| 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ | |
36 美術の好き嫌いは天の声? |
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2010/3/17 |
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――作品の優劣なんてものは、好き嫌いで決まっていませんか? 私が過去に耳に入れた声で、最も多かったのがその手の意見でした。「この絵は良いとか、だめとかは、その人の好みじゃないのか」「タイプが全然違う作品を、良品と悪品に分けて意味があるのか」「勢力争いじゃんか」と指摘する意見を、多方面から聞きました。 |
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――好き嫌いで美術を切ってしまうのは、良いことなのですか? 唯一、そして絶対的な弁護を言うなら、それが人間の限界ということです。人は誰も聖人君子にはなれず、好悪でしか物を切り分けられません。「嫌いだけど良いから認める」という行動ができたら超人です。というか、本物の芸術家です。 |
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――人はどういう理由で、美術作品に好き嫌いができるのですか? 一番多いのは、わかるものが好きで、わからないものが嫌いという、そぼくな感情です。漫才のギャグみたいに、わからないと0点というわけ。ピカソの「青の時代」が好きで、『ゲルニカ』が嫌いというのが、よくあるパターン。こういう分かれ目は、だいたいが具象と抽象です。 |
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――わからない美術は、それ以外にも理由がありますか? ありふれた作品はわかりやすく、変わった作品はわかりにくくなります。技術的には、変形、省略、破壊、逆説、反語、隠喩、両義といった手法をとる作品は、わかる人がガクンと減ります。より芸術的であるほど、わかりにくくなるわけです。漫才では客層によって演目のレベルを変えますが、美術では作品のレベルは変えずに、披露する場を変えます。 |
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――新進美術の場合、コンクールに作品を出さない美術家もいますね? ピカソやシュールレアリスムの連中が典型で、彼らはコンテストで賞を取って勝ち上がったのではありません。もし彼らがコンテストに出品すれば、まんじゅうの味くらべ会に、ゲタを出品したような事態になります。当然落選するので展示されず、客が見る機会はつくれません。 |
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――いっそ審査をやめてしまえば、好き嫌いが混入せず、どんな作品も表に出ますよね? それでも出なかったことがあります。アンデパンダン展と呼ぶフランスの展示会は無審査ですが、マルセル・デュシャンの作品は消されました。会期中に作品がカーテンだか木板の裏に隠され、客の目から伏せられたのです。作品は会場にあったのに、誰にも見えなかったという。美術を阻止する熱意は、美術を作る熱意よりも大きい場合があります。ちなみに最近、その作品は世界の衝撃的美術の投票でピカソを抜いて1位になったそうです。 |
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――好き嫌い以外に、美術を○と×に分ける境界線は他に何がありますか? 美術家が選者になれば、自分に近い作風に○をつけ、遠い作風に×をつけます。これは当然のことで、他人の作品につける評価は、そのまま自分の作品へリンクし、自身のイメージアップにつながるからです。 |
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――でも、あえて自分と逆の作風に良い点をつけてみせた方が、その度量が買われませんか? それは音楽や映画では起きる話ですが、美術では起きません。自分と逆の作風に○をつけて吹聴すると、入れ替わりに自分が下がってしまう心配があるからです。 |
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――美術はそんなに簡単に、価値がひっくりかえるシーソーゲームなのですか? 原因は、マーケットの狭さもあります。新しい価値がポンと伸びて、風向きが急に変わる恐れがつきまとうのです。波風が立たないよう、変化が起きないよう、けん制し合う心理が起きやすくなっています。 |
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――ミュージシャン同士なら、コラボレーションなんてよくやっていますが? 時には美術家も、音楽家とのコラボレーションならあります。でも、美術家同士のコラボはまずありません。美術家は美術家に、普通は手を貸しません。前例のない個性をいち早く見出し紹介した話とか、新しい才にほれ込んで登用した先輩の話は、とんと聞きません。そこは音楽とは違います。 |
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――そんなふうに、美術の世界が音楽より狭くなるのは、なぜでしょうね? 美術という表現物は、芸術活動と称する中では、最も難易度が高い分野だからです。なので、美術のジャッジは関係者が行います。一般市民はそのジャッジ結果を、そのまま受け取る流れになっています。 |
