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電子美術館のQ&A

30 アール・ブリュットと現代美術

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2009/9/24

――アール・ブリュットとは何ですか?

1949年に行われたアール・ブリュット展のこのタイトルは、フランスの画家デュビュッフェ(1901−1985)の造語で、直訳すると「生の芸術」「なまの芸術」「きの芸術」になります。20世紀抽象芸術運動の重要なひとつになっています。

――どういうコンセプトですか?

簡単にいえば、芸術制作の訓練を受けない、出世も眼中にない素人が、自然体で作った作品の魅力をフィーチャーしています。

――当時は受け入れられたのですか?

興行的にはOKで、思想的にはNGでした。

――どういうことですか?

英語タイトルが、イギリス人の手で「アウトサイダー・アート」に変えられていたのです。これはフランス語を直訳したものではないし、気のきいた意訳とも違います。作品をつくった人たちの社会的地位へ言及した、ひねった命名になっています。デュビュッフェのコンセプトにアウトサイドは出てこないので、トンデモな訳です。

――アウトサイダーだなんて、差別的な響きが感じられますよね?

アウトサイダー・アートの語は、ある種の失格をにおわせるのみならず、解説文中に心身のハンディキャップを持つ人たちを含めていました。特に、脳に器質的または機能的な疾患を持つ人へと、ポイントがずらされていました。外側、辺境、アザー、番外、オプション、付け足し、非主流、異端、別枠、特殊、もうひとつの世界、あちらの話・・・

――本来のアール・ブリュットには、あちらの世界の美術という意味はなかったのですか?

狂った人の狂った行動という意味はありません。アール・ブリュットの理念は、「技量と年季への反逆」です。美術を作る時に互いに矛盾し合う、対になる要素を浮き彫りにします。対になる一方は「ナイーブ、奔放、粗野」で、もう一方は「テクニック、習熟、洗練」と正反対の要素。両方同時には成り立ちません。しかし、この矛盾はあって当然の理(ことわり)です。遠ざけたり隠したり、取り消したらだめ。

――前に、芸術の矛盾に関する回がありましたね?

それと関係します。矛盾の存在自体は、創作の推進力になります。美術以外の他ジャンルの創作家たちは、この不思議に気づいています。音楽でも演劇でも、関係者は「とことん訓練すること」と、「とことん訓練しないこと」の両極端にはさまれ、己が矛盾した立場と心境を実感しながら活動します。

――演劇は特に、そんな様子ですよね?

全国一律の発声練習や準備運動を欠かさず、しかしその延長に何も創造が生まれないことは、劇の分野では実感しやすいようです。企画と演出のずれ、言いたいことと伝わったことの食い違い、完成度の逆説、成功法則が一定しないなど、とにかくハプニングが多い分野です。要因間の矛盾が激しければ激しいほど、何らかのクリエイトが生まれ出ると、理解しやすい分野が演劇です。

――美術界の方は、「とことん訓練しないこと」を単純にはねのけたわけですね?

美術アカデミーは、この正論の出現にあわてて、それをアウト領域へすぐに左遷したわけです。速やかに場外へつまみ出して、辺地へ幽閉しました。本来はアカデミズムと相対するブリュット、ツインで横に並ぶはずのブリュットを、Bクラスに落として下部に位置づけておきたい気持ち。その気持ちが、タイトルの付け替えとなって表れたと思われます。

――アウトへ追い出した動機は何だったのでしょうか?

利害です。高等教育と技量を誇るエリート意識が、事の本質をみる余裕を失わせ、対象を未熟や無教養やハンデのカテゴリーへ隔離する行動を急がせました。ブリュットは芸術の本質ゆえ、迫真的に観客の心へ入り込むので、エリートたちの往年の技巧作品を負かしかねません。さりとてエリート路線と正反対の、ブリュットというナマの原点に、今さらエリートたちが戻れはしないわけで。

――ブリュットにそれほど脅威を感じた権威者は、なぜ批判してつぶさなかったのですかね?

アール・ブリュットはあまりに本質を突いているので、叩いても勝てません。人類全員の行動の原点にあるから、いくらデリートしても無駄な抵抗。しかも現代美術の手法の宝庫たるシュールレアリスム運動よりも、さらに10年以上も後のことです。リベラルな空気はできていて。そんな中の苦慮のやりくりが、英訳以降の話題ずらしに表れています。認めながら認めないという・・・

――それと同じような対応は、他にも起きていませんか?

否定せずにわきへどけた前歴として、ルソーの「そぼく派」への反応があります。またいわゆる「プリミティヴ・アート」と呼ぶ北アメリカのトーテムポールや、オセアニアやアフリカの木彫、南米の石像や彫金なども、アウトサイドへ追いやられています。幼児の絵を難解な論の末、「よって芸術にあらず」とけんめいに却下する主張も、動機が似ているでしょう。ちなみに、ならばインサイドは何かといえば、西欧ルネサンスからクールベまでというわけです。

――結局、アウトサイダーという差別意識が、一番の問題なのですか?

少し違います。よく指摘されるような「差別的な扱い」は、焦点ではありません。焦点は、芸術と矛盾の関係性です。この事件の核心は「ハンデがある人への無理解」ではなく、「芸術が生まれる仕組みへの無理解」なのです。

――矛盾なんてとりあえずなくせと、人間はあわて者ですからね?

「ナイーブ、奔放、粗野」があって。そして「テクニック、習熟、洗練」があって。2つの相容れない矛盾は、芸術活動でゾンビのように現れ続け、創造のエネルギー源になります。片方に身を投じると、もう片方と無縁になったり敵対するのではなく、常に両方ともが敵と味方を兼ねて、創作家に襲いかかるものです。

――どちらを選びますか、という好みの問題でスルーする人も多そうですが?

確かに、あの頃のズッコケ話で済んでいません。新しい卵たちは、アカデミーのインコースと、ブリュットのアウトコースを、画家人生の分岐点ぐらいに考えがちで。「人それぞれですから、ああいうのもあってもいいんじゃないですか・・・」と、達観してブリュットをかわしたり。あっちかこっちか、二者択一で考えやすいのです。

――選択の条件に、損得勘定が入ってくるわけですね?

先輩が卵に、「アウトはおもしろいが上から嫌われるので、インで行け」とばかりに、デッサンの錬磨に発破をかける場面をみました。

――アール・ブリュットを、現代美術にどう役立てればいいのですか?

何もしなくても、十分役立っています。「アール・ブリュットを学ぶ」のは変な話で、自然発生する本能の領域だから、人工的な理念やコンセプトとは違います。しかし制作に没頭するとすぐに見失うので、「こちらを忘れていませんか」と原点回帰させる役割がありました。

――アール・ブリュットの本質は、ごく身近にあるものだったのですね?

払いのけたりしない限り、誰の元にも顔を出してきます。それも外からではなく、内から。アール・ブリュットを左遷した人たちも例外ではなく、各自の中で辺境の地から本部へと、いつでも本質を戻してくることができます。

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