| 現代美術とCGアートの謎と疑問に答えるQ&A もくじ | |
53 ポロックの絵がわからない場合 |
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2011/2/8 |
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――美術がわからないという場合、パターンが決まっていませんか? よくあるパターンは4つあって、重症な順に、@美術はどれもわからない、A写実のみわかる、B具象はわかるが、抽象はわからない、C近代抽象はわかり、現代抽象はわからない。Aは、ゴッホがわからないケース。Bは、ゴッホはわかるが、ピカソはわからないケース。Cは、ピカソはわかり、ポロックはわからないケース。 |
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――日本では、Aのケースはかなり減ったと思いますが? 世代交代が大きいようです。ただし、「ゴッホがわからない」には、「ヒマワリの絵だとはわかるが、価値を見いだせない」ケースが混じっています。つまり一口に「わかる」といっても、「何がかいてあるかわかる」と「真価がわかる」の二つがごっちゃです。この話は前にやりました。 |
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――Bも、何度も話題にしましたね? ここで注目するのはCです。なぜかといえば、ジャクソン・ポロック(1912−1956)の現代美術作品あたりから、無機質な傾向が強いからです。私たちは、近代抽象よりも現代抽象の方がハチャメチャで、過激で雄弁だと思いやすいのですが、実際には無味無臭でダンマリな傾向があります。 |
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――ポロックの絵は、アクションペインティングのお手本になっていますが? ポロックの作品群は私の好感度も高く、ポスト近代のエポックであることも間違いありません。しかしステラの有機的作品にある異色の重い陰影が、ポロックにはない点がずっと気になっていました。ハードなのに、ヘヴィーでないところ。絵にずっしりした重さがなく、何となく腰高という。 |
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――ポロックの絵がそうなった理由は、何ですか? 「お手本に見える」という指摘が、的を射ています。ひとつは垂らし系アクションペインティングの宿命的な限界で、もうひとつは作者の限界もあったと思います。 |
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――でもポロックは、新しい時代を感じさせますよね? 音楽に例えれば、1930年代のピカソはストラビンスキーの『春の祭典』に似ています。1950年代のポロックは、フリージャズ・インプロビゼーションに似ています。 |
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――どっちも硬派なのですね? ピカソよりポロックがわかりにくいのは、抽象度がさらに上がって、人物、静物、風景を全く判別できない理由があります。しかしそれだけでなく、作品が希薄になった理由もあると、考えます。Cの中で、現代美術特有の退廃感や虚無感を、客がシビアに観察している成分を指摘したいのです。 |
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――作品の虚無傾向は、ポロックがねらったものなのですか? そこを主張するつもりはなかったと思います。結果的には、ポロックはピカソより画圧が下がりました。造形的に、ピカソよりも格段に未来指向の「ペンキ垂らし」を使った純粋抽象ですが、何もかもが拡張したわけではありません。失ったひとつが意外にも自由感です。ポロックの作品には、教条的な面がかなりみられます。硬派である以前に、意外に絵が文語調で、かた苦しいのです。弁論でいえば台本を読んだ感じで、生演技の口語でしゃべっていない・・・ |
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――ポロックの作品には、何かが足りないのですか? これも意外ですが、破壊が足りません。それで、教条的で事務的な感じがあるのです。絵を見てすぐに目に入るのは、画面の均質さです。絵をタテヨコとも4等分し、16区画に分けたとします。16区画ともペンキの密度が同じ絵が多いのです。キャンバス全体にまんべんなく、平等にペンキがまき散らされ、ムラがあまりありません。 |
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――ペンキ自体は豪快に飛び散って、間近で見ると繊細さも十分ありますが? 画面サイズによる豪快ぶりや、フラクタルを思わせる繊細ぶりは、商品としての強みの観点です。皆さん同一視しますが、売り物にしやすい優位性が、そのまま創造性だったりしません。よく見てください、ペンキはキャンバスの範囲内に収まっています。画面のフチからはみ出さず、はみ出そうとする突出がない作品がほとんど。 |
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――確かに構図的には、理路整然として見えますね? あたかも、お好み焼きをまとめて16個焼く店員のように、律儀に仕事をした印象があります。色々な大きさに焼いたりせず、16個とも同じ直径に整え、トッピングも平等に散らした感じ。鉄板の外に小麦粉汁や肉、野菜が飛び出すことなく、ソースや青のりもていねいにいき渡って・・・。どこまでもまじめ一徹で、ぶっ飛ばず、遊びを感じにくい仕事です。 |
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――ペンキを振りまく技法自体が、十分に破壊になっていたからではありませんか? そこはしかし、切り返したくなる点です。ペンキをまく技法自体は、形式的なアイデアです。アイデアは個性とは違います。ペンキ垂らしは個性ではない。彼の絵は、技法のイントロデューシング(紹介)に近く、自分色をあまり出さずに、態度を引いて終わった感じが残るのです。提案したのは「我が芸術」のアクションというよりも、垂らすという「新技法」にとどまったといえます。 |
