木山弾正 剛の者・・・弾正祭
嗚呼木山弾正

弾正祭の謂れになっている「木山弾正」の出自はどうなっているのか、
所謂氏素性は何なのか、
一体何時頃・どうやってこの益城、木山に住み着くようになったのか
ということからお話をしたいと思います。


【官 職】

木山弾正と私たちは呼んでいますが、弾正と言うのは名前ではなく、
朝廷から授かる官職の事でして、
豊臣秀吉が「羽柴筑前の守秀吉」と名乗っていた時代がありますが、
筑前の守も官職の名前です。
後の関白太政大臣も同じく官職ですし、他には浅野内匠頭の内匠頭も同じです。

弾正と言う役職は、風俗の取り締まり、不正の摘発を行った役所で、
今の警察庁や、検察庁に当たりますが、悪しき者をことごとく正すという意味から
織田信長を始め、武家に人気があった官職です。
後に検非違使に取って代わられ、名誉職になってしまいますが、
織田信長や、上杉謙信、松永久秀も弾正を名乗っています。


【出 自】

では、木山弾正の正式な呼び名はというと、
「源の朝臣 木山弾正 正親」と呼ぶのが正しい呼び方だと思いますが、
いま申し上げたように「源の朝臣」ですから、
木山弾正の祖先を辿れば源氏と言う事になります。

清和天皇の孫、経基王が天皇家から臣下に下った際に
「その源を辿れば天皇家に通ず」という意味合いから源という姓を賜ったのが最初で
「清和源氏」の始祖に当たります。
この清和源氏からは鎌倉幕府を興した源頼朝や、
その鎌倉幕府を倒して室町幕府を興した足利尊氏、江戸幕府を興した徳川家康など、
所謂「武家の棟梁」として大活躍する人物を排出していますし、
征夷大将軍は清和源氏でなけれはなれないという風潮が生まれています。
実際に公家以外の征夷大将軍は全て清和源氏の末裔です。


【苗 字】

源頼朝や義経は「源」と氏をそのまま苗字として使っていましたが、
その他の清和源氏の武将たちは、支配した領地の地名を苗字として使用しています。

下野の国足利庄に住んだ足利氏、上野の国新田郡に住んだ新田氏、
甲斐の国武田村の武田氏というように、「源」という氏は名乗らなくなります。

源頼朝が鎌倉幕府を興しますが、3代将軍実朝が亡くなって以降、
頼朝の妻北条正子の実家であります北条氏が
源氏に代わって執権と言う立場で幕府の実権を握りますが、
1333年、16代執権守時の時代に後醍醐天皇が、
新田義貞・足利尊氏の助けを得て室町幕府を倒して、
武家中心の政治から天皇親政の政治に改めるという「建武の新政」を打ち立てます。

しかし、足利尊氏との折り合いが悪く、
尊氏は1336年後醍醐天皇に代わる新しい天皇を擁立し、
尊氏側が北朝、後醍醐天皇側が南朝という、
二つの朝廷が存在する南北朝の時代が始まります。

後醍醐天皇の南朝方には新田義貞、楠正成の一統が味方をしますが、
全国の武将も北朝側、南朝方と分かれてしまいます。

後醍醐天皇には子供が沢山居ましたが、僅か8歳の
「懐良親王」を征西将軍に任じ、九州の南朝方に勢力拡大を託します。

筑紫に渡った後、肥後に入りますが、肥後の有力武将、
菊池氏・阿蘇氏が南朝方に付いていましたので、菊池氏に身を寄せます。


【新田為綱から木山為綱へ】

懐良親王に随行していたのは僅かな手勢でしたが、
その中に新田義貞の親族で、新田為綱という人物が居ました。

菊池氏の武光・武政から菊池郡川原郷木山邑を与えられ、
館を作って住みますが、木山に居住したことから「木山為綱」を名乗ります。
これが木山氏の始祖、初代ということになります。

その後度々戦で武功をあげますが、次第に菊池氏が衰退して行き、
嘉吉年間といいますから1441年頃になりますが、
5代信幸の時代に阿蘇氏に招かれ、その旗下に属し、
益城郡腰尾郷を与えられ、そこに築城して益城郡の六ヶ庄を支配します。

ここ木山城址がその時築城された城跡です。
その際に腰尾郷をそれまで木山氏が居住していた木山邑と改め、
以後益城郡腰尾郷は木山邑と呼ばれることになり、現在までその呼び名が続いています。

