熊本城内天守閣、櫓、櫓門の配置図(本丸御殿完成時の説明看板の写真を加工)
城内観光用の『二の丸駐車場』は、『西大手門』西です。(写真は、北が上) 『二の丸駐車場』の南下に、『城彩園』が展開。



  熊本城は、江戸時代から今日まで、時代が変遷し価値基準が激変する中、『日本三大名城の一つ』と言う栄冠を保持し続けます。『普遍的名城』を鑑賞するポイントのヒントを情報発信します。
 本丸御殿 H,20年4月に完成。城域周囲 5.3 Km(東京ド−ム21個分 創建当時周囲 9km)の規模。威容は、『城塞』と表現した方が正確です。 築城の名人(『名城と名高いものは、加藤清正が作った城か、藤堂高虎が作った城』とされています。)の加藤清正が安土城、大阪城の城郭建築の集大成を企画、実現、結実したものです。籠城用非常食確保の目的の為に、銀杏の木を多く植え、創建当時銀杏が目立ったので『銀杏城』と呼ばれます。現在、銀杏は数本のみ。大天主、小天主の黒壁が黒々として美しいので、『烏城』とも呼ばれましたが、松本城が『烏城』と呼ばれますので、現在は、一般的には、『銀杏城』と呼ばれる方が主流です。 (名古屋城の天守閣も、幕府下命による大名普請担当は清正)清正は、農業土木の治水工事、田園開発にも関心が深く、手腕を振るい、その功績は『せいしょうこう様』と神様扱いされる程で、武田信玄と並び賞せられます。(「実務叩き上げ現場精通設計技術者」である性格上、机上立案型財務経理担当の石田三成と軋轢を生ずる。)清正、信玄の二人の武力の実力は、田園土地管理能力に負います。治水工事,石塘,武者返し=石垣の扇勾配,鼻ぐり,本妙寺、八代海開拓は『加藤清正』の検索のキーワードになります。


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赤線『→』矢印を追って進入下さい。本丸御殿下の『暗がり通路』を通ります。熊本城は、『暗がり通路』を経由しないと本丸に到達しないように設計されています。




《熊本城観光 見て回るルートの手本》


 オーソドックスな熊本城観光の場合は、※『二の丸駐車場』に車を置き、※『頬当御門、(正門と解釈して下さい)』から入城し、下記の要所を廻る。
※『数奇屋丸』お茶会等の催事を行う広間
※『宇土櫓』(江戸時代の庶民は、『第三天主(だいさんてんしゅ)』と呼んでいた)は、創建当時のままで、焼失をまぬかれた天主閣です。(他国の中小の城閣では天守閣規模のもの。)木造だから、床、階段等は趣があり、頂上階の見晴らしが感慨深い。
※『飯田丸五階櫓』平成17年完成。釘の頭も、木質部の乾燥後に打ち込むとの事。こちらも、他国の”お城”なら天守閣規模です。
※『本丸御殿』は、平成19年2007年12月完成、08年4月20日に公開です。本格木造。鉄筋コンクリート部分は無い。清正の執務御殿。【招君の間】の障壁画【王昭君が琵琶を手に、騎乗、匈奴に嫁す図】は、京都伝統狩野派絵師の粋を集大成した貴重なもの。
※【暗がり通路】この御殿への通路は、往古は、此処だけ。加藤清正執務御殿下を通過しないと本丸に行けない構造になっていた。
 熊本城の見た目で解る特徴に、『大天守』、『小天守』の”1っ対”の天守閣を言う人もいます。
『大天守』の展示物には、各時代の当主や、熊本城骨格ミニチュア、ジオラマ、細川家寄贈の文化品展示、日本全国の天守閣の写真、西南の役の資料の展示があります。西南戦争に関しては、加藤清正と西郷隆盛の、二人の英雄の、”熊本城を廻る戦略”をあれこれと思い巡らし、時間、次元を超越すると興味が募ります。  当時は、最新式鉄砲が、火縄銃→檄鉄式発火→玉、火薬先込め式→玉、火薬元込め式→玉、火薬一体薬きょう式→ウィンチェスター連発式と劇的に変遷し、米国南北戦争終焉後の余剰兵器の再販売先にもなり、官軍は、対外負債を連発した。  兵力の半分を熊本城攻略に割いた西郷。守り抜いて、堅塁を証明して見せた清正の熊本城。西郷には、反政府を貫く意志が希薄過ぎるのでは?政府官軍側に時間を与え過ぎでは?アメリカ南北戦争後の新製品の鉄砲の実証性能は?西南戦争という実戦は、江戸期築城の城郭の中では、熊本城が唯一その堅塁を証明した、、あれこれと想像を廻らせながら、、。

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『日本三大名城』という栄冠 どんな基準で選ばれたのか?


