| 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ | |
43 生きた線、死んだ線 |
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2010/7/30 |
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――「線が生きている」という言い方がありますが、どういう線ですか? 生きた線には、豊穣感と躍動感があります。豊かさと動き。死んだ線にはそれがありません。誰でもピンとくるのは毛筆書道ですが、ペン書きのアルファベットでも筆跡の線に違いが出ます。きれいな線、正確な線、整った線というのとは全く違うものです。 |
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――生きているか、死んでいるか、その差は何が原因で生じるのですか? 手で線を引く時に、気持ちの中に失敗する予感が起きます。そのプレッシャーに勝つと生きた線になり、負けると死んだ線になります。人生の重さなどの話は無関係です。 |
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――生きた線の方が、太さが太かったりしませんか? そういう傾向もあるのかも。死んだ線はやはり縮こまって「線が細い」感じなので・・・。ただし絵画の線には、筆で引いた独立した「描線」以外に、面を塗り分けてできる「境界線」もあります。当然、境界線には幅員がありません。 |
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――境界線が生きているか死んでいるかなんて、何だかわかりにくそうですが? 意外にすぐわかります。例えば白い紙に墨汁で漢字の「一」を描くと、白紙と黒字の境界線が上側と下側に現れます。厳密には、「一」の文字をぐるりと囲む輪郭に境界線が存在します。こうして境界線にも、生きて「立っている」線と、死んで「寝ている」線の違いが生じ、線から発するオーラが違うのです。 |
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――でも、美術館でよく見ているつもりでも、なかなか線の生死の区別がつきませんが? 実際の出現率に注意が必要です。巨匠の作も含めて、死んだ線同士をいくら見比べても、区別はつきません。今どき生きた線が十分に見られる分野は、書道以外では民芸品と漫画家の直筆ペンイラストぐらいです。今日の美術絵画は、死んだ線が引かれる場合がほとんどで、生きた線の実例を目に刻む機会は限られます。展覧会丸ごと全滅の方が、むしろ多いのです。 |
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――昔の絵画なら、生きた線のお手本が見られるのですか? 非常にわかりやすいのは、日本の佐野乾山(さのけんざん=尾形乾山)なる陶芸家が絵付けした陶器です。適度にリラックスしながら、ヒョイヒョイと入魂の線を引いていて、独特の動きと含みが一筆一筆に出ています。 |
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――陶芸の分野では、そういう生きた線は多いのですか? 油絵に比べれば多く見かけますが、陶芸の中ではやはり少数派です。煮え切らないぐずついた線や、事務的な無表情の線の方が、出現率はずっと高くなっています。実はかつて乾山の陶器作品は、別人が成りすました贋作疑惑がかかりました。なのに絵の訴求力は人類史上でも上位で、真贋とは別の話題になっています。 |
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――油絵にも、そういう生きた線はあるのですか? 例えばゴッホの『糸杉のある道』は、点描画の点を伸ばした短めの線分を、画面に敷き詰めていますが、アルルに移り住んだ以降の線分は見るからに立っています。かなり前に、大原美術館のゴッホ作品が贋作と判断された根拠は、線が臆して立っておらず、眠い印象が強い点でした。学生などが模写した習作が、市場に混入したと考えられます。 |
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――日本画には、生きた線が多いイメージがありますが? 洋画に比べると、線自体が存在する絵が多くなります。日本画に線はつきもので、線で輪郭を囲んで中を塗り分ける、あたかも漫画アニメのような画調が多く見られます。それでも、明確に立った線はやはり稀少です。すぐに浮かぶ代表は、尾形光琳(おがたこうりん、1658〜1716)の『燕子花図』(かきつばたず)でしょう。 |
