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電子美術館のQ&A

10 子どもの絵、幼児の絵は芸術か

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2006/7/15

――よく地域イベントで、子どもの絵の展覧会をやっていますね?

商店街の一角や銀行のロビーなどでも、幼稚園児の絵を集めた展示を見かけます。クレヨンで画用紙にのびのびと自由に、時に豪快にかかれた絵は、アマチュア美術展のひとつの定番といえるでしょう。落書きのごとき絵をけなすのに、「まるで子どもの絵みたい」という慣用句がありますが、幼児の絵は一味違います。

――なぜ大人は、幼児の絵に関心を持つのですか?

大人が愛する理由は、絵に心洗われるからで、原因は物心つくか、つかないかの幼児は、うけを狙わないからです。それは、幼児の言動が真っ直ぐで屈折していないのと同じ現象です。

――幼児の絵は、間違いなく芸術作品でしょうね?

とは言わず、美術界ではあいまいです。理由はいくつも考えられます。まず長老画家の絵と、ほとんど正反対の性格の絵が堂々芸術だとすると、何を指して芸術なのかが怪しくなってくる点。絵の良し悪しの秩序がこわれてしまう・・・。また何の訓練もしない幼児が、難関の美術学校を出てさらに年季を積んだ画家と、同じ呼ばれ方はおかしいとか。第一、売れるものではなく、値上がりもないし。

――確かに幼児の絵に、商品価値はありませんね?

かけば必ず心洗われる絵ができて、幼児全員が天才画家だなんて、人間の能力分布の統計で考えても変だし、画家の序列も乱すとして心配するのは、画家だけでなく見る客も同じです。わざわざ買わなくても、我が子や知り合いから手に入るほど数も多く、かんじんの希少価値がありません。

――幼児の絵が芸術でないなら、いったい何ですか?

私は勝手に芸術とみなし、レファレンスのひとつにしていますが、一般には単に「子どもの絵」で片づけて終わっています。自然に存在する風景のような、心洗われるビジュアル体験と似た位置づけかも知れません。どちらかといえば人間的ではなくて、何となく自然現象とでもいうような。

――幼児の画集の中に、「この中から将来素晴らしい画家が育つかも」とありましたが?

それはないでしょう。素晴らしさの意味も、ゴッホを指すか官学教官を指すかで大違い、という話は置いておきます。としても、幼児の画才と画家の画才は、別次元です。別扱いせよと私が言っているのではなく、世間では別の意味の画才がごっちゃになっているという意味です。幼児は全員がのびのび自由に絵をかくので、その画集の掲載作品に限られた特別なことではありません。

――その作品集は、全国から選んだベストセレクションではないという意味ですか?

画集にのっていない全国の残りの幼児たちも、画集と同等の絵がかけるわけで。だから、画集の中から画家が輩出されるパーセント数は、全国の幼児のうち画家になったパーセント数と同じでしょう。

――画家にならないにしても、美術系には進みそうな気はしますが?

「大人顔負けの絵」と称賛された幼児も、大人になれば「絵心がない自分は・・・」とか「抽象はわからん」とか言い出すことでしょう。もうひとつ確実な点は、私たち大人の全員が、あのような絵をかく時期があったということです。私たちも子どもの頃に、ピカソのような絵を平気でかいていたのです。

――幼児の絵の豊かさは、幼児の間だけ現れるわけですか?

そのとおりで、つかの間の至芸です。生まれて4、5日の赤ちゃんは全員が上手に泳ぐ、という話を連想します。だから私の関心はアフター幼児の方、つまり物心ついた後に絵が貧弱に変化していく、人間の心の仕組みの方にあります。

――幼児の絵は、大人と何が決定的に違うのですか?

幼児の絵には、うまくかいて人の関心を引こう、優れものとして注目され、賞賛を得ようとの気がありません。これが大人の絵との決定的な違いです。相手の目を意識せず、駆け引きがない。欲が心の片隅にもないから、上手を演じることなく絵が晴れているのです。

――その幼児の晴れた絵が、いつ、どうして曇っていくのですか?

