| 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ | |
7 具象と抽象の境界線 |
|
2006/5/30 |
|
――ピカソの絵は抽象ではなく具象だ、という見解があるようですが? モデルのある抽象美術とみていいでしょう。ピカソの絵は具象の3パターン、つまり人物、静物、風景にきっちり分かれていて、『イカロスの墜落』のような空想画はまれです。 |
|
――モデルがあるのだから具象だ、というわけにはいきませんか? モデルをいくら変形しても具象と呼ぶなら、モンドリアンの「図形塗り分け」も具象と称することになります。モンドリアンは風景を簡略し、単純化して最極端へたどりついた純粋抽象の親分で、途中過程の絵も残っています。その最終的な純粋抽象までも具象と呼ぶなら、分類の意味もなくなって、やはりどこかを境に抽象と呼ぶ方がピンときます。 |
|
――いっそのこと具象、抽象の分類なんかやめればどうでしょう? それでいいのですが、具象と抽象の間には、どっちつかずのクロスオーバー領域があるだけでなく、越え難い壁もあります。いつか私の知人は、応接間に並ぶ美術全集の一冊を出して、近世の写実画を開いてこう言いました。「こうした絵はよくわかる。でも抽象はわからない」。憤慨した様子で。抽象は腹立つ、これもひとつの境界です。 |
|
――20世紀に、わからない絵や彫刻が出現したから、皆が分類に悩み出したのですね? まず19世紀後半に、好感の持てない絵が続々と現れます。印象派です。着想はサイエンスと関係があり、太陽光が7色から成って各色の反射率で物の色が決まる光学の研究成果をヒントに、ならば色点を敷き詰めても肉眼で混じって具象画が成り立つという理論でした。デジタル的な発想です。細長い筆タッチを渦巻き形に並べ、異形の糸杉に見せたゴッホもその延長上にいます。 |
|
――印象派がピカソの抽象へと、どうつながったのですか? セザンヌの面取り具象が仲立ちしました。セザンヌは印象派の色点をやたら大きくした面で外形をつぎはぎにして、人物や風景をそれらしく表して、モザイク画に進んでいます。ピカソは駆け出しの頃、何度も他人のアイデアを踏み台にし、晩年のセザンヌ作に似た絵も試作しています。そのモザイクを極度に粗くすると、正面顔と横顔がつながった、あのピカソ画風になります。 |
|
――ゴッホやセザンヌはわかるが、ピカソがわからない人は今も多いですね? その壁が厳然とあるから、ピカソは抽象なのです。書道やボールペン習字では、楷書、行書、草書と書体が崩れるほど、何という字なのか読みづらくなります。年配者がスラスラ読める行書を、若者がわからないと言い出す場面がよくありました。これが「写実はわかり、抽象はわからない」の現象に似ています。 |
|
――抽象がわからない人は、「何がかいてあるか」に執着するから、入れないわけですね? 模様の柄をながめるつもりで足りるのに、絵を字のように読み解こうとして、「くずし」に阻止されるのでしょう。「好きな絵は具象、嫌いな絵は抽象」という人は、各界に多いのです。ちなみに書道の世界の方が、読めなくても美しい字という鑑賞で、柔軟性はあったりします。 |
|
――「目で見るからわからない、心で感じるべし」という訓辞も聞きますが? 「心で感じる」も難しい言い方で、誰だってまず目で見て形態認識を試みます。そして脳が記憶する図形ボキャブラリーと照合し、知らない形だと反応が分かれるのです。知らない形に関心が持てる人と、不機嫌な人がいます。 |
|
――抽象がわかる人は、先天的か後天的か、どちらでしょうか? 後天が多い気がします。ただし比較的若い時の後天かも。美術への許容の個人差は脳のはたらきの差で、これは意味不明の外国語の歌曲が苦手な人と、全く平気な人の差に似ています。半分苦手で半分平気という中間の人は、どうもいないようで。洋楽アレルギーの人は歌詞でアウトですが、洋楽ファンはヴォーカルも器楽音としてそのサウンドを鑑賞します。歌詞がフランス語でも、ポルトガル語でも問題なし。この耳のつけどころの違いは一見素質にみえて、どこかで突然開ける体験があると思われます。 |
|
――地域的には、写実は西ヨーロッパ圏に限られ、地球全体で少数派だということですが? 写実具象はフランス、ドイツなど西欧中心のスタイルです。誤差のない具象画を求めて、ついに両国でカメラが生まれた話が知られます。一方、南北アメリカ大陸やアフリカ、オセアニア、また大部分のアジアは、長く抽象美術の文化圏でした。ピカソが北アメリカのトーテムポールに興味を持ったように、20世紀抽象は非ヨーロッパ美術に学んでいます。 |
|
