| 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ | |
39 新潟市美術館長クビ騒動の読み方 |
|
2010/5/25 |
|
――例の、湿った作品を室内に入れた地方美術館で、館長がクビになった続報がありましたが? 展示室にカビが生えたり、泥のオブジェから虫や昆虫が見つかって、館内の湿度も異常上昇した問題でした。美術館本来の機能も損なわれ、急きょ後続のイベントを他の美術館に移す変更が行われました。国が国宝の汚損を心配し、予定された貸し出しを取りやめたからだとされます。 |
|
――カビや虫の発生が、よそでも時々あることなのか皆無なのかは、データがありませんね? 前代未聞とありましたが、それは一応は表面のことです。実は今回も、下地となった裏の事情に関して、マスコミ報道ではわからない部分がありました。今回とは関係ない昔の記事ですが、別の美術館で別の館長が外された報道でも、何が何だか読み取れないことがありました。新聞の中で、その記事だけ変に歯切れが悪かったものです。 |
|
――昔のその別の事件では、どういう点がわかりにくかったのですか? 事件の根っこにあるものが、モヤモヤと書かれていました。 |
|
――なぜマスコミは、そこをあいまいに書いたのですか? 誰かの逆鱗にふれる心配かも知れません。日本では、現代美術はマイナーです。すでに中国や韓国よりも、日本の方が現代美術はマイナーポジションかも。当然、古典美術を支持する議員は大勢いても、現代美術を後押しする議員は誰もいません。地元名士も同様。この事情と、マスコミのペンの調子は無関係ではないのです。 |
|
――てことは、地方美術館長の更迭劇には、決まったパターンでもあるのですか? まずクビ騒ぎが表ざたになった館長は、決まって現代美術に肩入れした人物です。印象派や野獣派など古典具象の方に肩入れした館長で、この手の騒動は特に知られません。 |
|
――なるほど、そういう法則があったのですか? 現代美術の展示物に予算を多く振り向け、その方面の人材を厚遇して人脈を太くし、現代作品を購入してコレクションを増やし、現代美術イベントを新たに始めたり、規模を拡大して回数も増やした館長は、敵も増やしてしまうわけです。 |
|
――敵は誰なのですか? もちろん、現代美術を作らない美術家です。作る美術家なら、追い風を吹かせる館長と敵対するわけがありません。新風が吹いては困る大勢の古典系の美術家が、現代系を推す館長に憤まんを持つ構図が潜伏しています。 |
|
――館長問題がある美術館には、一筋縄ではいかない裏が隠れているわけですね? 「現代美術館」なら現代のみ扱う仕事なので、そこはシンプルです。しかし「近代美術館」や「何でも美術館」は、古典も現代も扱うので、バランス配分の問題が必ず起きます。予算の傾斜だとか、言動上のえこひいきだとか。マスコミはその構造を伝えず、騒ぎのみ断片的に書くので、不明瞭な記事ができてしまうのです。 |
|
――でも今回は、館長の不祥事がたくさん並んで、悪い人だとの印象がありますが? 大人の対応という見方があり、業務上の不祥事は厳しくも甘くも処理でき、クビにまでする真の動機は別にあるでしょう。こと美術館内部の騒ぎでは、古典と現代の対立を伏せると、全体の伏線と文脈が読めなくなります。 |
|
――今回の伏線は何ですか? 従来はオマケだった現代美術が主役に格上げされ、逆に主役だったはずの古典系がオマケ扱いに降ろされていました。この独自の運営が、そもそも前代未聞の伏線なのです。過去に、古典と現代の地位まで逆転させた館長は、一人もいなかったはずです。万年野党が与党へ・・・。そこまでやるなら、現代美術館を新しく建てることでしょう。 |
|
――過去にクビになった館長たちも、思えば災難でしたね? 館長の側にも、実は伏線となるミステイクがあるものです。現代美術の扱いを増やすといっても、総量増大だけでは、意外に足元をすくわれます。「開かれた公共施設」「新しい文化の交流」などを打ち出しても、補強できません。 |
|
――んっ、そこがちょっと、わからないのですが? 「市民の皆さんに新しい美術に触れてもらい、新しい気分になってもらいます」という方針を、館長が出すとします。その新しい美術とは『ゲルニカ』なのか、『古タイヤの積み上げ』かを、館長自身が分別していないといけません。斬新な路線をとる館長たちもまた、この点がごっちゃでした。 |
|
――やはり、その問題は深刻なのですか? 市民に新しい音楽を聴かせますという時に、ベートーベンの『運命』をやめて、ジョン・ウィリアムスの『ET』『スーパーマン』にするのか、それともジョン・ケージの『ノイズ』『ピアノつぶし』にするのか。ここの加減によっては、利害のなかった市民までが敵に回りかねません。 |