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――つまり関係者の見解が、そのまま大本営発表になっているわけですね? 美術で人名が聞こえてくれば、市民はそれが優れモノだと思ってしまいます。これが、画壇の番付けが揺れる危険につながるのです。本当のところ、そんな危険性は長い目で見れば妄想ですが、しかし短期的には不安定だし、売名行動の有効性が音楽よりずっと大きいのも事実で、自分以外の宣伝は極力やらない空気があります。平たく言えば、足の引っ張り合いです。 |
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――そんなことは、音楽や映画でもありそうですが? 音楽や映画では、美術とは逆に市民の側がジャッジするので、そもそも上意下達で物ごとは進みません。価値の乱高下も起きにくい。音楽人同士も、映画人同士も、他作家に目くじらを立てず、互いに寛容になれるのです。色々な価値が出てくることに怒ったり、「○○は認めません」と業界から締め出そうとするのは、映画や音楽では珍しいことでしょう。 |
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――美術だって長く時間がたつうちに、市民の好き嫌いが入ってくるようになりませんか? 確たる意見を持つ人は、美術関係者といえど評論家や画商ではなく、ほとんどが作る立場の美術家です。このせいで、美術論には美術家が自分を有利にする細工も混じります。 |
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――どういう細工ですか? 例えば、「真の芸術とはどういうものか」を言う時に、自分の作品がそれに当てはまる言い回しで語ります。我田引水というか。そして、その自分の作品というものは、何ということはなく、自分の好みが発端で作られています。こうして好みが傑作論へと、話が持ち上がっていくのです。 |
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――逆にですね、美術家が先に芸術の理想論を組み立てて、それに合わせて作品を作らないのですか? 美術家は最初に好みのイメージを持っていて、好みに合わせて作品ができ、理論が最後につくられます。初めに理論ありき、とはなりません。やろうとしても無理でしょう。 |
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――そういうものなのですか? どういう感じに人がものを作るかは、実は美術に関わる前から決まっています。物心ついた時から、作風の方向はできているのです。例えば私の場合、意志が頑強で影を帯びている作品が、嗜好としてあります。要するに古代シュメールまでさかのぼった美術観です。 |
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――でも、そうじゃない平坦な作品も、いくらか作っていますよね? 嗜好を強調する目的で、軽かったりヘナヘナしたイメージも一作品内に同居させただけであって、それは脇役です。 |
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――その基準で他人の作品を見る時、どんなふうに感じているのですか? 例えば、他人の明るい作品を見れば、暗い要素が同居していないか読み取ったり、暗い作品なら明るい要素の有無を瞬時に探します。筆タッチや色使いを見るよりも前に、作品がこうであればいいのにという期待をもって、真っ先にそこに注意が行ってしまうのです。 |
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――それで皆さん、ある意味自分中心で、恥も外聞もなく、美術の好き嫌いが露骨なわけですね? 変えられない地声と同じで、自分が美術にいだく好悪の方向性を自分で選べず、居直っているともいえます。世間には作風を人格に結びつける傾向がありますが、作品で生まれつきの内面は確かにバレます。だから作品を見せる時は、人前で下着姿になるのに似た抵抗感も起きるのです。 |
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――美術家が、自分一人照れていたり、自意識過剰だったりはありませんか? 現実に、美術作品を人に見せる前と後で、人間関係は変化します。ビジネスとして割り切れて尾を引かないデザイン類との違いがそこで、美術は作者の姿勢を人に告げ、相手の態度まで変えさせます。例えば、何ごとも守る人か攻める人かなどは、2、3点の作品で簡単にあらわになります。そして人は誰も、引いて守る相手に安心し、押して攻める相手に警戒するものです。 |
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――ピカソやシュールの人たちは、攻め続けて警戒と抵抗を起こさせ、風を吹かせてきたのですね? 勇ましい心境だったかはわかりません。皆がまんじゅうを作る中で、穏当なまんじゅうを作った美術家と、不穏な下駄を作って投げ込んだ美術家がいます。誰がどっちになるかは天が決めるに等しく、途中で役は入れ替わりません。同様に鑑賞側の趣味も、途中であまり変化しないでしょう。 |
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