現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ
電子美術館のQ&A

44 独りよがりな美術は消えるべきか

二十一世紀国際地方都市美術文化創造育成活性化研究会
2010/8/15

――ひとりよがりな作品を批判する意見を、雑誌のミニコラムやエッセーなどで時々目にしますが?

独りよがりな美術を作る人といえば、個人的にもそれらしきに心当たりがないではありません。

――身近なところにも、独りよがりなんてけっこういるのでしょうね?

確かにその人もありがちなタイプで、ちょっと変な考えにとらわれ、自分だけしか理解できないような、わけがわからない作品を作っているとは聞きました。実は当人にまだ会ったことはないのですが、間接的に耳に入れた話だけでも、けっこう困った人だとは感じます。

――誰も共感しないおかしな作品を、自分の都合だけで作る人ですね?

賞をもらったり売る気もないのか、どう見ても水準にはほど遠く、誰も欲しがらないような、馬鹿馬鹿しくてくだらなくて、続けるだけ無駄というか・・・。ほかにやり方があるだろうと、周囲も何か忠告しているのかも知れませんが、まあそういうタイプは聞く耳を持たないでしょう。

――その人は親せきの方ですか?

名を、ゴッホといいます。フィンセント・ファン・ゴッホ。オランダの人で、私は会ったことはありませんが、相当なやっかい者だったそうです。

――ちょ、待ってください、ゴッホは今ピカソと並んで、近代以降では最高価格の画家ですよ?

ゴッホは西欧美術史上、最も独りよがりな作品を作り逃げした人です。

――そんなふうに言ってしまえば、確かに全くそのとおりですけど?

独りよがりな美術を批判するエッセイストたちは、独りよがりの代表格であるゴッホに消えて欲しいと願っている意味になります。教科書にゴッホをのせるな、美術館からも撤去せよ、独りよがりの権化は視界からいなくなれと。

――そこにゴッホを出したら、エッセイストへの揚げ足取りになりませんか?

「独りよがり」の語を使った美術批判は、おそらく足の上げすぎです。そこまで足を高く上げると、言いたいことの不合理が目立ちすぎるのです。

――そうですが、昔のゴッホと今の独りよがりの美術家たちを、同列に扱っていいのですか?

ゴッホを特例として別扱いにするなら、今度は勝ち馬乗りというサブテーマへ移って、さすがにまずいでしょう。美術家の今の位置は、当時の位置とイコールではありません。今ではいやし系とされる印象派のトップ集団の連中、マネ、モネ、ドガ、ルノワール、セザンヌらも当時は毒を含んだ前衛として攻撃を受け、独りよがり度は歴史に消えた面々の比でなかった点に注意がいります。

――でも普通、独りよがりという言葉は、芸術の敵としてイメージされているようですが?

間違ったイメージです。簡単な話、芸術の創造とは唯一無二を作り出すことなのだから、独りよがりに決まっています。民主的にやる八方美人作品や、顧客満足度を反映させた忠誠作品が歴史に残ったりしません。絵のモデルになった男性に裁判を起こされた『夜警』でみせた、レンブラントの独りよがりぶりを忘れてはいけません。

――つまり、独りよがりという語をみだりに使うと、逆にアンチ芸術にそれる難点があるわけですね?

「自己本位」「独善的」「好き勝手」などの語も、本物の芸術作品の特徴です。「わけがわからない」「奇抜なだけ」「意味不明」「ナンセンス」「メチャクチャ」も皆、芸術が出た当初に世人が受けた率直な印象ばかり。最初から「独創性」などと良い方に受け取る人は、まずいません。「変なの」「不快だ」「キモチ悪すぎ」もいっしょ。だから、これらの語を使って新作を斬って回るエッセーは、いったい芸術を育てたいのか、芽をつみたいのか、目標が読者にみえません。

――少なくともエッセイストたちが怒っているのは、新興美術に対してなのは確かでしょうね?

おそらく独りよがり作品とは、古典美術を指しはしないでしょう。赤富士の絵やブロンズの裸婦像は、独りよがり作品には当たらず、定番として認可済み・・・。つまり独りよがり批判は、新しい若い、未知数の実験美術をけん制し、やめさせる圧力といえます。これは、出る杭を打つ行動以外の何ものでもありません。

――間違った、ゆがんだ杭を、早く食い止める正義のために・・・、・・・そうか、それだって証明はできませんよね?

