横井小楠記念館 四時軒紹介
 

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 熊本市東部の沼山津に、坂本竜馬が、維新後政府首相格に想定した『横井小楠』の、その私塾『四時軒』があります。『四時軒』は、『横井小楠記念館』に付属建築物という形で保存されています。(解かり難い場所に在りますので、簡単に行く方法と地図を掲載しておきます。)熊本の史跡観光施設の一つです。
 ”横井小楠”と言う名前は知っていても、その歴史的業績を詳しく知る人は少ない。維新、幕末、勤皇の志士に関心のある方は、竜馬、西郷、勝海舟と並列に認識して置く必要のある肥後藩士です。福井藩改革(財政破綻した藩を、『幕末期の藩政改革モデル藩』に変革改革した)のブレーン頭脳です。漢学の朱子学から出発(勤皇)し、水戸学(勤皇、尊王攘夷)と深めて→最終的には開国、通商、殖産、富国強兵へと思想を進めて(この段階では、”攘夷”を脱ぎ捨てて)、福井藩やその藩主”松平春嶽”を巻き込み、”通商、殖産、富国強兵への改革実行の成功例の福井藩”を実現し、その実績を梃子に幕政改革→維新政府の基礎となる諸政策を立案しました。(暗殺された時点では、竜馬の推挙が奏功したようで、岩倉具視の推挙で明治維新政府の参与でした。)
『(参勤交代を止めたり、天皇家に幕府の私政を陳謝したり』、最後の将軍徳川慶喜の補佐役福井藩主松平春獄(公武合体主義者)に進言。

幕末維新期に於いて、坂本竜馬が歴史を動かす決定的な仕事をします。
その仕事を整理すると、
”亀山社中(市場経済社会への脱皮時期の日本初の株式商社)”と”大政奉還”と”薩長連合”です。竜馬は、これらの事象、政策の基本を、時代と、横井小楠の思想→福井藩改革の成功体験と、勝海舟から学んでいるのです。
☆  ”亀山社中”は、小楠と福井藩の”開国、通商、殖産”政策の成功体験の延長戦上にあります。
 ☆ ”大政奉還”は、小楠の春嶽への建策の国是七条(江戸幕府が行った構造改革)の延長線上にあります。
 ☆ ”薩長連合”は、春嶽と小楠の幕府寄りの立場の(公武合体)を乗り越えて、”武”の徳川幕府の部分を革新の薩長連合に置き換えたものです。維新後の政府も基本的には”公武合体”の骨組みのままです。(岩倉具視と大久保利通)

《仮説ですが、明治維新政府の本質とは?》
 明治維新政府は、竜馬の尽力により、薩長連合が成立し、勤皇のエネルギーを集約し、"攘夷"を乗り越えて(捨てて)、小楠と福井藩の成功体験を模範として(幕府方の良い部分を真似て)、薩長の下級武士達主導で、開国、通商、殖産、富国強兵政策を展開します。

”公武合体が基本の、国是七条(江戸幕府が行った構造改革)後の幕府を真似た維新政府”


 このように整理すると、横井小楠は、竜馬、西郷とひけをとらない、重い仕事を果した、維新期の歴史的な重要人物なのです。しかし、その知名度は、竜馬、西郷には及びもつきません。維新政府が薩長土出身者に偏り、歴史上の功績評価を無視された事と、明治2年に暗殺されて、明治3年には春嶽も維新政府を去ってしまっているので、その仕事の業績が曖昧になった事と、熊本の、先達を評価して、その業績を学び越えようという精神の希薄さ(熊本の県民性は、自己中心的、独善的と聞きます。対象的なのは鹿児島で、『薩摩の芋ズル』と言います。薩摩出身者に拠る薩摩出身者評価が過大)の為、地元評価による後押し、地元支援が不足しています。

