旅、そのココロは?

最近、よくアジア方面に出かけていますが、そのココロは? のタイトルの中で、私自身の気持ちの整理を少しずつ、していきたいと思います。

最初の一人旅は、中学2年の時、サイクリングで佐世保市、長崎市、島原市、三角町、熊本市、荒尾市と有明海をぐるっと回る、6泊7日の旅でした。佐世保市のみ親類の家に泊めてもらいましたが、他は、安宿および見も知らぬ個人の好意に甘え泊めてもらった旅でした。その後、学業に忙しく? 次なる旅は東京で大学生、専門学校生活をおくるようになってからでした。国内は登山もふくめて、寝袋かかえてうろうろと。海外は台湾、韓国を中心に回っていました。台湾へは当時九州郵船が鹿児島から沖縄および八重山諸島経由で運行していました。韓国は下関から関釜フェリーで在日韓国人のオモニ達と仲良くなり運び屋の手伝いをしながらの渡韓でした。写真の専門学校での卒論のテーマは『韓国の民衆』のテーマで韓国の田舎へも随分と行きました。

独身のうちは自由に動けましたが、結婚し、子供ができると家族中心の旅行、キャンプに終始していましたが、約20年ぶりにパスポートを取る機会になり、それが修学旅行同行記(中国)なのです。

家族と仕事中心の生活にそろそろ疑問を感じるようになってきた時期でもありました。もうひとつは、周りの知人、友人の、複数の突然の死でした。若い頃には考えもしなかった問題である、老、病、死です。身体も50肩、目も高校時代以来近眼でしたが、最近メガネをかけていると近くのものが見えにくくなりました。近くを見る時はメガネを外しています。遠近両用メガネはどうしても慣れません。カメラマンにとって目が命なのですが、35mカメラはオートフォーカスの便利な機能に助けられ、大型カメラはルーペがあるとなんとかなりますが、疲れがたまり目のカスミでボーっとしか見えない時には愕然とします。歯も入れ歯のお世話になりました。人の一生、仕事、家庭ばかりではないのではないか? 私の父母がそれですが、それはそれですばらしいのですが! 店鋪付きマイホームのローンも払ってしまったじゃないか? 生命保険もたくさん入っているし、60歳までは仕事もするし(60才でやめられるかな?)年3回、年末年始と5月の連休と御盆の時期に旅に行って来るとの宣言をしました。もともと、遊び人? の性格で、まわりの人々の迷惑かえりみず、近頃、1週間から10日くらいの休暇をとって、出歩いています。休みは長く取れないわ、金はないわ、で東南アジア中心の旅ですが、物価は安い、食い物はうまい、ねーちゃんはきれい?で、あこがれの南米には自営の仕事を止めてからになるのでしょうか、それまで、体力的に、精神的に元気でいるのでしょうか? 北米、ヨーロッパにはあまり関心はないのですが、アフリカは歩きたいですね。

介護保険制度がスタートしましたが、これは私にとって無用にしたいと思っています。身体を自分でコントロールできないようになれば、それまでの命だと判断したいと思います。医療の延命処置も無用だと家族にも言っています。さらに、漠然と、旅の空で生涯を終えるにはどうすればいいか考えています。日本仏教の墓では土に帰れませんよネ。葬式も墓も形骸化しているように思われてなりません。私が死を迎える時には、それらは不要だと言っていますが、どうなることやら、死んでしまってからは分かりませんので、、、。きちんとした遺言を残しておく必要がありそうですね。

死ぬ原因はどのくらいあるのでしょう? 癌、脳卒中、心筋梗塞(心臓病)、交通事故、自殺くらいでしょうか。脳卒中はポックリ死ねればいいのでしょうが、生き残ったら悲惨ですね。ボケを伴ったらさらに大変ですね。人格をなくしても生きねばならないのでしょうか。生かされている本人は幸せでしょうか。心臓病は突然死ぬわけですから、これもいやですね。癌で死ぬのが一番人間らしい死に方なように思われます。癌の宣告を受けても数カ月は生きられるわけですから、その間に死ぬ迄の時間をどう使うか、自分で計画を立てることができますから、あと何ヶ月の命なのか宣告してもらいたいですね。

私は人間ドックとか成人病検診とかに疑問を感じ、それらに行かなくなってから8、9年になります。たとえば癌ですが、癌は細胞の老化の一種だと思いますし、老化が自然の成り行きならば、癌で死ぬのもまた、自然のことではないかと思っています。症状が出てから病院に行けばいいのではないかと私は考えています。

生命の尊厳とは個人の主体性にゆだねられるものだと思いますので、それぞれの個人の判断で死を決断してもいいのではないでしょうか? 恐れる事は突然の事故などで、自分の精神身体が自覚できない状態になったときは恐いですね。頭が壊れる現象(痴呆)の徴候が少しでも自覚できるようになったら、自死の手段を考えたいと思います。自分の死体をさらしたくないので、確実に死体が発見できない方法、たとえば、外洋行路の客船に乗り大海原にて夜、海に飛び込むとか、、、。あと、どのような手段があるでしょうか? 