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――しょうぶ図などと呼んだ、国宝切手のあれですね? 万国博の記念切手ですが、あのふすま絵では筆ではらった緑色の線を、カキツバタの葉に見立てる抽象化が行われています。この作品が世界的に異色なのは、光琳自身の仕事の中でも、型やぶりの簡略画だからかも知れません。 |
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――ということは光琳でさえ、生きた線を引き放題ではなかったわけですか? それはいえそうです。なぜ光琳に思い切った前衛絵画がかける機会があったのかが、逆にミステリーなのです。日本画のミステリーは、初期の写楽以外にもあります。今日の日本で新作される具象、抽象とも、死んだ線が圧倒的な主流であるように、生きた線が消えゆくプロセスのルーツが、光琳までさかのぼれるかも。 |
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――生きた線は、訓練で引けるものなのですか? 壁のひとつがそこで、前に本番で実力を出せない画家はいない話をしましたが、リハーサルと本番の違いはあります。リハーサル的な線の試し引きでうまくいっても、本番のキャンバス上では無意識に気持ちが引け、線は簡単に死にます。 |
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――どうやれば気持ち負けせずに、生きた線が引けるのですか? いっしょうけんめい、きれいな絵をかこうとすると、決まって線が死ぬパラドックスがあります。大事なものを守れば見込みはなく、逆に捨てれば線が生きる経験則があるのです。破壊に近い心理メカニズムです。「僕は絵を鑑賞しても全然わかりません」という人は、線だけに注目すると画家が何に手こずっているかがわかるでしょう。 |
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――生きた線が引ける日まで、いったい何十年の修行が必要なのでしょうね? 私は絵を始めて5年ほどで、引く線が変わりました。どんな形状にも引けて、失敗する確率が目立って小さくなりました。出したい微妙なカーブや、線の元気度の調節が、神が宿ったかのようにハンドルできて。狭いすき間にも収まるし、手の陰で見えない部分にも、ブラインドタッチで引けて・・・ |
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――その時、いったい何を得たのでしょうか? 単純に、自分の作風に合った身のこなしがつくられたと考えます。線を引く時、手や腕だけでなく上半身や足腰の動きも加わります。作風と線は同時並行で確立され、作風が決まれば線の表情も自動的に決まります。線がない画家なら別ですが、線をちょくちょく引いて何十年もかかりません。 |
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――生きた線を確立すると、自転車の乗り方みたいに生涯忘れないものですか? 長い時間使わずにいると、さびれます。私はコンピューターアートを続けた後に絵の具に戻ると、手で線が引けなくなっていました。簡単な線は「昔とったキネヅカ」で即日復帰できても、複雑な形や微妙な曲がり方、周囲パーツに触れそうな混んだ位置で、線はすぐに萎縮してヨレました。危険な場所や微妙な部分を、攻めきれなくなったのです。 |
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――その時、いったい何が失われたのでしょうか? 単純に、自分の作風に合った身のこなしを忘れてしまったのでしょう。手の動きやスピード、筆の角度と向き、指の回しや手の返しなど、要領を全て忘れていました。自分が再現できないのは奇妙な感覚で、線一本の重圧に驚きました。同じことを他人にやれとは、軽く言えないと思ったほどで。 |
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――具体的には、どういう不調が起きたのですか? 線が際どいところで手がぶれ、遅くなり、筆の穂全体に心が行き届かずに形がひしゃげたり。太さがおかしいとか、目測を誤って線が届かないとか、行き過ぎてしまうとか。今かいたところに手を置くとか。画面上のつまずきや絵の具枯れハプニングのリカバーなど、無意識にやることが滞って、絵の傾向が変わってしまいました。 |
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――その時のブランクは、どの程度だったのですか? ひとつ前の絵が完成した日は、19年5カ月前でした。 |
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――その年月をおいて再び筆をとって、感覚が戻るのにどの程度の時間がかかりましたか? ほぼ12日目でした。その間の小品4点は本調子ではなく、1作目は見るからに失敗です。(編集注:『父と娘35』)(後日談:結局43点失敗し、昔と同等にかけたのは44点目)。 |
