木山弾正 剛の者・・・弾正祭
 
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「怪力横手の五郎」という熊本の昔ばなし

 今から三百八十年ほど昔のこと、肥後の国に「横手の五郎」と呼ばれる若者がおった。
五郎は、加藤清正と一騎打ちをして負けた木山弾正の子だといわれるが、
これがまた大変な力持ちでな。
大の男が五人かかって運ぶような大石でも、一人でかるがるとかついでしまうぐらいなんじゃ。
じゃから、熊本城の石垣を築くときでも、五郎は人の何倍もよう働いてな、
みんなからちょうほうがられておった。

 清正も、ぬけ穴の工事や、大事な場所の工事には五郎を使うたという。
そんな五郎を、みんなは「横手の五郎は怪力じゃ」ちゅうて、ほめとったそうな。

 そんなある日のこと、いっしょに働いておる一人の男が五郎に聞いた。
  「五郎よ、おまえ、人の何倍もがんばっとるが、そんなに働いてどうするんじゃ」
すると五郎は、「こん城が、いつか自分のものになると思えば、
どぎゃんつらか仕事でん、きつうはなか」と答えるのじゃった。
父の仇の清正を討って、城を自分のものにしようとでも思うとったのかのう。


  ところが、この話を聞いた清正は、心おだやかではなかった。
それもそうじゃ、もしその話が本当なら、
いつ自分の命がねらわれるかわかったものでないからのう。

 こうしちゃおれんと思うた清正は、五郎に、井戸工事の仕事を命じたそうな。
五郎が井戸の底で仕事を始めると、上から大石を投げこませて、
生き埋めにしようと考えてな。

 ところが石が投げこまれると、井戸の底の五郎は、
落ちてくる石を両手で受け止めては上に投げ返してくるんだと。
そのうちに、片手で受け止めては左足の下にしき、
片手で受け止めては右足の下にしきしているうちに、
五郎は、だんだん上の方へ上がってくるんじゃ、
上にいる者は気が気でないもんじゃから、どんどん石を投げてくる。

そのうちに五郎は、みんなが自分を殺すために石を落としていることに気がついたんじゃと。
さすがの五郎も、もうこれまでと覚悟を決めたんじゃろう。

 「わしを殺すなら石ではだめだ、じゃりを入れろ」と大声で叫んだ。
なるほどと思うた上の者たちは、石のかわりにじゃりを入れはじめたそうな。

 みるみるうちに五郎の足が埋まり、ひざが埋まり、胸がかくれ、
やがて五郎の体は、土砂の下にしずんでしもうたという。

 一説には、城の人柱にされたのではないかとも伝えられるが、
横手の五郎の像は、今、熊本市花岡山の社に、
「横手の五郎大明神」としてまつられておるということじゃ



  
 横手阿蘇神社
                     一番右は焼け残った横手五郎像

 花岡山麓の横手町に鎮座され、阿蘇の大神である健磐龍尊を始め十二神をお祀りしております。
この阿蘇神社境内にはお堂があり横手五郎像が安置されております。
 横手五郎は戦国武将の子として天正十三年(1585)に横手村で生まれました。
 五歳の頃には米俵を担ぎ九州一の筑後の男を投げ倒したなどの力話が残っております。
 天正十五年(1587)の天草の乱で、加藤清正公と一騎打ちをして敗れた父の仇をとるため、清正公が熊本城を築城の時代に五郎は石運びの人夫として働いていたとされます。
 凹形の大石を軽々と首に掛けて運ぶその怪力無双と真面目な働きぶりが次第に評判となりましたが、清正公に仇討を見破られてしまい井戸の中へと落とされて殺された、と伝わっております。
 人々はこの五郎の死を哀れみ吉祥寺に祀りました。
 明治になり横手阿蘇神社の境内に毘沙門堂が建立され、そこに横手五郎大明神として祀られました。
 昭和五十一年に不慮の火災により神社の一部や毘沙門堂が焼け、五郎像も類焼しましたが、その後再建を果たし今でも親しみを込めて「横手の五郎さん」と呼ばれております。
 また同横手町には横手五郎碑もあり、当神社から赴いて御霊鎮めの祭事を斎行しております。