私は死後の世界などと考えた事もありません。死は物理的消滅であり、肉体は土に還り魂も消滅するとキッチリと考えています。つまり無神論者なのですが、生死観を考えようとインドに行き仏陀の歩いた道を辿ったりしましたが、私にとって仏教は信仰ではなく哲学なのです。極楽浄土よりも『無』とか『空』の思想を知りたいと思っています。死が自己の消滅であれば生が有限だと自覚され、だからこそ有限である生が輝きだしますよね。              

最近、家族にも周りの人々にも迷惑をかけながらも、時々一人旅に出かけている事を正当化する訳ではないのですが、インド哲学の『林住期』の過ごし方を実践している向きもあります。その『林住期』とは何かと言いますと、紀元前後頃、インドでは春夏秋冬の四つに分けた人生観が知られていました。春は、希望に燃え勉学に励む「がくしょうき学生期」。夏は職業に励み、家庭を築く「かじゅうき家住期」で一番大変な季節です。ここで一生懸命働き、社会的、家庭的なつとめが一段落したところで、ようやく涼しい風が吹いてきて秋の「りんじゅうき林住期」に入ります。ホット一息ついて、自分の人生に向き直り、生きる意味を考え直したり、自分自身の為に行動を起こすのが「林住期」だと言われています。
人生の秋というと、日本では物寂しいイメージを思い浮かべますが、秋というのは、一生懸命育てた果実を味わおうという一番楽しみな季節なのです。そこで存分に果実を味わい尽くせばあとは未練なく、すがすがしく葉を落とし枯れ尽くした樹木のように淡々と人生を終えられるのではないかとの考え方です。人生の冬は巡礼という意味がある「ゆうぎょうき遊行期」。全てを捨て出家し、死に場所を求めて聖地を巡礼する。理想の人生の締めくくりかたなのでしょう。
これがインド哲学における人生の春夏秋冬です。私はこの考え方におおいに共感を感じます。

旅のスタイルはバックパッカー風です。リュックひとつでの一人旅のスタイルにこだわっているわけではないのですが、歩きやすく、安全を考えるとそうなります。若者のなかで流行っているバックパッカー、お金がないのでの必然ではないようです。パックツアーとの違いですが、あらかじめセットされた旅の消化の旅と、その時々で造り出して行く旅との違いではないでしょうか。自らビザを取り、移動の方法を考え、宿と食事の場所を探す。その中に、地元の人との関わりができ、いろんな発見と感動が見つけられます。と書けば、なんの苦労もなく、スムーズな旅ができそうですが、さにあらず、ぼられたり、騙されたり、予定外のことに見舞われて、その都度計画変更になったり、苦労の連続の場合もあるのですが、自己責任において行動することの大切さを痛感することになります。安宿に泊まれば庶民の生活がそこにあります。周りの環境も庶民に取り囲まれています。それぞれの町のナマの生活に自然と触れることができます。

時間に制約される旅なのですが、陸路国境超えにもこだわっています。30数年前に訪ねた韓国の『板門店』以来、緊張感と、独特の風景に魅せられています。国境によっては、近所の人は自由に行き来していますが、旅行者にとってわかりずらいイミグレーションを探し、入国、出国スタンプをしっかり貰う仕事もたのしいものです。

最近はインターネットで知り合えた人と現地で会う約束をして行動を一緒にしたりもありますが、原則一人旅にこだわるのは、現地の人と関わり合いになりたいが為です。こちらが二人とかグループでつるんでいると、こちら側のバリアーを自然と作っていて、現地の人との距離ができてしまう。一人旅の場合他人を遮断するバリアーが存在しないわけで、自然と現地の良い人、悪い人、旅行者との関わりの中で旅をしていくことになるのです。嫌な事だまされる事もあるのですが、親切な人嬉しい事に会うと、嫌な事はすぐ忘れてしまいます。それらの経験は積み上げられる訳で少しずつ旅の方法、人を見る目も鍛えられていきます。スリに会わない方法とか、ボラレない方法とかです。ただ一つ、一人旅の欠点は、風景とか現象とかに自分が感動を得た時に、一緒にその感動を分かち合える人がいないことでしょうか? その点で、人は一人では生きて行けない存在なのでしょう。

初めて見る異国の風景、きょろきょろと辺りを見回すのは少年の目であり、この国のことは少しの知識しかなく言葉も解らず、頼れるのは自分自身しかなく、何もかも自分自身で切り抜けるしかなく、困難がなければ旅ではないと言い切れる自信はないのですが、でも困難が楽しいと思う感覚を持っています。そんなのカッコ悪いとか、若い内だけだとか言う人がいますが、ワクワクする気持ちは何ものにもかえがたいものがあります。

私の生きる上での一番重要なものは経験だと思っています。私の人生の価値は、その経験を死ぬまでにいかにどれだけ多く積み重ねるかで決まるように思います。旅はそのためのものでもあります。私は何故か愛国心とか民族意識とか家族への執着心とかがあまりありません。将来への不安が全然ないかと問われれば大いにあるのですが、人はいつか必ず死ぬし、死ぬ時は誰だって一人きりで死んで行くわけで、その間際が少しばかり裕福だからといってそれが幸福とは限らないと思います。私はバックパックを担いでどこかで死にたい。悔いはないし、怖くもない。人生なんてそんなもんさ。かな?

続く。

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