《藩外で花開いた横井小楠の思想》

 ”横井小楠”と言う名前は知っていても、その歴史的業績を詳しく知る人は少ないようです。維新、幕末、勤皇の志士の、幕末ノスタルジーに関心のある方は、竜馬、西郷、勝海舟と並列に認識して置く必要のある肥後藩士です。
 『肥後藩士』でありながら、『福井藩改革』を成し遂げる為に、そのブレーンとなりました。財政破綻した福井藩を、『幕末期の藩政改革モデル藩』に変革改革しました。『肥後の石工』の岩永三五朗がヘッドハンティングされたように、横井小楠も、ヘッドハンティングされました。(自藩でその才を生かせない、肥後の閉鎖性問題の象徴。)
 漢学の朱子学から出発(勤皇)し、水戸学(勤皇、尊王攘夷)と深めて→最終的には開国、通商、殖産、富国強兵へと思想を進めて(この段階では、”攘夷”を脱ぎ捨てて)、福井藩やその藩主”松平春嶽”を巻き込み、通商、殖産、富国強兵への改革実行の”成功モデルの福井藩”を実現し、その実績を梃子に、幕政改革のブレーンとなり→維新政府の基礎となる諸政策を立案しました。 『参勤交代の無駄を指摘したり、天皇家に幕府の私政を陳謝したり』=『国是七条』、最後の将軍徳川慶喜の補佐役=政事総裁職の福井藩主松平春獄(公武合体主義者)に、そのブレーンとして進言しました。維新政府成立後、竜馬の推挙が奏功したようで、岩倉具視の推挙で明治維新政府の参与となる。参与として実務を遂行する寸前に、暗殺されました。 幕末維新期に於いて、坂本竜馬が歴史を動かす決定的な仕事をしますが、その思想のヒントを与えています。


《坂本龍馬の業績と、小楠が与えたヒント》

 

 坂本竜馬が果たした、明治維新が成る歴史的功績の具体的功績は、(1)”亀山社中(市場経済社会への脱皮時期の日本初の株式商社)”と(2)”薩長連合”と(3)”大政奉還”の進言です。

(1)”亀山社中”は、小楠と福井藩の”開国、通商、殖産、富国強兵”政策の成功体験の延長戦上にあります。福井藩は、養蚕を奨励し、生糸を船舶で長崎へ運び、通商により藩財政を回復した。

(2)”薩長連合”は、春嶽と小楠の幕府寄りの立場の(公武合体)を乗り越えて、”武”の徳川幕府、後、英明君主連合の部分を革新の薩長連合に置き換えたものです。維新後の政府も基本的には”公武合体”の骨組みのままです。(岩倉具視と大久保利通)

(3)”大政奉還”は、小楠の、春嶽への建策の国是七条(江戸幕府が行った構造改革)の延長線上にあります。幕府の、天皇家を差し置いた僭越を反省して、(江戸参勤交代廃止、)『大政』を京都『天皇家』に奉還。

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『尊皇攘夷』と『公武合体』

幕藩体制とは、300諸侯大名の中で、最大の400万石(800万石とも)の徳川家が幕府政治を執り行い、朝廷の政事(まつりごと)の代理執行政治をおこなった。  
1840〜1842年 アヘン戦争 列強が、大国中国を植民地化する様が顕在化。琉球を支配にする薩摩の『島津斉彬』、長崎出島を管轄する『鍋島閑叟』、『島津、鍋島の仮想敵国肥後』の経世家『横井小楠』、三者は、それぞれ、東シナ海と列強を強く意識して、『日の本』の国家意識発揚と、防衛意識の高揚を説き、それぞれに具体的に政策を実行した。
朱子学は、『皇帝が天命により、まつりごとを行う』として、宋が蛮族夷狄の圧力のより、南宋に追いやられている状態を回復するのが正義とする。江戸時代の朱子学は、天命による権威を朝廷として、幕府の『代理執行政治』を政権の収奪=蛮族夷狄の代理執行政治と解釈した。  
『尊皇攘夷』の意味は、朝廷の権威を尊び、幕府、及び列強を排し攘る。  
『公武合体』の意味は、朝廷と幕府が、列強の歯牙を前にして政局を争わずに、一体化して政治執行をする。  
『横井小楠』、『島津斉彬』、『鍋島閑叟』は『公武合体』を目指し、『攘夷』を降ろして『開国通商進取洋化(富国強兵=海軍創設増強)』を説き、それぞれに具体的に政策を実行した。

