| 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ | |
29 現代美術の冒険者たち |
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2009/8/31 |
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――廃棄物を寄せ集めた彫刻がありますが、どう鑑賞すればいいのですか? 独自色の有無。これが芸術性の分岐点です。穏当から崩れた異質な何かがあれば芸術、創造、なければ非芸術、非創造。制作モチーフやコンセプトは常に変わりますが、この原理原則は変わりません。 |
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――ガラクタ美術は、どれも皆いっしょという印象ですが? ガラクタ彫刻は、独自色が出にくい形式です。原因は、ガラクタ自体が一定量の発言力を持つからです。何をやってもとりあえず形になって、腕や年季がなくてもカッコがつく・・・。そのカッコいいボリュームが、作者のキャラを食ってしまうわけです。結果、どの作品もガラクタ然とした印象にそろってしまい、自分らしさが埋没しやすくなります。 |
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――映画の中に、ガラクタの前衛彫刻が登場したこともありますね? 1967年に発表されたフランス映画『冒険者たち』に、鉄の彫刻が華々しく現れました。男女3人と男1人。紅一点の前衛アート作家レティシア、航空機パイロットのマヌー、エンジニアのローラン。4人目は元パイロット。冒頭、レティシアは自動車解体業の敷地に出向き、丹念に選んで廃車のドアを買い取ります。 |
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――それらを使って、まとまった数の彫刻を作ったのですね? レースカーのエンジンを研究開発するローランたちと知り合い、彼の工作所でガス溶接器を借り、彼女は鉄のオブジェをたくさん制作して個展開催にこぎつけます。 |
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――女流としてその場は注目され、しかしメディアのリポートで作品は悪く書かれますが? 不評の理由は、当世ジャンク・オブジェそのままだからでしょう。ガラクタの形を活かしながらの彫刻は、20世紀初頭のダダ運動以来、未来派、シュールレアリスム、60年代日本の全国前衛運動でも類似作が反復され、イディオムになっています。映画の舞台は、コンゴ動乱(1960〜65)の直後の時代です。 |
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――映画の当時、ああした彫刻はすでにどこにでもあったのですか? ジャンク・オブジェは市民権までは得ていません。しかし美術界では、もう既成ネタでした。 |
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――ああした鉄くず彫刻の、どこに魅力があるのでしょうね? 作る側には、意外に細部が魅力です。まず鉄の肌。そして鉄を溶接して彫刻にすると誰もが体験しますが、溶けた鉄が冷えて酸化皮膜を形成しながらくっつく神秘性と妙趣を発見します。映画の中にも、バーナーの炎でオレンジ色に溶融した鉄肌の美しいシーンがありました。 |
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――そうした材料が秘める魅力は、見る人に伝わるものなのですか? まず伝わりません。作る途中に魅力を振りまいた鉄の表情が、完成後には沈んでいるようすが、映画にもありました。作者が思い入れるほどには、他人を魅了しないものです。理由は、作る関心が全体と細部の間であいまいになる点もありますが、やはり作者の地声が消えて、どれも同じような印象にそろってしまうからです。 |
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――映画の中で、展示物がちょっと酷評され過ぎかと思いましたが? 挫折の表現なので、誇張はあります。ただ、酷評したのが何者なのかは注目すべき文脈です。保守派による革新批判なのか、革新派による革新もどき批判なのか。映画はおよそ後者に感じられました。 |
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――ガラクタ美術についていけない古典ファンが、ガラクタ批判したわけではないという? 写実の銅像愛好家による逆襲だとか、粗大ゴミを美にでっち上げた不道徳への叱責ではなさそうです。どうやら、前衛に遅れて加わった「型なぞり」への批判です。 |
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――現代美術批判といえば、斬新さや奇抜さへの反発だとすぐに思ってしまいますが? 映画では、「わけがわからない」ではなく「ありきたり」。個性の排撃ではなく、没個性の排撃。自己主張の強さをけん制したのではなく、弱さを突っついた・・・。刺激に驚いて飛びのいた仕返しではなく、生ぬるさに対する痛めつけでした。「今さらこの程度の造形に感興は起きません」と。展示会に打って出たのは冒険でも、作品の中味は冒険不足・・・ |
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――抽象美術は、新旧の両方から叩かれて、厳しい世界なんですね? 思い出してください、抽象系に要求されるのは「受け継ぎ」ではなく「断ち切り」です。具象の裸婦像のように、先例を追っていつも通りにやってわかり合える安心感は価値になりません。いつまでも変わらない良さ、という世界とは逆なのです。他に似たらだめとする世界が抽象。 |
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――それを言うなら、ブロンズ製の抽象オブジェだって、いつもの安心の材料で何を今さらですけど? 案外そうなりません。銅や鉄などの材質、絵の具やペンキなどの画材は、決まった顔つきまでは持たず、幅広い表現に使えます。音楽のピアノの音質にも似て。材自体の発言力は微々たるもので、どうにでも料理できて、作者のキャラを食いません。一方、ガラクタという「大粒の材料」を流用して加工した場合は、常に特有のメッセージを放つので、こうはいきません。楽器でいえば、ドラといった感じ。 |
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――彫刻家志望のレティシアに、足りなかったのは何ですか? 悪意です。彼女は、線が細くこわれやすい人物に描かれていました。うけない作風を続けて老後へ持ち込み、毒を盛った作品で勝負を続ける、ふてぶてしい執念はありません。駆け出し段階で簡単につぶれる、きゃしゃな善人、そして凡人に設定されていました。 |
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――映画よりも後の時代にも、美術界でガラクタ彫刻は作られていますね? 1980年代の立体造形はこの路線一色で、廃物のインスターレーションがイベント会場で大流行しました。これ系だけ認可するギャラリーもあったぐらいで。群集的に皆が同じネタで足並みそろえた時代です。当時各店にインタビューした私の記録に、これぞ美術の理想だ、最終形だ、これしかないと信念を語るギャラリーマネージャーたちの談話があります。 |
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――ガラクタ美術が、20世紀に急に生まれた理由は何ですか? もちろん20世紀抽象芸術運動が、最大の原因です。そして「科学の世紀」とも関係が深いでしょう。かつては自然を描くことがアートでした。それがサイエンスの急進と活躍のせいで、人が人工物にアートを感じるよう変化しました。そこは、機械の美術と共通します。 |
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――ガラクタ美術ブームは、なぜ何度も何度も反復したのですか? 魅力があるからです。「へたにオリジナルへ走るよりは、ゴミを集めた方が迫力が出る」というのは、ものづくりの正直な実感です。大学サークルの展示会などで、短時間で作品数が集まりボリュームがかせげるし。4月に入学したばかりの新入生が出品する時、できることは限られます。材料費もかからず、即席で形になるメリットが頼りになるのです。 |
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――レティシアはなぜ、ガラクタ美術に魅了されたのでしょうね? 流行です。確たるオリジナル造形を持たず、やりたいことを探す中で、ガラクタ美術の便利さを利用した筋書きだと思います。「女流なんて言わせない」と、故意や確信的に自己流の香りを出せば良かったのですが、そこが限界でした。らしく作るうちにガラクタが放つ定量のメッセージに埋没し、誰がやっても同じな結果で個性が出ませんでした。 |
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