  『日本三大名城』と評価する格言は、どんな基準で選ばれたのでしょうか。この言葉は、どうやら江戸時代からあるようです。 この「根拠」を解析していくと、《熊本城の観光的価値》もあぶり出されてくるのでは?、、、、とまとめてみました。熊本城を訪問した際の、思い出、イメージための「照準、基準、見どころ」と一見下さい。(ネット、新聞、聞きかじり、クチコミを総合して、まとめてみました。 1,江戸古来の評価が基準に 2,美しさ、「華麗さ」3、大きさ(天守閣の高さ、城域)4,国宝指定、骨董的価値 5,観光的感動の大きさ 
1,【『三大名城』江戸古来の評価が基準に】  
この時の基準は、「美しさ」「防衛機能」「大きさ」「城作り名人の加藤清正、藤堂高虎が関わったかどうか?」であったようです。 ネット検索より、、、『三名城とは、江戸時代初期、城作りの名手と言われた加藤清正、藤堂高虎によって普請が行われた城のうちの、「名古屋城」、「大坂城」、「熊本城」の三城を指す。両者が普請した城のうち、特に機能美にあふれた城を指している。最も優れた城は江戸城とも言われているが、江戸城を別格扱いとし、それに次ぐ三つの城を挙げている。近年、姫路城をこの中に入れようと言う向きもあるが、姫路城は池田輝政の手によるので、本来の三名城の意味からはそれる。』
2,【天守閣の美しさ、「華麗さ」が基準に】
ウキペディアでは、「日本三大名城は、熊本城、姫路城、松本城」です。 この基準では、天守閣の「華麗さ」がメインで、その「大きさ」「高さ」は基準としては薄いようです。(このウキペディアの基準の場合では、熊本城の宇土櫓が第三天守閣と見なされて創建当時の、木造土壁天守閣である事を評価しているのかもしれません。) で
 3,【天守閣の「大きさ」「高さ」「広さ」が基準に】
「高さ」
この場合の『日本三大名城』は、「大阪城」54,8m、「名古屋城大天守」48.27m「熊本城大天守」32m (高さは、計測基準面の置き方で変化する。)

「広さ」
【現在残る城域が基準】 数字では表わしにくい、、、が、、熊本城が断トツのような、、、。 創建当時周囲9Km
廃藩置県後も九州鎮台として大方が残存。それを、旧日本陸軍が継承。現在周囲7Km 東京ドーム21個分

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4,【国宝指定、骨董的価値を基準に】
 現在、国宝指定の城は、兵庫県姫路市 「姫路城」(世界文化遺産). 滋賀県彦根市 「彦根城」. 愛知県 「犬山城.」 長野県松本市 「松本城.」です。国宝指定の城は、国が「次の世に受け継ぐ宝」だから、大切に守るモノというお墨付きを与えたもので、創建当時の、木造土壁の天守閣が現存する城です。『国宝指定』とは『骨董的価値』の部分を評価したものです。「美しさに感動する、規模の大きさに心躍る、整然とした雄姿に心打たれる、沸々と歴史物語がイメージ出来る」という感じの基準は、二の次になる。熊本城が国宝指定にならないのは、名古屋城、大阪城と共に、天守閣が鉄筋コンクリートだからです。 《熊本城》(西郷軍の総攻撃2日前、1877年(明治10年)2月19日、失火 消失)《大坂城》(風化により、1931年に再建竣工、鉄筋天守の一号)《名古屋城》(S.20年焼夷弾命中)の天守閣は、鉄筋コンクリートによる再建天守です。(明治には、廃藩置県に依る廃城、旧藩体制のシンボルと見なされる天守閣が破壊された。太平洋戦争に依る空襲等の時代の嵐を経過している。木造土壁の創建当時からの天守閣が健在なのは、上記国宝四城を除くと、弘前城、丸岡城、松江城、備中松山城、丸亀城、宇和島城、高知城、松山城)
5,【観光的感動の大きさが基準に】
 クチコミ、聞きかじり、巷間の噂話としては、「熊本城」、「名古屋城」、「姫路城」が『日本三大名城』である、と耳にする機会が多いようです。この場合は、バスツアーで企画、立案して集客に耐えるベストスリーという感じで、一般的観光客の関心が強い「お城」という感じですね。キャッチフレーズが奏功しています。「武者返しの熊本城」「世界遺産、白鷺城の姫路城」「金の鯱、尾張名古屋のお城」
以上、熊本城は、どの基準でも三位までには入賞しております。『日本三大名城』巡り、名城探訪には欠かせない旧跡です。