――西洋で抽象を作らなかった頃は、抽象が苦手だったのですかね? 16世紀のスペイン人がそうでした。インカ帝国(今の南米ペルー)を征服した時、ヒトやヘビやジャガーの抽象彫刻を奪って山と持ち帰りました。しかしミケランジェロなどを至高とする写実主義の西洋では、抽象はわかるわけもなく、彫刻を博物館でなく火に入れました。金塊に戻すために。現在見るインカ秘宝展は、黄金の彫像がほとんどなく、織布と石彫りが中心の地味な展示になっています。16世紀の人が抽象が苦手だったせいで、21世紀にも制約になっています。 |
|
――日本人は抽象が得意ですか、それとも苦手ですか? 昔はどう見ても得意でした。古い染め物の柄は現代抽象画そっくりで、陶芸にしても、中国の器にみられる具象の細密画よりも、楽焼きのような不定形に流れた釉薬にひかれます。今でも、海岸で拾った流木を動物に見立て、二股大根を擬人化するなど、抽象的発想は日常によくみられます。 |
|
――どこで、抽象が苦手に変わったのでしょうね? 明治大正以降に、西洋に右にならえしたとの指摘が定着しています。正面切って美術鑑賞する場では、どんどん抽象から遠ざかっていきました。16世紀スペインにどんどん似ていくような。日本的な手先の器用さに、写実主義がフィットし過ぎた面もあるかも知れません。 |
|
――日本のどの美術館を見ても、19世紀の印象派が目玉になっているようですが? 日本人の印象派好きは、あいまいでセンチメンタルな国民性だとの説がありますが、あいまいでセンチな抽象はやはりダメです。あいまいかどうかではなく、抽象かどうかが分かれ目。抽象の敬遠は、実は音楽でも起きています。アメリカの管弦楽コンサートでは、初耳の現代音楽がよく混ぜられます。日本では無理。取っ付きの悪いアブストラクトな現代音楽は外され、ドボルザークとタケミツを組むプログラムは普通はタブーです。 |
|
――具象と抽象の摩擦と似た話ですが、日本人はアンチ・オリジナルだと昔から言いませんか? オリジナルよりスタンダードを愛する感性は、横並び志向のお国柄でよく説明されます。しかし、ある程度は人類共通になっています。パリのフランス画壇はゴッホを完全無視し、ピカソに極刑を下したぐらいで。日本ではあこがれますが、フランスには創造排除の国という一面もあるのです。 |
|
――なのに、フランスは芸術大国となっていますが? かなたの芸術の都に対し、日本は消費国止まり、その違いはたぶん拾う神です。例えば電線に代わる光ファイバーの原理は日本人の発明ですが、日本の有力者は傍観したので、アメリカに拾われました。「それ実は私も注目していました」と、後で言い出しても遅過ぎ。欧米が関係してきた後で、国内が前へ動き出す現象はよくあります。写楽や歌麿の原版の海外流出など、指摘が野暮なほどで。 |
|
――抽象美術がわからない人に、何か抽象に入門するための作品はありませんかね? 十分に味が濃い抽象をひとつあげるなら、古代中国の殷〜西周の青銅器です。 |
|
――それは、わかりやすくて親しみやすい抽象美術なのですか? 全く逆です。わかりません。親しめません。でもその先がすごい。意味不明のまま目を吸い寄せられて、けっこう驚くはず。それはなぜか。取りえが、魔力的な造形ただ一点だからです。何しろ4000年前の作で、作者の顔も人となりも、生まれ育ちも学歴も実績もわかりません。作者は女か男かも不明の、160世代前の何者か。40世紀後の人に衝撃を感じさせるのは、作品が造形だけで完結しているからです。 |
|
――現代美術は、付加価値に支えられていますからね? 青銅器はブツだけが、ガーンと異彩を放っています。お題目はいりません。現代の情報化美術は、能書きや付属情報がないと鑑賞がつかえてしまいますが、青銅器はあべこべ。「意味は何?、偉い人?、どういう評価?、誰の推薦?」とたずねたくなる前に、いきなり引き込まれます。見た人は皆「これ、すごい」とため息。 |
|
――今の美術は、話題性で支えて成り立っているからですね? 「行動も思考も人生丸ごと全部がアートなのだ」という総合パフォーマンスを近年よくみます。しかし、太古の愚直に手作りした生活工芸品たった一個の前にかすんでしまう・・・。何か美術にとどまらない教訓になりそうです。 |
|
| 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ | |
| 電子美術館へ戻る | |
Copyright(C)2005 21SEIKI KOKUSAI CHIHO TOSHI BIJUTSU BUNKA SOZO IKUSEI KASSEIKA KENKYUKAI. All Rights Reserved. |
|