 ※『公武合体』の『武』の実体が、1862年4月、『島津久光』が京都藩邸に挙兵入洛した頃には、『徳川幕府』から『英明君主の合議』に入れ替わり、やがて、『横井小楠』が将軍後見職の『徳川 慶喜』と、政事総裁職の『松平春獄』に、『国是七条』を論ずる頃から徐々に、『英明君主の合議』から、薩長土の下級武士へと水平化されて行く。やがて、明治国民国家の太政官政府へと収束して行く。

※龍馬は、土佐の尊皇思想から、『自由民権』の精分を抽出して、維新の思想に注入した。
天保12年(1841)には、細木庵常を中心として天保庄屋同盟が密に結成された。彼らは日本の総主は天皇、代官は将軍、組頭は大名、庄屋は小頭だと位置づけ、庄屋も天皇に直属して土地人民を預かる職だという点では大名と同じだと考えていた。この庄屋同盟の精神が土佐藩における勤王運動に引き継がれていったといわれている。

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《横井小楠の思想の経歴》

 熊本城下の内坪井町に生まれました。小楠は、幼少時から藩校、『時習館』で学びました。居寮生に選ばれたエリート。『時習館』は藩校学問所で、肥後六代目、戦国細川で換算すると八代目の細川重賢公が、藩政改革《宝暦の改革》を行い、この改革の残した成果が『時習館』、病院の『再春館』であり、ともに全国区の知名度があります。 『時習館』出身のエリート、他には、北里柴三郎がいます。

 熊本では、実学党を結成しました。  『実学党』、、、「実際に役立つ学問」という小楠の教えを受けた人たちのグループ。当時の肥後藩には、実学党に対して、保守的な「学校党」、尊皇攘夷をめざす「勤王党」がある。

  『勤王党』には、池田屋で新撰組に暗殺される宮部鼎蔵(山鹿流の軍学を修め、30才で肥後藩の軍学師範。吉田松陰とも親交。吉田稔麿と二人は当時の尊皇攘夷派の重鎮。二人が暗殺されなければ、維新の夜明けはもっと早く来た)がいた。勤皇とは、現状維持の保守佐幕派に対抗するスローガン。念仏のように唱えていると、『天皇が神様で絶対神聖なものと』刷り込まれる単細胞浪士が増殖した。『保身の為に列強国に盲従する幕府、幕藩体制を革新する』『現状否定最優先のスローガン』である本質を見失う浪士が排出。(お題目化して、ヒステリーに陥る下級武士も多い。この体質が、大本営体質の日本軍を作った。)

 『本当の経世学問とは、藩政に役立ち、王道楽土を達成するもの。→実の学。』と、、、藩政改革に乗り出すが失敗。その後、福井藩主松平春嶽に賓師として迎えられ、福井藩政改革に積極的に取り組み、成果を上げる。

 封建制社会の当時、他藩へ藩士が招かれて、藩政改革に取り組むと言うのは、例外中の例外。当時、日本国中が米(こめ)中心経済を脱却し、市場商品経済熱が噴出し、新商品進取熱盛んで、藩士が各藩に遊学し、革新思想も流布する素地がある。

 勝海舟はさすがに『自分で仕事をする人ではないが、横井の弁(主義・主張)を用いる人がいたら、由々しき大事』と云いました。

  幅広い門下人脈のなかに、熊本バンド(息子の横井時雄→同志社第3代社長、徳富蘇峰→月刊誌『国民之友』を主宰。徳富蘆花→小説『不如帰』、海老名弾正→第8代同志社総長)元田永孚(もとだかねざね)→明治天皇の侍講 井上毅(いのうえこわし)→「教育勅語」起草、大日本帝国憲法制定の影の実力者 、
由利公正→五箇条の御誓文の起草
婦人活動家(竹崎順子→熊本女学校、矢島揖子→女性解放運動)の名が数多い。