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《熊本城の沿革》

『国の特別史跡』

 阿蘇の伏流水がいたるところに噴出する湿原を、河川土木工事で蘇らせて、米作生産の出来る地域を確立し、そこに城下町(熊本市)を作り、熊本城を築きました。           
西南の役で、大、小天守閣等は一度焼失し、再建されています。(宇土櫓は築城当時のままで、焼失をまぬがれています。”櫓 やぐら”というより”天守閣”の風格がある)  
 西南の役の資料の展示があります。因みに、名城のひとつ、名古屋城の天守閣も、幕府から清正が下命された大名普請により、築城されたものです。  
 修学旅行等向けの”頬当御門”からの入城(いわゆる正門)は、最大公約数的観光に陥りやすくて、ありきたりになる。『名城ファン』『城に薀蓄、拘りを持つ方』は、市役所前の”須戸口門”からの入城がお勧め。須戸口門からの入城は、名城の奥行きが満喫できる。アップダウンが激しくて敵兵感覚で、グルグル歩かされる。”武者返し”の石垣散策が楽しめる。
 加藤清正は、1601年頃から隈本城の改築に着手し、1608年に熊本城を完成しました。坪井川を内濠とし、白川と井芹川を外濠に、周囲約九Kmの規模で、七層の大天守(天主、天守閣 →これは、信長が安土城に作った物が始まりといわれます。自分を天主、ゼウス――キリスト教の神と同格とする気概と天下布賦の志を表したものといわれます。)と五層の小天守をはじめ、四十九の櫓ヤグラ、十八の櫓門、二十九の城門を構えた堂々の大城郭でした。  なお、宇土櫓は宇土城(キリシタン大名で有名な小西行長の築城)の天守閣を移築したものと伝えられています。
 本丸御殿(本格木造で、鉄筋部無し。残存する資料から復元。)には、「招君の間」と呼ばれる部屋があり、もし秀頼を擁する豊臣方と徳川方が手切れとなった場合、清正は、『豊臣秀頼』と言う『君』をこの城に『招じ』、徳川方と一戦交える覚悟である事を宣言しています。
 この城の石垣は、「武者返し」に成っていることで有名です。裾の勾配はゆるやかで、たやすく登れそうですが、登って行くにつれて急峻になり、石垣が頭上にかぶさってくるような構造を持っています。この独特の反りは創建当時から『清正流石積み=武者返し』と言い伝わり、造形的な気迫が賞賛されています。
 城内には、銀杏が多く、畳床を里芋の蔓で作り、壁に干瓢を塗りこめ篭城に備えたといわれます。(少し観光用に盛った感じで、現在はあまり観光案内には語られない。)
 熊本城築城の費用ですが、農民から搾り取るのでなく、対ルソン、アンナン貿易に依るため、清正人気が更に定着します。