9代惟興の時代に室町幕府は実権を失い、戦国時代に突入します。
国を挙げて戦乱が続き、ここ益城でも、天文年間と言いますから1530年代に、
木山氏が下陣の城主光永を破り領地を広げ、赤井村に新しく赤井城を作り、
惟興は赤井城に入り、木山城には弟「木山弾正正友」を城主とします。

この木山弾正正友が弾正祭の木山弾正正親のお父さんに当たります。

やっと前置きが終わりまして、いよいよ木山弾正正親の時代に入ります。


【島津侵攻】

豊臣秀吉がようやく天下統一を成し遂げかけた天正13年、
西暦1585年、薩摩の島津氏が勢力拡大を図り、相良氏の水俣城を落とし、
余勢をかって木山へ侵攻してきます。

木山弾正正親は豪勇無双で知られる豪傑で、
戦国武将剛勇番付で後藤又兵衛や、山中鹿之助らと肩を並べている位ですが、
如何せん島津の大軍相手では力も発揮できず、
赤井城落城の知らせを受けると自ら木山城に火を放ち、
煙に紛れて城を脱出します。
弾正の正室お京の方の実家に当たる天草本渡城主の天草氏を頼り身を寄せ、
客将として迎えられます。


【国衆一揆】

天正15年豊臣秀吉から肥後一国の統治を任された佐々成政が、
秀吉から肥後は領地経営の難しい所だから検地は決してするなという命令を破って、
検地を始めたところ各地で国衆達の一揆が始まります。

肥後もっこすといわれるお国柄で、
鎌倉時代から守護や地頭の支配権は領民へは及ばず、
在地領主である肥後52人衆と呼ばれる国衆達が実権を握り続けていました。

一揆の責任を取らされて佐々成政は切腹させられ、
代わって加藤清正が肥後の北半分、小西行長が南半分を与えられます。

天正17年西暦1589年、小西行長が宇土城を築城する際、
行長の領地である天草の国衆に城普請を命令したことから
天草国衆と対立が始まります。
行長軍は加藤清正の援軍とともに志岐城を攻撃します。


【清正との一騎打ち】


本渡城に居た木山弾正は兵500と共に志岐城の応援に向かい、
仏木坂で加藤清正軍の陣中へ飛び込み、清正との一騎打ちに及びます。

虎退治で有名な加藤清正と、豪傑木山弾正の戦いは容易に決着が付かず、
戦いは一刻に及びあたりには夕闇が迫ってくる。

ついに木山弾正が清正を組み敷き、
馬乗りになって今まさに首級を挙げんとした時に、
暗闇の中から「殿は何処、上か下か」と駆けつけた弾正の家臣が声を掛けた。

弾正は生まれついての言語障害、「うう・・」という間に、
下に居た加藤清正が「下だ」と答える。

家臣は「清正覚悟」と、上に居た弾正に槍を突き立てる。
あわれ弾正は清正に馬乗りになっていながら家臣の槍で落命、
無念の最後を遂げ、仏木坂の露と消えた。

昨年増永会長と一緒に天草の弾正ゆかりの地を訪ねたのですが、
この仏木坂にも行ってきました。
苓北側から本渡へ向かうと、どう見ても下り坂に見える弾正坂があります。
車を止めてギヤをニュートラルにしたら、車がどんどんバックしてきます。
私はその様子をビデオに撮っていたんですが、鳥肌が立ってしまいました。
そのちょっと先にお京が坂があって、ここも下り坂なのに戻ってきます。
弾正とお京の方の怨念がそうさせているらしいという伝説が伝わる、仏木坂。
これ以来、木山弾正無念坂と呼ばれるようになりました。


【兜 梅】

志岐城を落とした行長・清正軍は、次に本渡城に総攻撃をし掛ける。
十重二十重と囲まれもはや落城かと思われたときに、
城門が開き甲冑に身を包んだ50騎余りの騎馬武者が躍り出た。

当たるを幸いなぎ倒し、「我こそは木山弾正、清正は何処」
と叫びながら敵陣深く攻め入った。
死んだはずの弾正が現れた、と恐れおののく清正軍。

この騎馬武者こそ誰あろう木山弾正の奥方お京の方だった。
夫の鎧兜に身を固め、緑の黒髪を兜にしまい、
お付の女性を始め、50騎全てが女性の武者だった。

憎っくき清正まで今一歩と迫った時、
低く枝を伸ばした梅の木の枝に兜の錣を絡ませてしまった。
兜が落ちるとお京の方の黒髪がバラリと落ち女性であることが分かってしまった。