松蔭、竜馬、海舟、西郷の師横井小楠の四時軒


チョット一言。
横井小楠は、坂本竜馬が活躍する為の、思想の部分に多大な影響を与えました。
『横井小楠が、勤皇の志士達に与えた思想的な影響とは?』 この問題を整理するため、
(最近入院したので、)時間が出来たので、横井小楠を振り返るために”竜馬がゆく”を読み返しました。書中では、小楠の記述は少ないですが、海舟、大久保一翁、小楠は開明の頭脳として、並列の扱いでした。司馬遼太郎さんが”竜馬がゆく”の中でもっと詳しく言及していると、小楠記念館ももっと有名になっていたのに、、、とタメ息。残念!現在の”竜馬熱”や、竜馬の歴史的再評価は司馬さんの発掘のおかげです。司馬さん並の文豪が、横井小楠の軌跡を楽しく読ませてくれれば、、、。
 弟子の三岡八郎は、凄い評価がされています。インターネットで検索しても、三岡八郎は重要人物らしい。でも、その思想は、福井藩において、小楠が教えたものです。福井藩主、松平春嶽は、維新政府の要職まで勤めましたが、小楠の建言を取り入れての事です。
ついでに一言。
 熊本市と福井市は、小楠と福井藩の縁で、姉妹都市になっています。



横井小楠》  
 肥後熊本が生んだ幕末の思想家。生誕は文化6年(1809年)。
熊本城下の内坪井町に生まれました。 横井小楠は、幼少時から藩校、時習館で学びました。熊本では、実学党を結成し、

実学党、、、「実際に役立つ学問」という小楠の教えを受けた人たちのグループ。当時の肥後藩には、実学党に対して、保守的な「学校党」、尊皇攘夷をめざす「勤王党」がある。
「勤王党」には、池田屋で新撰組に暗殺される宮部鼎蔵(山鹿流の軍学を修め、30才で肥後藩の軍学師範。吉田松陰とも親交。吉田稔麿と二人は当時の尊皇攘夷派の重鎮。二人が暗殺されなければ、維新はもっと早く来た)がいた。勤皇とは、現状維持の保守佐幕派に対抗するスローガン。現状を否定するスローガン。保身の為に列強国に盲従する幕府、幕藩体制を革新するというスローガン。(お題目化して、ヒステリーに陥る下級武士も多い。)
『実学党』の小楠は公武合体の実利を説く。福井藩主の幕府総裁職松平春嶽のブレーンとして活躍。竜馬の大政奉還、薩長連合までの橋渡し的な思想を提供。

『本当の経世学問とは、藩政に役立ち、王道楽土を達成するもの。→実の学。』と、、、藩政改革に乗り出すが失敗。その後、福井藩主松平春嶽に賓師として迎えられ、福井藩政改革に積極的に取り組み、大成功。封建制社会の当時、他藩へ藩士が招かれて、藩政改革に取り組むと言うのは、例外中の例外です。当時、日本国中が米(こめ)中心経済を脱却し、市場商品経済熱が噴出し、新商品進取熱盛んで、藩士が各藩に遊学し、革新思想も流布する下地がありました。


橋本左内   福井藩医の子として、当代一の蘭学塾大阪の『適塾』に学ぶ。←緒方洪庵が作った、英才逸材多数輩出で名高い。開国交易に注目し、藩政改革の目玉として横井小楠を招聘することを進言し福井藩を雄藩にする契機を作った。コチコチの攘夷派だった藩主『松平春嶽』を開明的な君主に変貌させた。春嶽を補佐して導く。横井小楠と組み、藩主松平春嶽を徳川幕藩政治の中枢に押し出した。横井小楠を藩主のすぐ下、家老の上に置き、藩全体の政治顧問として扱い藩政改革を推進する。横井小楠の考えをよく理解した三岡八郎=由利公正などが排出し、経営改革を遂行する。福井藩は、わずかな年数で、貧乏藩から一躍雄藩に変貌する。『由利公正』は後に、五箇条のご誓文を提出する。それは、横井小楠が福井藩で主張した『論説』である為、坂本竜馬の手になる『船中八策』と共通する部分が多い。海舟が、神戸海軍操練所をつくる時、幕府からは自前で金を集めるよういわれ、出してもらえなかった。その時、海舟の使いとして竜馬が福井藩へ出向き、資金を一千両(五千両という説もあり、以前に五万両としていたのは、何処の資料かは忘却しました。)借りた話は有名で、『五箇条のご誓文』の『盛ニ経綸ヲ行フヘシ』『陋習を破り、天地の  ”公道”→”開国貿易”  に基づくべし』 の実践、実現を志す竜馬への支援投資=カンパの意味合いが濃いと思われる。
 橋本左内を、安政の大獄で亡くしてしまったが、それまでに、横井小楠の王道外交論、開国論、国是三論などによって開明的な改革を続けてきた福井藩は、幕府に対しても、国是七条など提出し、藩主春嶽は、幕末から維新政府創設期まで、太政官政府の参議としてまで活躍する。