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《加藤清正の人となり》

 加藤清正は加藤清忠の子として、尾張中村に生まれます。幼名を虎之助。幼いころに父を亡くし、母が豊臣秀吉の母親と従姉妹の関係で、秀吉子飼いの武将となります。その後、賎ヶ岳7本槍に数えられるなどの戦功をあげ、3,000石に加増されます。  1585年、秀吉の九州征伐に従軍。佐々成政が肥後国を没収されたため、1587年肥後半国二十五万石を与えられ、熊本城主となります。”隈本城”を”熊本城”に、名称も変更します。片田舎の湿地帯村落の隈本が、肥後の中心地、勇猛な熊のイメージの”熊本”になります。  文禄・慶長の役では、朝鮮の二王子、順和君・臨海君を捕らえるなど数々の戦功を立てます。朝鮮出兵では、清正の報告と実態が違うことを、石田三成が、秀吉に報告したため、蟄居させられました。光成とはこのことが原因で険悪になります。  関ヶ原の合戦では家康方につき、役後肥後全州五十二万石への加増となります。(実質は清正が、関が原の合戦開戦直前、光成方の小西行長の宇土城を攻め滅ぼしたもの)  加藤清正は、治水、築城技術に優れ、武田信玄とともに名高い土木工事技術者で、白川、坪井川、緑川を石塘や清正堤等の治水工事で洪水をみごとに管理し、頑固な肥後人を感服させてしまい、佐々成政が失敗するほど地侍=国人が固執して難治といわれた肥後の国をみごとに統治しました。清正の工事が無かったと仮定すれば、今も、”隈本”という湿原地域が展開していたかもしれません。  加藤清正の”政治力”の実力の本質は、河川管理等による石高増産と、地侍を統治した経済的実力です。信玄とともに、戦継続の必需品『米』生産による経済的実力と、その統治への信頼感が当代一だったのです。
 肥後には、他国から最新農耕技術を移植して、民百姓の生活を潤わせて感謝されて、神様に昇華なされた方がお二人います。阿蘇に大和、天孫国の最新弥生式農耕技術を移植した『健磐龍命』(阿蘇大明神)。もう一人が、『加藤清正』(せいしょう公)です。


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加藤家は『一万石』に改易になった。 

 徳川方にすれば当然の措置です。『招君の間』が物騒な話の種になります。
[徳川三代将軍の世継ぎ騒動が、切っ掛けになります。結城忠長と家光の争いです。『武野燭談』に拠れば、二代将軍秀忠らは忠長を寵愛しており、家光(竹千代)廃嫡の危機を感じた福(春日の壷)は駿府の家康に実情を訴え、憂慮した祖父・家康が長幼の序を明確にし、家光の世継決定が確定したと言われる。これらは家光死後に成立した巷説(こうせつ)。]
正史ではないようですが、どっちみち、難癖を付けられる定めです。
二代加藤忠弘は、出羽庄内藩主酒井忠勝にお預けとなり、一万石の小藩となり、明治にまで至ります。

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《石塘、イシドモ》

 熊本駅のすぐ近くにあります。塘とは堤の事です、熊本弁です。白川と坪井川を隔離するため作られました。 当時の技術では、木の杭打ちが主流で、清正は朝鮮から持ち帰った石積みの技術で堤防=石塘を作り、白川の土砂が坪井川に流れ込まない様にしました。今でも、坪井川の方がよく洪水を起こします。 白川は、なにしろ阿蘇の白川水源(カルデラの内側)が源で、阿蘇に雨が降れば一時間で、熊本地域に火山灰を運んできます。石塘のお陰で、坪井川は底が深くなり、水運に利用され、唐人町、細工町、新町の商業に利用されるところは、秀吉の町作りを手本にしたようです。

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《清正堤、キヨマサツツミ》


 緑川(緑の多い九州山地が源流)と加勢川(画津湖、秋津川、屋形川、木山川が合流、熊本火山灰台地各地から火山灰を集積)を隔離するための堤防。周辺から下流域の水田を護るためのもの。肥後は水田が見事なため、細川藩も商品作物の開発が遅れたらしい。それが江戸後期にひびく。



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《鼻ぐり、ハナグリ》


鼻ぐり説明図

 市内と阿蘇の中間、菊陽町を白川が流れます。菊陽町の鼻ぐり大橋の真下にあります。水流が土砂を巻き上げる工夫が素晴らしく、信玄のカスミ堤と清正の鼻ぐりは独創的。  その他八代方面に遥拝堰、旧前川堰の築造など、清正が行った河川工事も少なくありません。また、藩の増収をめざし、八代の用水事業に積極的に取り組みました。 1610年  名古屋城普請では、率先して、本丸の大工事を引き受けました、築城、の名手として腕を発揮。

観光タクシー申し込み方法

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