それまで恐れていた清正軍は女と分かると雑兵が寄ってたかって切りつける。
苦しい息の下から「うらめしや、憎き梅の枝かな。この梅の木、
これより後は花は咲けども実はならせぬ」と恨みを込めて言い残し、
お京の方は息絶えた。
哀れお京の方も戦場の露と消えていったのです。

この梅は今も本渡城のすぐ近くにある延慶寺の庭に「兜梅」として残っていますが、
花は毎年咲くものの、実は成らないということです。


【横手の五郎】

この合戦で弾正の嫡男「傳九郎」も亡くなりますが、
弾正の遺児で家臣に預けられた木山五郎が居ました。
木山五郎は横手村祇園山麓に浪宅を構える横手弥太郎が預かったことから
「横手の五郎」と呼ばれていました。

子供の頃から力持ちでしたが、長じて70人力と呼ばれる怪力に育ちました。
五郎は清正を両親の仇として狙っていましたが、
ある日、清正の行く手を阻んだ牛をその怪力で一人で動かしたことをきっかけに、
清正の足軽としてつかえることとなり、
城普請の工事現場などで進んで働いていました。


【猫伏石】

ある日熊本城の土台になる基礎石探しを清正に命じられ、
木山川を上り西原村まで行った所でやっと見つけることが出来ました。

猫伏に大きな石を4つ乗せ、大急ぎでお城に戻る途中、
広安まで来た所、余りの重さに猫伏が破けてしまい、石が落ちてしまいます。
仕方なく2つの石は道に置き、
残る2つの石を両手に抱えて城に戻りました。

この残された石が「猫伏石」として広安に今も残っています。


【首掛石】

お城の石垣の石は、熊本城の西約2キロほどにある花岡山から運んでいましたが、
五郎が石を運ぶ時に力を入れたら、ぬかるみに足が入ってしまい、
その跡が池になってしまったという「五郎が池」が
花岡山の北側に当たる横手にありましたが、
現在は埋め立てられてグラウンドになっています。

ある時、重さが五百三十貫(約二千キログラム)もある、
二股になっている角石を運ばなくてはならなくなりました。
数人の男が動かそうとしましたが、びくともしません。
みんなは困ってしまって、がやがやと相談しているだけでした。
そこへ五郎がやってきました。

「さすがの力持ちも、こん石だけは運ぶこつはでけんばい。」
「いくら七十五人力ていうたって、動かすこつもできまい。」と、
みんな口々に言いました。
五郎はだまって大石のそばまで来て、その二股の石にむんずと組み付いたかと思うと、
ヤッとかけ声をあげて軽々と持ち上げてしまいました。
そして、その二股のところに首をかけ、
のっしのっしと運んでいってしまったのです。

この時の石が「首掛け石」と呼ばれ、熊本城の天守閣の前に置かれています。


【露 見】

五郎が余り熱心に働くので、人夫達がいぶかって聴いたところ、
「いずれこの城は俺のものになる」と話したことが清正に伝わり、
木山弾正の遺児であることが露見してしまいます。

清正は五郎に井戸掘りを命じ、一人では上がれない深さになったとき、
家来に石を落とすよう命令します。

下に居た五郎は落ちてくる石を受け止め、上へ投げ返しますが、
次々に落ちてくるので、受け止めた石を下に敷きどんどん上へ上がってきます。

そのうちに誤って落ちてくるのではないことに気づき、
もはやこれまでと観念して「俺を殺したければ、石ではなく砂を埋めよ」と叫びます。

これを聞いた清正の家来はすぐに砂を運んで井戸の中へ投げ込みます。
ついには五郎は生き埋めにされて絶命しますが、
この井戸が現在どこにあるのかは分かっていないようです。


【木山氏の子孫】

こうして木山弾正と奥方、息子と弾正の家系は途絶えてしまいますが、
赤井城主だった木山惟興の子孫は、当時2歳だった信正を家臣が育て、
現在まで木山家嫡流として続いています。

本渡市にお住まいの木山惟彦氏が14代の木山家当主になります。

木山弾正や木山氏が木山でどんな領主だったのか、
どんな功績があるのかという事については、まだ調査中ですが、
1440年から1585年まで約150年間、
木山を平穏に治めてきたのですから、
木山氏は立派な領主であったことだけは間違いないと思います。



 
 木山弾正って誰?
 無念坂ってどこ?
 兜梅ってなに?
 横手の五郎って?
 首掛け石ってなに?
 ねこぼこ石って?
 弾正祭はいつ、どこで?
 
 
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