開国通商・殖産興業・富国強兵の「論説」は福井藩を再建しましたが、坂本竜馬は、幕府機関である神戸海軍操練所を発展解消して、私設海軍貿易会社の『海援隊』を創設し、小楠の思想を応用、実践、発展させました

国是七条(江戸幕府が行った構造改革)
 横井小楠が、幕府総裁職松平春嶽の為に建言し、最後の将軍と呼ばれる『徳川慶喜』に実行せしめた施策で、幕府を立て直す最後の構造改革。
1、将軍は自ら京にいって、天皇へ過去の無礼を謝る
2、参勤交代制度の廃止
3、大名の妻子を国元に帰す
4、外様譜代に拘わらず、優れた人材を幕府の役人に選ぶ
5、多くの人の意見を出し合い、公の政治を行う
6、海軍をつくる。
7、幕府が貿易を統括する。 (横浜、神戸、函館を開港)



国是三論
富国・強兵・士道    アダムスミス『国富論』→「神の見えざる手」。利己的に行動する各人が市場において自由競争を行えば、自然と需要と供給は収束に向かい、経済的均衡が実現され、社会的安定がもたらされるというもの。
小楠は富国・強兵・士道の三位一体を論じた。小楠は富国強兵路線のみの限界を喝破していた。戦争を止めるべき「心徳」を磨く道こそ「士道」である。明治政府は「士道(心徳)」を欠いたまま富国強兵に突っ走った。

幕府を倒した明治政府のスローガンは尊皇攘夷でしたが、攘夷の方はあっさり捨てて、開国通商・殖産興業・富国強兵、にスローガンが変わります。そしてこの横井小楠の国是が、明治、大正、昭和20年終戦まで、日本の基幹政策となります。


《横井小楠の経歴を、もう少し詳しく》
 時習館は細川重賢が作った藩校で、江戸時代の藩校としては初期のものです。
横井小楠は、時習館で学ぶ、居寮生に選ばれたエリートです。
時習館出身のエリートの、他の有名人物には、北里柴三郎がいます。
  これまで横井小楠については、幕末の志士、卓越した政論家、教育者などなど、
さまざまな評価がなされてきました。しかし、勝海舟はさすがに『自分で仕事をする人
ではないが、横井の弁(主義・主張)を用いる人がいたら、由々しき大事』と云いました。
横井小楠という人物の核心を突いてます。
横井小楠の弁を用いたのが、福井藩主春嶽と、坂本竜馬など幕末の志士で、由々しき大事が明治維新です。
横井小楠の本質は「思想家」でした。観光ガイド等には、未だに文学者という記載があったりします。
幅広い門下人脈のなかに、熊本バンド(息子の横井時雄、徳富蘇峰、蘆花、海老名弾正)、
婦人活動家(竹崎順子→熊本女学校、矢島揖子→女性解放運動)の名が数多い。

横井小楠記念館 四時軒への地図(道案内)
熊本市の中心部から東へ(阿蘇方面へ)約8Kmくらい、沼山津四丁目に横井小楠の私塾、四時軒があります。四時軒を核にした歴史記念館が横井小楠記念館です。タクシーに乗ったとしたら(車での所要時間という意味)、JR熊本駅からも、熊本空港(市内方面へ、西へ)からも約20分くらいです。
道のたどり方

(市電”健軍終点”を東へ1.3Km。ガストのある交差点を右折,次の信号を左折する。右折して、左折、細い路地の奥に
『横井小楠記念館 四時軒』がひっそり、文字通り秘っそりと横井小楠の功績を顕彰しています。
(住宅街の奥、路地の奥で、非常に判明し難い。)
上記の道より、下記の地図に従った方が解かり易い。
秋津川沿いまで迂回して下さい。川沿いを戻り、二つ目の橋を通り過ぎて、30mくらいで、四時軒玄関です。
最下部に、秋津川から見た記念館の写真を掲載してあります。



