《名城熊本城は、細川忠利公に預けられる》

 加藤家が徳川幕府に難癖を付けられて、二代目で取り潰し処分に近い(一代限り一万石での、酒井家お預け)の結果、名城熊本城の主、肥後藩主に成るのが細川忠利公です。細川藩は、譜代外様大名第一の親徳川派で、島津鹿児島藩の監視封殺役に細川藩が指名されて、堅城熊本城を預けられたものです。


《細川家の成り立ち》


 初代細川藤孝は、足利一門の三淵晴員の子として、(実質は、12代将軍義晴を父とし、清原家から下女奉公した母との息子)管領家の細川家へ養子に入りました。
 『細川』と言う名跡は、血縁家門の途絶えた”名門の姓”で、鎌倉、室町時代は家老職を賜る名跡で、つまりは、下女奉公の生んだ将軍の胤に、『細川』の名高い姓を継がせて、次代の将軍補佐として格を整えた。細川藤高公の母の実家は清原家で,代々学者の家系。京都吉田神社(吉田兼好につながる)系統の長岡神社神主の家系。
13代将軍義輝に仕え(兄の政治補佐)、武術と軍学を学び、兄をリードする責を負わされます。



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《細川藤高公のしたたかな情勢分析》

 将軍義輝が松永久秀に襲われたると、(下克上)、朝倉義景を頼り、14代将軍を押し立てて、一方で、14代将軍義昭が信長に反旗を翻すと、”将軍補佐役”の職を放棄して、”朝倉家”頼りから、敵方の信長支持にスイッチ。信長の家来家臣団の丹波方面の担当戦国大名へと転身していく。
 明智光秀と細川藤孝は気心が通じ、親交が厚く、(信長の仲人にて、イケメンの忠興公と戦国一の傾国ガラシャが両大名のきずなのシンボル)にも関わらず、本能寺の変の緊急事態の時には、明智光秀の八方塞的挙兵に共鳴味方せず、頭を剃って冷静に対処、入道し、幽斎と名乗りました。
 細川家は、情に流されない冷静な情勢分析に長けて、混乱戦国機にも惑わない、生き残り術に長けている家系と言う評価が高い。
 平時は文人=学者の顔を持ち、三条西実条(にしさねえだ)から、古今和歌の難解な語句の解釈を、九条タネミチから、源氏物語のそれを伝授されます。(当時、歌の道も流派流儀の『奥義』で粉飾されて、物々しい伝授作法があった様子。閉鎖的な古今伝授の間で、余人を排してひそかに伝授される。)
 ”古今和歌集、源氏物語への奥義解釈”は、細川幽斎個人の造詣、文才としてだけでなく、国家的な財産(無形文化財)であった。

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《細川藤高公は、武人であり、文人》

 後陽成天皇は.、関が原の合戦の時、幽斎公が丹波田辺の戦国大名として500の人数で、田辺城を守り、敵勢15,000人に攻め囲まれて孤立無援になった時、幽斎の命とともに、国家的な文化財産が失われるのを恐れ、幽斎の延命を図る仲裁に入ります。普段余り戦の成り行きに介入しない『天皇』が戦場に分け入り仲立ちされます。
 関が原の主戦場で徳川方が勝利したため、石田方の丹波勢力は消滅しましたが、天皇は、幽斎から弟の八条の宮への奥義解釈の伝順を申しつけます。
その時の、その伝授の為の書院が桂離宮に江戸期を通じて保存されて、残存し、大正元年に水前寺成趣園に移設され、《古今伝授の間》(こきんでんじゅのま)として保存されます。



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《細川忠興公と細川ガラシャ夫人の物語》


 細川二代目忠興(三斎)公は明智光秀の娘のお玉と、信長の仲立ちで婚姻。この絶世の美女”お玉”に、利休七哲人の一人として名高い忠興公もメロメロで、嫉妬猜疑心を抑えかねて、人目にさらさないように、他人の垂涎の種にならないように図ったのです。(外出を制限)
 一方で、忠興自身も、幼少時より可愛さが目立つ子で、”森欄丸”等で名高い信長の小姓として英才教育されます。信長の野心の”天下布武”の気概が成長していく忠興に刷り込まれます。
 本能寺の変の後、天下人の秀吉に気を使う細川家は、奥方が反逆者の娘”お玉”であること遠慮して、謀反人の娘として丹波味土野に幽閉したため、いっそう隔世せられ、許されて玉造の屋敷に戻ってからも不自由な身に置かれて、そのはけ口をクリスチャンになることに求めます。その時の洗礼名がガラシャです。

 世が移り、秀吉が死に、”関が原”前夜の厳しい情勢に急変。細川家大阪玉造屋敷は、人質確保のためとして、石田方軍勢に屋敷を囲まれましたが、戦に向かった細川忠興公に残留させられ、脱出が遅れた『細川ガラシャ夫人』は、捕らわれるのを嫌い、『死を選び』ました。クリスチャンは自殺ができないため屋敷に火を放ち、留守居役、小笠原少斎に自分を殺させました。妻として、忠興の”天下布武”の野望の足枷になる事を嫌いました。


 忠興はガラシャを失ったあとはその恋慕の思いが久しく、セステベス(ガラシャを洗礼した神父)を召いて保護しました。
 細川家が徳川方になったのは、秀吉が利休を切腹させた事(忠興は利休七哲人の1人)と、関白秀次が処刑された時(関白秀次に忠興は借金が在り、あわてて徳川家康に立て替えてもらった)事によります。


( 散りぬべき時しりてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ )


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《戦国細川家は、肥後細川家に1632年》


  関が原1600年から32年後(ガラシャ享年38歳から32年後)細川家は、肥後熊本城54万石転封。熊本城主は、細川忠利公で八代城主は忠興公となる。(一国一城の幕府令があるが、薩摩封じの為に、肥後熊本藩は例外とされた。 )

 加藤清正に随伴した、朝鮮陶工の尊偕は、茶器に造詣の深い忠興に招かれ、名前も
上野喜蔵と改称し、細川家の移封とともに、八代に移住し、今も、日奈久に高田焼を残しています。その特長は、高麗青磁の伝統を踏まえ、白い陶土で、花や、唐草の文様を象嵌する洗練された優雅さにあります。

 もうひとつ、忠興が残した今日の工芸品に、肥後象嵌があります。
刀のツバ等を、金や銀で装飾するもので、漆塗りの手箱等にも美しいものがあります。
土産用にタイピンなどがよろこばれています。

 熊本名物カラシ蓮根は、九曜紋→細川家家紋に似ているから名物なのである。

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《ガラシャの子細川忠利》

 忠興の子で、ガラシャの子、肥後初代細川忠利は、クリスチャンの母の影響、戦国を生き抜く武人文人の父の忠興の影響か、非常な人格者で、その死の際、武蔵が悲嘆に暮れた他、殉死者が11人も出て、阿部一族の悲劇を残してしまいました。




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