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――言われてみれば、内部的な葛藤の跡が、絵の中に見られませんね? 機械的作業の傾向が強いから、濃い、どす黒い、重い陰影が盛り込まれなかったのだと思います。秩序を壊し限界を攻めはしないから、絵の押しが何となく弱い・・・。ぐーんと押してくる、きついテンションが意外にない。言い換えれば、どちらかといえばヒーリング系。技法は破壊しても自分は破壊せず、何となく守ってしまった様子です。暴れずに理屈どおりというか、常人をはねつけない。肉食系とは違う。 |
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――しかし垂らしたペンキが、しかも破壊されているなんて、実際にできるものですか? ポロックを弁護する材料がそこで、これは垂らし系アクションペインティングの宿命です。飛沫の輪郭には、有機的な表情は出ません。言い換えれば、誰がペンキをまいても同じ顔の作品になります。AさんとBさんの違いが出ない・・・。その証拠に、ポロックふうの絵を自動作成するパソコンソフトがあって、色を調整するとポロック作と同じ調子になります。ポロックの絵の内部には事件が発生しておらず、人が介在して生じる謎や含蓄が少ないのです。 |
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――ポロックがアメリカの画家だということは、何か関係があるのですか? あると思います。ヨーロッパの画家なら、ペンキを少しでも有機的にまくでしょう。多い少ないのムラで変化をつけるとか。著しく非対称に片寄せたり、ペンキを場外に投げて、飛沫をフチにベチャッと残したり。人間が主役になろうとして、秩序安住を破る演出に精出すのがヨーロッパ流でしょう。 |
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――そもそもアメリカン・アートには、無機質が多いのですか? 技法アイデアを強調する代わりに自分色を出さない傾向は、ステラの特定作品の例外はあっても、アメリカ現代美術に広くみられます。ポロックも、技法の原型として純度が高く、塩でいえば不純物を取り除いた塩化ナトリウム99パーセントです。こうしてポロックは斬新な技法を先取りしただけでなく、未来美術の無味無臭も先取りしたと私はみます。 |
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――ああ、わかった、ポロックの良さは、ポロックで完結しているわけですね? 私が気に入っているのは、そのレファレンスとしてのピュアネスもあります。そして後世の私たちが何か作る時に、今からこの手の無機質を反復して、人のにおいを消す意味はあるのかという、今日的な疑問が起きるわけです。塩化ナトリウム99ではない、不純物の多い手作りの塩を求める舌のように。 |
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――Cに混じり込んでいる、作品の「存在意義そのものがわからない」的な次元に行き着きますね? ポロックの頃は、無機質作品が未来の先取りでした。ソ連のガガーリンが初めて宇宙へ出る日より、まだ前の時代です。しかしその後の文明社会は無機性を進めたので、美術の無機質作品は世相そのものとなり、「何を今さら」状態です。自分を消してモノだけ作って無言、それって今にとってクリエイトなの?、という。ここから先はこちらの問題です。 |
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――現代美術がひたすら奇をてらっているのも、問題としてはありませんか? それは逆で、芸術と銘打つなら奇をてらうのは本道であり、責務です。超優秀な画家と、芸術家の違いがそこです。ただ、どこを奇抜にするかが問題です。画家が野に咲く花の色素を採集し、絵に塗ったとします。従来と違う特別な顔料ゆえにニュース性が出ます。しかし、その顔料で引いた線自体が死んでいるとすれば・・・。顔料の成分で奇をてらうのではなく、線の表情で奇をてらってくれたらいいのに。 |
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―― 現代美術は、本当に無機質な作品が多いですよね? 現代美術が苦手な人からよく出る言葉に、「現代美術は無」「空っぽ」「ハリボテ」があります。そのありきたりの耳タコ言葉を聞いて、遅れた人の声だと笑って終われるのかと・・・。裸の王様を指さした一言と取れる余地もあるのです。 |
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――でも、画家が自分色を無理に出そうとすれば、白々しいヤラセ作品になりがちですが? それが、現代美術をはさみ撃ちにする、片方の難問です。ポロック以降の無機質をやめて、自分色を求め出すと、今度はフリのくささが入りやすくなります。80年代インスターレーションで、展示室に砂利を置いた、その置き位置の迷いや判断のあいまいさが、くさい作為に映った例もありました。「わざとらしさ」と「自然な感じ」の間で、ゆれてしまったのです。 |
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――何でもありの現代美術は、作るのが簡単なのか難しいのか、不思議なものですね? 無表情に、無味乾燥に、人間性を消す方が、作る側としては実はたやすいのです。「何でもあり」とは、技法と材料が豊富にある選択多岐のことです。しかしそれとは別に、人が何をする時でも後向きを振り切り、前へ攻める心のはたらきがあります。自分に挑戦すると、見る人にも挑戦するから、明るく清潔な感じのいい作品には収まりません。重く、暗く、かげってきます。鑑賞する人はそちらの奇抜さを見ないと、技法や材料の奇抜さに振り回されます。 |
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