そうです、同じことです。ゴッホは当時、完全に間違って出てきた、ゆがんだ杭だったので、800枚以上描いて1枚きりしか売れなかったのです。それも縁故者の情で、やっとこさ。

――でもエッセイストたちに、出る杭を打つつもりまではあるのでしょうか?

実はわからないのです。しかし独りよがり作品が、その他作品と何かが異なるとすれば、やはり目立つ方向でしょう。なのでエッセーの言い分は実質、「俺が俺がは、お互いやめよう」「俺は目立たないから、お前も目立たないように」と、休戦の持ちかけになっています。派手な作品は目に余るので、お引き取り願います、と・・・

――エッセイストが独りよがり批判する相手は、抽象系の美術なのですか?

そのケースもけっこうあるのです。絵心や精神性や人格に話を広げるなど、色々な理屈をつけてはいるものの、支持作品と不支持作品を比較したら、まんま具象と抽象の区分だった構図は、昔からよく見かけました。

――何にしても、独りよがりの語を使うと、創造にブレーキをかける効果が出るわけですね?

しかもライト級のエッセイストだけでなく、ヘヴィー級の文芸作家たちにも、ブレーキかアクセルかがよくわからない寄稿が多いのです。文壇や論壇で、当世の社会現象をさっそうと論じ、現代思想潮流をリードするトップたちにも、エッセイストと似た書き方がみられます。

――大物の文芸作家たちが、どういうことを書いているのですか?

よくあるのは、「現代美術は児戯に等しい」の表現。子どもがガタガタ騒いでいるだけのアート、という指摘です。これとて、「ちょい待ち、ゴッホとピカソは児戯に等しいと周囲から直接言われた双璧だった」と、簡単に疑問が浮かぶはず。

――現代美術の一部の、情けない作品だけを叱責するつもりで書かれていたりは、ないのですか?

当然こちらも、日本を代表する文人はきっと世界的な視点で美術を見るだろうと信じているので、そう読もう読もうとします。しかし、その可能性は低そうです。なぜなら、児戯とは『ゲルニカ』を指すのか、『古タイヤ積み上げ』か。両方とも指すのか、両方とも違うのか。そのあたりを書き分けた論評さえ見ないからです。選択的な苦言ではなく、現代美術をひとまとめにした全否定にむしろ近いのでは、と。

――「正しい美術」はクールベまでで、マネ以降は児戯ばっかりだと、そういう思いの作文かも知れませんね?

確かにそうはっきり書いてくれたら、何の話をしているかが読者に伝わります。「物体の丸写しなら理解できるが、デフォルメはあたしゃわかりません」と告げれば、読者の理解は早いはず。しかし、そこまで保守の思いを吐露した文芸作家は、過去に一人もいなかったでしょう。「作品がわからない」と書かずに、「作品がくだらない」と書く習癖がありました。

――ベストセラー文学を何冊も放ったトッププロが、なぜ現代美術をうまく語れないのですか?

全般的に、現代美術にのまれているように思えます。現代美術は見る者を混乱させます。飛躍した理屈や謎かけ、ハッタリや釣りが満載。しかもアーティスティックな芸風を消して、チープに作るのも流行中です。何を主張したいのか以前に、主張したいことの有無さえが不透明な作品群。そんな術中にはまった文芸作家たちは、文筆ペースを乱したのかも知れません。

――それならむしろ、現代美術は現代人をぶっちぎって、勝利しつつあるわけですか?

しかし大勢は、古代人にあっさり惨敗しています。現代美術の好ましい点は、従来と違うことをやろうとする意識がある点です。その反面多い欠点は、アイデア発明をもって創造に代用する点です。一番乗りの材料を誇るなど、ギネスブック的な記録性にそれて、いわく説明に頼りがちで、作品単体が語るメッセージがやせ細っています。作者名を伏せると作品が押し黙る傾向も、作品が自立していないからでしょう。

――それだったら、ゴッホ並みの独りよがりが再来しているのかも、怪しくありませんか?

