”です。明治維新を成し遂げた「維新の三傑」の二人『西郷 隆盛』と『大久保利通』を、登壇する以前に歴史の舞台から消滅させていたかもしれない薩摩藩の大騒乱です。

 調所笑左衛門は斉彬(なりあきら)が嫌いです。折角、『茶坊主が500万両に及ぶ借金を踏み倒した。』と悪態をつかれつつ、心血を注いで立て直した藩財政金蔵を、斉彬(なりあきら)襲藩の場合は、又々空っぽにしてしまいそうです。”おゆら”の生んだ、久光(ひさみつ)なら自分が巧くコントロールして、堅実財政で治世して行けます。”おゆら騒動”の結末は、幕府が、斉彬側の通報により、鹿児島藩内政に介入し、『調所笑左衛門』を江戸城で詮議し、彼の服毒自殺で終焉に向かいます。そして、斉彬襲藩→篤姫ご成婚へと向かいます。

 ”おゆら”に関しては、落語にある次の話は、講談あたりから落語になったようです?
 江戸の下町を行く小股の切れ上がった生娘が、籠で行く殿様の目に止まります。純朴な薩摩隼人の殿様は神田川で参湯を使った江戸娘の小粋な風情に魅せられ、下女奉公、妾奉公を所望します。家老はさっそく手配し、江戸の生娘は下女奉公をする身となり、出世します。やがて、殿の手が付き、可愛い子を成します。殿は大いに喜び、子宝を成した”おゆら”の『兄の大工の与太郎』に百両を賜る事になります。与太郎は、拝謁するのに羽織一枚も持ちません。大家は、羽織を貸し与え、即席の拝謁作法を『馬鹿の与太郎』に教えます。住む世界の違い、常識の落差が笑いを呼び、『与太郎落語』の代表作です。江戸っ子娘の出世話が落語として残っています。

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黒子は、話が終焉に近付いたので、往来橋の『霊台橋』の説明も、語り始めます。

《『霊台橋』 重要文化財》

 所在地:熊本県上益城郡美里町 橋巾 日本3位の 道幅5.45m 高さ16.32m 全長89.86m 高さ16.32m  



 霊台橋は通潤橋より少し時代が古い。岩永三五朗達が薩摩の石橋に関わっている内に、次世代のグループが育っています。霊台橋は、卯助(橋本勘五朗の兄)が1847年、時の庄屋「篠原善兵衛」の要請で、清水地区と対岸船津地区に架けたものです。卯助は、卯市、丈八=橋本勘五朗、甚八等といっしょに、岩永三五朗に連れられ、薩摩に出張っていますから、岩永三五朗の計らいで、殺されて技術が失われないように、主だった石工を序々に、目立たぬように帰国させたのでしょう? 霊台橋は卯助(橋本勘五朗の兄)が棟梁として、制作されました。

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黒子は、往来橋であり、水道橋であり、石垣石積み技術の最高峰であり、江戸と明治のレトロチック感傷建造物のナンバーワンの『通潤橋』を語り始めます。

《通潤橋 重要文化財》

所在地:熊本県上益城郡山都町 全長:79.64m、橋上面道幅:6.65m 橋体の中に3本の水路石管と、側面に3つの放水口 橋高:21.43m
 敢えて私称すると『村民と石工の名城』
  『放水』は、通潤橋名物となっています。田植え時期以外の、日祭日の12時に、15分間放水があります。(団体バスが平日にリクエストする場合、有料で放水する場合があります。)
 石垣石橋建造物技術の集大成の結晶です。現在は、橋造りはコンクリートで簡易化されてしまって、石工は、お墓くらいしかつくりません。故に、通潤橋石橋は『手作りの情熱』が結晶していて、『情熱の発見』が容易で、爾後、作られる可能性はほとんどないから、末代まで受け継ぎたい文化遺産として貴重。
  『通潤橋』には、棟梁『卯一』と刻印があり、『卯一』と『卯市』は表記が違うだけで同一人物で、『卯市』の右腕として、丈八=『橋本勘五郎』の工夫があったものと思われます。

 熊本県は 日本一装飾古墳の多い所。溶結凝灰岩が多いところ。溶結凝灰岩は、サイコロ状に石を加工し易い。 高千穂峡の阿蘇溶結凝灰岩の柱状摂理を見ても、石加工の文化が豊かな『石橋、石垣文化の高揚』が頷ける土地柄です。  以前、このサイトの掲示板に『タクシー運転手です。以前、観光客を案内していた折に、”熊本は『火の国』と言われますが、なぜですか?”と問われ、予想しなかった質問内容に、簡単に説明出来ると高を括っておりましたが、実際は返答に困った事があります。』と言う書き込みがありました。
 私のレスポンスは、『簡単な様で、上手く説明するのは難しいのかも知れません。肥後の(ひ)と阿蘇の火口の(火)、阿蘇神社の火振り神事(火)、不知海の不思議の(火)、神々の里の夜神楽の(火)、火に深い関係があるからと理解していましたし、そのように説明しています。でも、私の説明では、その後があり、火山は何処も、素晴らしい湧水が在ります。特に、熊本市は人口73万人都市で、99%の飲料水、水道水は地下水から作ります。地名にもほとんど『水』が付きます。火の国を前面に押し出すより、水の国を押し出すほうが、観光客に受けます。』というものです。 このページを編集する過程で、熊本は、石の国と言うのも付け加える必要を感じて来ました。

  最後に 一般に流布している『観光の誤解』について。 大量生産、大量消費の浮世です。観光も、激安が追及されています。観光こそ、激安を排し、『手作り』を尊重するべきです。『手作り観光案内』には、『情熱の発見』が豊富です。観光の商品は、形がありません。『思い出』と呼ばれる『ある時間の経過の記憶』のみです。バスツアーの様に、『安さ』に惑わされると、『癒され、感銘の多い時間の経過の記憶』への期待が裏切られて『ガッカリな時間の経過の記憶』のみとなってしまいます。『タクシー観光案内』は、バスツアーよりは出費が多いのですが、ガッカリの裏切りが無いように、『癒され、感銘の多い時間の経過の記憶』を大切にタクシー観光の仕事を完遂したいと思います。英気の回復を期待されるビジターの皆様、『石橋探訪』に興味が湧きましたでしょうか?『村民と石工の名城』という表現は、馴染まないでしょうか?


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