|
――どちらかといえば、お客はジョン・ケージに拍手かっさいしそうですが? ともに既成の概念を超えた『ゲルニカ』と『古タイヤ積み上げ』は、お披露目当初は同等に目を引き、同等にわけがわからなくても、差が出るのはリピートです。二度、三度、十度、百度と続けば、だんだんと市民の感想も変化します。 |
|
――『ゲルニカ』の良さが気づかれて、『古タイヤ』が飽きられると思っていいのですか? 古タイヤを積み上げても、絵筆で線一本引く時と同じことが起きます。作品が冒険しているか惰性かは、廃棄物を転用したインスタント作品同士でも、やっぱり分かれるのです。 |
|
――古タイヤという材料をみる限りは、既成の概念を十分に超えて安全圏ですが? 絵の具を捨てて古タイヤを使えば、常に絶対優位だと固定的にとらえると間違います。どんな手法の作品も、個別の充実度の高低で切り分けないと、形式主義に向かいます。革新の館長にも、人類と美術の大局的視点に立つというより、現代オタクのタイプがいます。これは「パリの90年」にぞっこんの古典具象オタクを、まんま裏返した反動に映り、勢力争いの一環と市民に受け取られるのです。 |
|
――現代美術の力で市民を味方につけるのは、元々とても難しそうですが? つまりは冒険した現代作品と、惰性で流された現代作品の、比率の問題です。世に50対50で分布するなら、誰が現代美術展をプロデュースしても充実します。現代美術展は全部成功・・・。現実には冒険作品は極少数で、大半は現代っぽく作られた惰性モノだから、そうはいかないわけです。 |
|
――そこなんですよね、結局いかにも現代らしい使い捨てアートを持ってきただけで? 数学的確率からいって、現代美術の秀作や代表格を一堂に集めても、充実感ではなく空虚感が美術館にただようのは避けられません。恐ろしく厳しい歴史審判を受けていない、日の浅いコンテンポラリーの宿命です。言い換えれば、現代美術の「量」では人の心を満たせず、運営の主導権を得て露出度で楽勝しても、逆にアラを市民に伝えて幻滅させる危険もつきまといます。 |
|
――現代美術よ行け行けどんどんでは、反動のまた反動が起きるわけですね? 現代美術に入れ込む先進リーダーたちは、ジョン・ケージ的な作品に強くほれる傾向があります。その結果、ケージばかり聴かされた市民が、ジョン・ウィリアムスに開眼する機会もないまま、従来のベートーベンへ戻りたくなってしまう現実的な問題が、美術で起きるわけです。 |
|
――いっそ館長が、直接市民にそのことを語っては、だめなのですか? 『ゲルニカ』と『古タイヤ積み上げ』は、新しさの度が違うのじゃなく、オリジナリティーとアイデアの違いなのじゃ。アイデアは個性とは別じゃ。既成の概念を超えることは、創造とは別なのじゃ。諸君はその違いを見極めるのじゃ・・・などと言葉で言っても、市民には伝わらないでしょう。そうした伝えにくいことを伝えるために、美術があるわけだし。 |
|
――「こんな片田舎で、芸術なんぞと背伸びし過ぎじゃ」と、テーブルごとひっくり返す声も出そうですが? むろん焦点は、田舎の分相応の適否ではなく、表現の多様性の次にくる関心、つまり表現の濃さの件です。印象派ふう油彩画や裸婦銅像さえ難しく感じる人がいる土地に、逆転の発想で現代美術を突っ込んで刺激する場合・・・。現代美術にも冒険か惰性かでピンキリがあるのだと、わかるように見せる演出がもう必要です。現代感覚を持ってくればカッコがついた時代は、現代美術館第一号が建つ頃には終わっていたと思います。 |
|
――作品同士の冒険と惰性の差は、どうやったら見えやすくなりますか? ひとつは、作品のサイズを小ぶりにそろえることです。現代美術展はしばしば、巨大さが見どころ。昆虫を鉄で作って、長さ15メートルとか・・・。これを2メートルで作っても、客があぜんとする造形なのかが大事です。そこを大きさでごまかしてきた疑惑。古典に対し現代の何が価値かを理解してもらうのに、規模がサプライズでは、創造性が宙に浮きます。館長は、「芸術の本当の意味がわかってきたぞ」と市民に感じさせてナンボなのです。 |
|
| 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ | |
| 電子美術館へ戻る | |
Copyright(C)2005 21SEIKI KOKUSAI CHIHO TOSHI BIJUTSU BUNKA SOZO IKUSEI KASSEIKA KENKYUKAI. All Rights Reserved. |
|