熊本バンド(札幌バンド、横浜バンドに並ぶキリスト教信者団)

”Boys be ambitious!”で名高い『札幌バンド』の農学者クラーク博士の名声に、『熊本バンド』は影が薄い。


熊本バンド(キリスト教連帯集団)は、札幌バンド(札幌農大のクラーク博士の影響下のキリスト教連帯集団)に先駆けて、ジェーンズの生活姿勢等に感化されて結成された。熊本バンドの一部が同志社英語学校に合流し、主流になって行く。キリスト教禁教(江戸時代の習慣が明治初期も続いた)の震源地天草に近い白川県(熊本県のこと)でもあり、人吉地区は、浄土真宗すら禁教であった。熊本バンド結成は、保守的気風の県民の猛反発を受け、熊本洋学校とジェーンズは窮地に追い詰められて、間もなく閉校。


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《熊本洋学校とは?》


 熊本洋学校は、西洋初等基礎教育の為、明治4年に(1871)熊本細川藩→白川県(5年後熊本県になる)に建設される。細川護久2代目白川県知事の新政策です。この人は細川の殿様で、考え方は実学党。(実学党とは、横井小楠が代表した思想集団で、長州、土佐の”勤皇党”との誤差を調べると興味深い。横井小楠が不見識の方の為に。横井小楠とは、明治維新政府の参与に登用された経世家で、開国、通商、殖産、富国強兵政策を推進し、”明治政府基幹思想”のバックボーンを作り上げた人です。
『横井小楠記念館 四時軒紹介』横井小楠記念館 四時軒紹介




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『洋学校』と『医学校』

 

 2代目知事による革新的県政によって,新しい時代の、教育された近代熊本県人のための、熊本の『洋学校』と『医学校』が設立された。(蛇足ながら、元首相の細川護煕さんは細川護久知事の孫)そのときに、洋学校教師館(アーリアメリカンのコロニアル風のオシャレなデザイン。サッポロの時計台に通じる、明治レトロで、ロマンチックな建物。)として設けられた建物。(熊本城内の古城というところに建てられた。 因みに、『医学校』出身者には、北里柴三郎がいる。 藩校時習館から熊本医学校に学んだ後、東京医学校(東大医学部の前身)に入学。

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《清教徒ジェーンズ》


 元米陸軍士官経て白川県に、教師として採用される。LL,ジェーンズは、オハオイ州出身。キリスト教清教徒の文化を実践する人。(百科事典より抜粋---ピューリタンの理念はアメリカ文明の基本理念となって生き続,、、ワスプ=白人クリスチャン=アメリカ上流階級の理念。)厳格で、英語だけで授業を行った。


《連絡、予約申し込み方法》

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《熊本洋学校 教師館が、『有栖川の宮』の本営宿舎に 》


 明治10年西南戦争勃発。当初の主戦場は熊本県下『田原坂』、『熊本城』で、熊本城下においても、薩軍の攻城戦=官軍の篭城戦が激しくなる。城下戦線での負傷者の手当に、官軍、薩軍の区別無く、赤十字の前身の”博愛社”が治療を行い、『博愛社』の創立者佐野常民が、『熊本洋学校 教師館』において、宮から『博愛社』の正式設立を認められる。→日本赤十字社結成に至る。故に『熊本洋学校 教師館』は赤十字社メモリアル建築でもある。(昭和45年の10月に現在地の『水前寺体育館前』市電電停付近、北へ徒歩2,3分に移設。開館:午前9時30分〜午後4時30分,休館日 月曜日)。
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《清正(セイショウコウさん)が西郷薩摩軍を痛打》

  西郷隆盛を総大将とする反乱薩摩軍は、鎮西鎮台(官軍が守備する熊本城)を無視してやり過ごし通過すべきであった。攻城戦は兵力と時間を消耗するというのが兵法の通念。九州には不平士族の不満が充満していた。迅速に北九州へ進軍していれば、一戦毎、日に日に、膨れ上がり充実していたものを、鎮台官軍を無視出来ずに、半分の兵力を熊本城攻防に割いた。江戸期には証明出来なかった熊本城の堅守振りを証明してしまった。  
 肥後モッコス達は、『セイショウコウさん(清正公さん)!あーた(貴方)が作ったお城は、ヤッパ!強かったばいたー!』と喝采を送る。薩摩人は、反乱軍の膨張過多を減量を図る、西郷の深慮と深読みする人も。(自分達が創生した維新政府に重症を負わすのを嫌った。)  

 不平の暴発から発生した薩軍には、兵站の支援計画は無く、野犬まで食用にしたらしい。残りの軍勢を、田原坂方面へ向かわせて、南下する官軍と激戦した。官軍の鉄砲装備は、米国の南北戦争後の余剰小銃、不要兵器の押し付け品ながら、薩軍の装備とは桁違いであった。(”ラストサムライ”アメリカ映画 主演トムクルーズ を重ね合わすと時代の雰囲気の理解が容易。)類似点:アメリカの南北戦争→日本の西南戦争 類似点:トムクールズの役どころ 退役軍人 ジェーンズも退役軍人

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