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――絵画というものも、結局は特殊技能なのですか? その一面は否定できません。筆記用具は、楽器に似ています。こちらも音楽性が重要か、演奏技術が重要かの議論があって、結局「どっちも重要だ」的な折り合いで収束します。しかし音楽も美術も、独自作風と独自技術が不可分で、あっちか、こっちか、両方か、の3つとも外れた感じはあります。 |
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――今日の美術シーンで、線の生死がどうでもよくなっているのはなぜですか? 芸術の退歩、つまり時間をくだるほど芸術が衰退する現象の一環だと思います。後世ほど、押しの弱い、薄味でのっぺりと平板な作品が主流に変わるという、歴史検証でおなじみのあの現象です。そうなる原因は文明生活に関係ありだとにらみますが、鑑賞側の立場がしだいに強くなったこともあるかも知れません。 |
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――美術史のあらすじは、原始宗教からエンターテインメントへ移っていく流れでしたね? 生きた線は何かを主張し圧を発するので、鑑賞側は雄弁さにへきえきしがちです。絵がぐーんと押してくるから、かなわない、負けそー、カンベンシテ、と被害感情が起きるとか。この仮説を補強する状況証拠は、本音が出やすい匿名のネット上にありました。「自分は主張しない絵画が好きで、主張する絵画は嫌いです」と、もはや隠しもせずに告白する人が非常に多いのです。「主張する絵画が好きです」は少数派。 |
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――死んだ線の方が、かえって好まれるわけですか? 死んだ線は引っ込み思案で主張が弱いから、鑑賞者へ迫ったり、へこませたりがありません。骨抜きの凡作の方がなじめるなら、好評作と歴史名作が食い違うおなじみの逆転現象も、一応この事実だけで説明可能です。佐野乾山の騒動でも、贋作と思う派に「生きた筆づかいが名人のものなら困る」という動機がありました。名人ほど地味に沈んだ、動きのない死んだ線を引く前提で値付けしてきたからです。 |
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――そんな事情が、事件の根底にあったのですか? たかが陶器を、当時の国会が議題とした理由でしょう。元市場にあった乾山の陶器絵は線が微妙というか死にぎみで、途中で大化けした光琳と変化が似ています。新しく出た佐野乾山がバリバリの生きた線だったので、理屈として元市場で出回る方が偽作の疑惑を負うのが芸術の立場です。「従来の乾山はだいじょうぶか?」と。あわてた市場関係者から国会議員が依頼され、「良い子は佐野の字がつかない、従来の乾山だけを相手にしなさい」と、暗に国民を諭して収めたかっこうになったのです。 |
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――ところでコンピューターアートでは、線の生死はどうなっていますか? コンピューターアートのうち、ペンタブレットで筆記するデジタル絵画は、筆やペンやクレヨンのタッチを電子的にエミュレート(似せる)しているので、従来の筆記用具に似た線の生死が出ます。一方、プログラムコマンドで図形を発生させるCG画では、線は生死が特になくて無機的です。 |
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――肉筆から遠いCGだと、美術として有利ですか、不利ですか? 線の表情が0点だから、ハンデに違いありません。しかし私は逆にCGの可能性を思い、線の意味を拡張しました。またCG画の見せ場といえば、一般には宇宙的で未来的なSFファンタジーです。そこも逆に、太古の美術が持つ霊感や豊穣感を重視しました。きっとやり方があると考えたのです。 |
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――実際に、どういうやり方がありましたか? パーツの並び方しだいで、仮想線がちらつきます。複数のパーツが協調して、脳にバーチャル・ラインを感じさせることがあります。ちょうど音楽で、複数の楽器があおり合うと、楽譜にないメロディーラインが聴こえた気がする、あの感じです。手がきと違いコンピューターだと、パーツの置き位置を何度でも移動できるから、仮想線の探査が可能です。メルヘン調でない、むしろ太古の儀式的でシンボリックな美術にも合いました。 |
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