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《福井藩での改革の下地を作った『橋本左内』とは?》

 福井藩医の子として、当代一の蘭学塾大阪の『適塾』に学ぶ。←緒方洪庵が作った、英才逸材多数輩出で名高い。開国交易に注目し、藩政改革の目玉として横井小楠を招聘することを進言し福井藩を雄藩にする契機を作った。コチコチの攘夷派だった藩主『松平春嶽』を開明的な君主に変貌させた。春嶽を補佐して導く。横井小楠と組み、藩主松平春嶽を徳川幕藩政治の中枢に押し出した。横井小楠を藩主のすぐ下、家老の上に置き、藩全体の政治顧問として扱い藩政改革を推進する。横井小楠の考えをよく理解した三岡八郎=由利公正などが排出し、経営改革を遂行する。福井藩は、わずかな年数で、貧乏藩から一躍雄藩に変貌する。『由利公正』は後に、五箇条のご誓文を提出する。それは、横井小楠が福井藩で主張した『論説』である為、坂本竜馬の手になる『船中八策』と共通する部分が多い。海舟が、神戸海軍操練所をつくる時、幕府からは自前で金を集めるよういわれ、出してもらえなかった。その時、海舟の使いとして竜馬が福井藩へ出向き、資金を一千両(五千両という説もあり、以前に五万両としていたのは、何処の資料かは忘却しました。)借りた話は有名で、『五箇条のご誓文』の『盛ニ経綸ヲ行フヘシ』『陋習を破り、天地の  ”公道”→”開国貿易”  に基づくべし』 の実践、実現を志す竜馬への支援投資=カンパの意味合いが濃いと思われる。  橋本左内を、安政の大獄で亡くしてしまったが、それまでに、横井小楠の王道外交論、開国論、国是三論などによって開明的な改革を続けてきた福井藩は、幕府に対しても、国是七条など提出し、藩主春嶽は、幕末から維新政府創設期まで、太政官政府の参議として活躍する。

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《国是七条》とは?

横井小楠が、幕府総裁職松平春嶽の為に建言した施策で、幕府を立て直す最後の構造改革。
1、将軍は自ら京にいって、天皇へ過去の無礼を謝る
2、参勤交代制度の廃止
3、大名の妻子を国元に帰す
4、外様譜代に拘わらず、優れた人材を幕府の役人に選ぶ
5、多くの人の意見を出し合い、公の政治を行う
6、海軍をつくる。
7、幕府が貿易を統括する。 (横浜、神戸、函館を開港)

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《福井藩と小楠と龍馬の関わりを理解する為の年表》

1849年  福井藩の三寺三作、小楠を訪ね、小楠の思想を学ぶ。
1853年     ペリー浦賀沖へ黒舟で現れる、国交を要求。
1854年(安政元年)         ペリー再来。吉田松陰、米船にて密航を図る
1855年    「海軍伝習所」設立。
1856年    慶喜擁立派(松平春獄ら)と慶福擁立派(井伊直弼ら)の対立。
1857年    福井藩士、村田氏寿、小楠を福井へ招聘
1858年    安政の大獄。慶喜・春獄・山内容堂 慶喜擁立派大名は謹慎
1859年    吉田松陰・橋本左内死罪。越前藩、「物産商会所」開設。
1860年    福井で、「国是三論」。高杉晋作、福井に小楠を訪ねる。
        勝海舟、福沢諭吉ら、「咸臨丸」で米国へ。桜田門外の変。
1861年    江戸に於いて、松平春獄と始めて対面
1862年    春獄に、政事総裁職に就任を勧める。 慶喜は将軍後見職に。
        幕府へ「国是七条」建議。龍馬、小楠を師とする。龍馬、勝海舟を師とする。
         士道忘却事件(飲酒にて、幕臣と議論、刃傷沙汰現場不在が、逃避するは、士道忘却と政敵か          ら非難される。)    生麦事件。
1863年    越前藩、大挙上洛計画。
1863年    英・仏軍艦、下関砲撃。英軍艦、鹿児島を砲撃。(薩英戦争)
1864年    池田屋騒動。
1865年    高杉晋作、挙兵。
1866年     薩長同盟成立。
1867年    龍馬、「船中八策」土佐藩、大政奉還を建白。慶喜、大政奉還。   小楠、朝廷より召命。
1868年     鳥羽・伏見の戦。江戸城無血開城。小楠、従四位下に。    五箇条の御誓文
1869年     小楠、暗殺。