住所 熊本市沼山津1丁目25−9      電話096−368−6158


上の地図で赤い破線を東(阿蘇方面)にたどる(電車終点を東に)、ガストのある交差点を通り過ぎる。
左に沼山津神社、右に熊本クリニックのある大きな交差点を右折。
400mくらいで下記の写真の橋の位置にでます。




この脇道から徒歩で進入して、左折すると記念館玄関


秋津川堤防より見た四時軒  



   

ところで、全国あちらこちらに竜馬会があります。熊本にも『熊本龍馬の会,』があるようです。
『熊本龍馬の会,』の主催で、03年5月18日、四時軒小楠記念館館長と竜馬記念館館長のリレー講演
がありました。参考にその時のメモを。

  〈要旨〉

小楠は肥後の下級武士の次男で、この頃の次男というのは穀潰しで社会問題化していました。
次男という無意味な存在をバネにする人と、スネル人がいました。
小楠はバネにする人であり、竜馬も同じです。

吉田松蔭も江戸へ出る以前に、横井小楠を山口に招こうとしていますし、
竜馬の”船中八策”も、小楠の焼き写しの部分がほとんどです。竜馬は、勝海舟を暗殺に行き、説諭に感服してその場で、海舟の弟子になったのですね。横井小楠は、将軍政治相談役の松平春嶽のブレーンとして江戸で活躍した頃、海舟を通じて竜馬に思想を送りつづけたようです。

2人は邂逅すると長時間話し続けていたそうです。竜馬は謹慎中の小楠を四時軒に3度訪ねています。そのころの四時軒は、今の位置と同じで、裏に秋津川が流れています。秋津川は江戸時代には木山まで帆かけ船が上っていたらしいです。(今の秋津川にはゴムボートも浮かべられません)川尻は米の積み出し港で、蔵が林立し今もその面影があるそうです。川尻から沼山津まで、竜馬は帆かけ船に揺られて来たと館長は想像しています。(湖沼の緑いっぱいの水路を、ちっちゃな舟で溯上するなんて、気持ちいいだろうなぁ土手には、さまざまな色合いの花が咲き乱れています。秋津川は阿蘇の伏流水が流れています。透明度がすごくて、冷たくて、昔ならスクッテすぐ飲めます)
五月の涼風川風が気持ちの良い所に四時軒はあります。二人の館長が交代でしゃべるのを聞き逃さないように聞こうとうするのに、ウグイスの鳴き声が煩かったです。皆さん真剣に聞き耳を立てていました。

6回目の、最後の二人の邂逅の時は、大喧嘩になったらしいです。小楠の”公武合体”と”竜馬の”薩長連合”とで、激論です。
小楠は、この時期謹慎中(士道忘却事件で)で、情報の途絶した状態だったそうです。
一方竜馬は時流のど真ん中です。両館長とも、小楠の情報不足で意見の一致を見ました。
海舟と春嶽はすばやく”薩長連合”優位の時流に気付いたのか、竜馬との仲直りを小楠に進言します。
小楠の基本的な考え方は、”公””私”を基軸に考える公(公武合体の公ではない)社会全体の事を考え、私は如何に行動すべきか?考えた。そして日々思想は変化する、新しい真実や新しい思想を知り、それが正しいものであれば変質漢と言われても改めるにしくはないです。普通の肥後人とはこの点大きな違いがあります。薩長連合も受け入れています。ところが、仲直りの酒を酌み交わす暇も無く、竜馬は1867年、小楠はその翌々年1869年暗殺されます。
竜馬が描く、薩長の倒幕後の組閣人事には小楠の名が、倒幕功労者でもないのに、上位にあったそうです。

明治政府での小楠の参与職は、事実上の総理格らしいです。大久保、西郷の上です。岩倉の信任が厚かったようです。
参与として力量を発揮する寸前に暗殺されてしまいました。残念ですね。
竜馬と小楠が暗殺されていなければ、明治はもっと違っていたでしょう。現在の停滞も此処に帰結するのかなぁ?



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