年齢が進むと、光景、自分、画面の3つの関係に、他人の目という強い力が割って入ります。早い話、うまくかこうとがんばる。向上心と責務。競争心や功名心、絵で何かを得ようとする心のはたらきが野心となって、たちまち絵が曇ってきます。典型的な曇り方が、大人の絵の風情を取り入れる努力の跡です。絵らしさというやつ。絵になっているという。

――小学校も高学年になると、生徒間で絵の巧拙のレベルが開きますね?

先生に評価されようとして、見映えを向上させた子から順々に、あの心洗われる豊かさは消えます。中学以上になると、先生の好みを計算に入れたり、採点の傾向と対策を読もうとしたり。そんな要領を得ない子は、幼児の頃にはなかったような暗く萎縮した、いじけた絵に陥って画才なしと判定され、高校で美術科目をとらないなど外れていきます。

――美術科目をとって、さらに美術学校を志望する子は、次にどうなりますか?

高校以降の一握りの画才は、精密描写を習得して、角を落としトゲを抜いたり、目を引く誇張にたけていったり。前者は俗に言う売り絵の方向、後者は制作競技に多い化粧っぽさへ向かうのでしょう。どちらにしても、業界に存在する絵に似せていくわけです。組織への同化というか。

――幼児の頃の絵から、どんどん遠く離れていくのですね?

そうしたプロぶりをてらった技巧手並みに慣れた目で、改めて幼児の絵を振り返って見た大人は、可愛さとは別にある無垢と純粋、原始的な生気と解放感にハッとするわけです。人の世に久しく見ないものが、そこに広がっているから。相手に気に入られるアピールがなく、シナをつくっておらず、もの欲しさがない・・・

――かといって、大人が幼児の絵をかいたら、さすがにおかしい人だと思われますね?

そうでもなく、子どもっぽさをねらった絵は抽象系にけっこうありました。ルオーやクレーなどもそう。晩年のピカソは幼児性を強調し、日に日にへたにかいて、守りの姿勢を防いでいます。彼の1960年代の絵は、どんどん粗く汚くなります。

――従来のプロ画家たちは、そうした雑な絵に価値観を侵食され面食らったでしょうね?

技巧の円熟に価値を置いた日本では、道徳のようなガード体制ができました。「写実がうまい者だけが、粗くかく資格がある」という規範を用意して。これで理解不能のピカソと正面からぶつからずにかわし、やり過ごしたかっこうです。

――ありましたねえ、具象を極めてから抽象に進みたまえ、式の戒律のようなものが?

その論法だと、幼児の絵は無資格者による無免許運転になってしまいます。おきて破りの越権行為。規律違反。こういう面からも、幼児の絵はプロ画家にとって、適度にほめはしても、自分の仕事にはからめたくないし、深入りせずに脇によけておきたい、ちょっとめんどうな存在なのです。土俵に上げたくない相手。

――日本の前衛たちも、幼児の絵を好んで引き合いに出しましたね?

明治が遠くなっても、19世紀具象の洋画と銅像から動かない本流の停滞がまずありました。それに対して前衛たちは、具象と抽象の中間的な幼児の絵を示すことで、国民の開眼と我田引水を図ったわけです。

――幼児の絵では、ジャーナリスティックなうけは難しいのではありませんか?

幼児の絵には永遠性がある代わりに、同時代性のしっくり感がありません。時事とか社会性で共感する説得力は不足。普遍性が高い分、トレンディーな話題にならない・・・。このため前衛たちは、しだいにアイデア発明や情報アートに向かい、小難しくなるコースを取っています。明朗闊達な幼児の絵とは、これまた違う方向へ進んで行ったようです。

――画家の視点で、幼児の絵に感じるものは何ですか?

大人の絵の限界です。あちこちから「絵画は出尽くした」「やることはもう残っていない」というため息が聞こえますが、それは形式や型式の話です。画家はすき間なく何でもかけるわけではなく、ああいう感性も出せないリミットや、レンジとキャパシティの限度はやっぱりあります。できることは全部やったといっても、それは型番認定的な次元であって、内容的にはできていないことだらけです。

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