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《横井小楠記念館 への地図(道案内)》



上の地図で朱色の線を東(阿蘇方面)にたどる(電車終点を東に)、ガストのある交差点を通り過ぎる。左に沼山津神社、右に熊本クリニックのある大きな交差点を右折。
400mくらいで下記の写真の橋の位置にでます。









この脇道から徒歩で進入して、左折すると記念館玄関です。最初に掲載してある木の門構えがあります。(この写真は、08年頃のもので、現在は少しだけ様子が違う。概ね同じ)




記念館住所 熊本市沼山津1丁目25−9      電話 096−368−6158

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熊本市と福井市は姉妹都市

熊本市民は日常、福井市と姉妹都市である事を知りません。むしろ、福井市が、横井小楠の功績を顕彰する為に、熊本市に働き掛けた様子が窺えます。

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《03年5月18日、四時軒小楠記念館館長と竜馬記念館館長のリレー講演》

〈要旨〉 小楠は肥後の下級武士の次男で、この頃の次男というのは穀潰しで社会問題化していました。次男という無意味な存在をバネにする人と、スネル人がいました。小楠はバネにする人であり、竜馬も同じです。  吉田松蔭も江戸へ出る以前に、横井小楠を山口に招聘しようとしていますし、竜馬の”船中八策”も、小楠の焼き写しの部分がほとんどです。竜馬は、勝海舟を暗殺に行き、説諭に感服してその場で、海舟の弟子になったのですね。横井小楠は、将軍政治相談役の松平春嶽のブレーンとして江戸で活躍した頃、海舟を通じて竜馬に思想を送りつづけたようです。  二人は邂逅すると、長時間話し続けていたそうです。竜馬は謹慎中の小楠を四時軒に3度訪ねています。そのころの四時軒は、今の位置と同じで、裏に秋津川が流れています。  秋津川は江戸時代には木山まで帆かけ船が上っていたらしいです。(今の秋津川にはゴムボートも浮かべられません)川尻は米の積み出し港で、蔵が林立し今もその面影があるそうです。川尻から沼山津まで、竜馬は帆かけ船に揺られて来たと館長は想像しています。(湖沼の緑いっぱいの水路を、竿舟で溯上するなんて、気持ちいいだろうなぁ。土手には、色鮮やかな草花が咲き乱れています。秋津川は阿蘇の伏流水が流れています。透明度がすごくて、冷涼で、江戸期ならスクッテすぐ飲めます。)  五月の涼風川風が気持ちの田園地帯に四時軒はあります。二人の館長が交代でしゃべるのを聞き逃さないように傾聴するのに、ウグイスの鳴き声が煩かったです。参加者全員、真剣に聞き耳を立てていました。  6回目の、最後の二人の邂逅の時は、大喧嘩になったらしいです。小楠の”公武合体”と”竜馬の”薩長連合”とで、激論です。 小楠は、この時期謹慎中(士道忘却事件で)で、情報の途絶した状態だったそうです。 一方竜馬は時流のど真ん中です。両館長とも、小楠の情報不足という判定で意見の一致を見ました。  海舟と春嶽はすばやく”薩長連合”優位の時流に気付いたのか、竜馬との仲直りを小楠に進言します。  小楠の基本的な考え方は、”公””私”を基軸に考える公(公武合体の公ではない。私の反対語の公)を考えた。そして日々思想は変化する、新しい正しい思想を知れば変質漢と言われても改める。普通一般の肥後人とはこの点大きな違いがあります。薩長連合も受け入れています。ところが、仲直りの酒を酌み交わす暇も無く、竜馬は1867年、小楠はその翌々年1869年暗殺されます。 竜馬が描く、薩長の倒幕後の組閣人事には小楠の名が、倒幕功労者でもないのに、上位にあったそうです。  明治政府での小楠の参与職は、事実上の総理格らしいです。大久保、西郷の上です。岩倉の信任が厚かったようです。大久保利通より暗殺される時期が遅ければ、太政官政府は、横井小楠が作っていたかもしれない。  参与として力量を発揮する寸前に暗殺されてしまいました。竜馬と小楠が暗殺されていなければ、、、、。

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