そこが焦点で、私に言わせれば現代美術のほとんどが、美術的な独りよがり度が不足しています。例えば、徒党の集団といえば古典具象ですが、現代美術もすでに徒党化しました。自分の世界で勝手に飛び回る奔放な現代作品は意外に少なく、シーンの空気になじんで独善性が薄れ、マスゲーム化しています。現代美術は突飛さよりも、時流に右にならえした追従傾向が実は目立っているのです。

――でも文芸作家たちは、そこでもがく現代美術を独りよがりの暴走と警戒して、排撃につとめるわけですね?

文芸作家たちの論評を創造加担へ向けるなら、まずは冒険作品と惰性作品ぐらいは分けて論じないと、建設的になりません。花のモチーフにも冒険と惰性があり、ゴミのモチーフにも冒険と惰性があるということ。花かゴミかで切るのではなく、冒険か惰性かで切るのです。

――美術とはいったい何かという、根本的な問題になってしまいますね?

そうはなりません。美術とは何かではなく、芸術とは何かが問題なのです。美術ならではの暗黙ルールや、美術界の事情と人間模様を、文学の人がいちいち考慮に入れる必要はありません。「美術界には色々とありまして」などと小説家が気をつかっては、美術の活気は消沈するでしょう。

――そういう本質論に戻りさえすれば、文芸作家は逆に得意でしょうね?

文学でも、限界を乗り越えて殻を破って、何かを変えようとする、そのチャレンジ精神を買うはずです。過去にうまく書けた小説を手本に、再度うまく無難にまとめたような、きれいごとの姿勢を嫌うはず。資産にあぐらをかいた耽美主義を、作家魂が許さないはず。それよりは積極的に崩せ、崩し方がへたでもいいから・・・と。ところがその精神が、専門外の美術を見る時に限って不発です。

――そうならないためにも、文芸作家が気をつけるポイントは何ですか?

どのタイプの美術でも、後向きと前向きが、だいたい99対1に分かれている相場が重要です。花がモチーフでも99対1で、ゴミがモチーフでも99対1。徒党に加わった99個の変態と、加わっていない1個の変態を分けて考えるのがコツ。これは美術家の地位と一致しないから、注意がいります。

――その前にまず本人の立場的なものが、いつもわかりにくいのですが?

例えばロックバンドのステージ演奏を聴いて、あれは嫌いだという話をする時、最初に言っておけば話がスムーズです。自らがロックファンなのか、浪曲ファンなのかを。

――ひるがえって今、批判すべき美術はどれなのでしょうね?

作品は全て事情と背景があって、何か意味を持って存在しています。全くわけがわからない作品など、現実に見たことがありません。全ては等価で、受け取り方で価値が相対的にコロコロ変わります。これが基本です。

――でも作品同士が等価であっても、論評するには何か基準となる尺度が必要ですが?

人類が長い目で見て美術を選んできた基準尺度は、「ユニーク度」です。しかし文芸作家は、「美麗度」で論じがち。「花は美しくて、ゴミは汚い」式の古典的な価値観に照らして、ゴミがモチーフの作品を蹴飛ばすだけ。そうなると読者は困ってしまいます。独りよがりを集めて至宝の山を築いた世界美術史、ないしはルーブル美術館の運営にまでノーを唱える大思想家なのか、それとも普通に変てこアートに飛びのく旧世代なのか、どちらが書き手の本当の横顔か・・・

――文芸作家が叩くべき美術なんて、世に存在しないんだということですか?

叩く前に、あれもこれもわからない自分を、どうにかしようと考えるのも人生の工夫です。自分を当惑させた、非常識きわまりない新興美術を取り締まってやめさせる治安維持のようなことは、文壇の巨匠が急いで手をつけるべきことなのか、という視点は残ります。変態美術をなくすことで、新しい文化が生まれやすくなるのかという根本的な疑問です。

――それにしても最近、わからないものが多い自分を、なぜか威張って吹聴する人が増えましたよね?

不思議ではありません。現代人の暮らしぶりは、すでに江戸時代の殿様のレベルを超えています。「余にも、少しはわかるようにしてはくれまいか」と、他力本願の気持ちが多くに起きるのは、いわば自然の成り行きだと思います。

現代美術とCGアートの疑問と謎 もくじへ 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ
電子美術館へ戻る 電子美術館へ戻る
Copyright(C)2005 21SEIKI KOKUSAI CHIHO TOSHI BIJUTSU BUNKA SOZO IKUSEI KASSEIKA KENKYUKAI. All Rights Reserved.